八三 未来
「ちょうどよかった」
わたしはごく自然な声音で話す。「高志がいて防犯上もいいでしょうね。この方は佐々木さん。ご実家はあるけど、まあ、事情があって家では暮らしてないわ。そこの公園で凍死するところだったんだけど、目に余って――」
高志が俊敏に立ち上がり、突進するようにわたしから佐々木を離す。佐々木を玄関のドアに押し付ける(鋼鉄製のドアが大きな音を立てる)。
「それ、イエス様ごっこか? 女のひとり暮らしに浮浪者上げて、聖子、なに考えてんだ?」
高志は佐々木の顔をドアに押し付けながらいう。佐々木も当然痛がって、低いうめき声を出す。
「ちょっと、落ち着きなよ! 佐々木さんに抵抗の意思はないから。佐々木さん、ごめんね。ふたりとも、どこでもいいからとにかく座って。高志も過剰反応よ。あなたに見られて困るものは家に上げたりしないよ」
三人とも押し黙った。
佐々木が「あの、ご迷惑なら出ていき――」といいかけるや、高志は「物分かりがええな。じゃあ、今すぐ出てってくれんか、なあ。なあ!」と声を荒げた。
「ああもう、何なの。ひとの話すら聞かないのね、高志。わたしの意見を尊重するのがそんなに嫌なの?」
「――映画みたいな状況だな(わたしと佐々木は黙ったままでいる)。『ペイ・フォワード』みたいだ。たしかに一晩で出てってもらうんなら大目に見るけど、それがこのひとのなんになる? きょう凍死しなくても、あした凍死するだけじゃないのか?」
「そうよ」わたしはきっぱりと断ずる。「そうなの。あした死ぬのよ、このひとは」
「は――聖子、おかしくなったのか?」
「は? なんで? 意味わかんない。きょう凍死しなかったらあした凍死する。言葉通りよ。きょう凍死したら、あした得られる一切の希望も、可能性も、ぜんぶなくなるのよ。今夜一食だけ、一晩だけの宿で、たった一日だけ、延命できる。きょうの一日はこの先の未来や可能性、そのすべての前提条件なのよ。もしわたしが末期がんだったら、一日でも長く高志といっしょにいたい。一週間後、新薬ができるのかもしれない。高志もそう思うでしょ? 今日がつらいからあしたの命を捨てる、みんなこれに対して全力で立ち向かってるの。生きてる存在はぜんぶ、ね」
高志は佐々木から手を放し、「――あんた、何日風呂に入っていない」と質した。
「そ、その、携帯の充電が切れて、日付がよく分からないんです」
高志はため息をつき、「お湯ためるから風呂、入って」といった。佐々木は目に涙をたたえながら「お、お名前おうかがいしても――?」と訊く。「平松だよ。平松高志」とぶっきらぼうに答える。
「平松さん、ありがとうございます、ありがとうございます」
「な、泣くなって。困るよ――風呂入れるだけじゃない」
「ありがとう、高志。わたしのこと信じてくれたんだね」と、やっとコートを脱ぎながらいう。
「まあ、なんだ――今日死なれたら気分のいいもんでもないからな。それに――あした死ぬと確定されてるもんでもないし。今日生き延びたら、まあ、いいんじゃねえの」
高志がベランダに煙草を吸いに窓を開けると、雪が部屋に舞い込んできた。冬、か。
今までの冬なんて、寒く冷たいだけだった。この佐々木という人にとっての春の支度をする機会になれば、それでいいと思えた。
「石鹸はこれ使って。シャンプーやリンスはてきとうに。あ、でも固まった髪はまず石鹸でほぐしてからな。髭剃りはこれ、新しいやつ。湯はおれたちが入るときには張り替えるから、好きに使って。だから、湯は上がるとき抜いてな。タオルはこれで」
高志がてきぱきと指示を出す。佐々木をいちばんに湯につからせるのは、衛生上の問題だけでなく、アルコールの問題もあるからだ。
佐々木が風呂につかっているあいだ(浴室からはすすり泣きが聞こえた)、ふたりで手分けしてストックしてあった酒をすべて捨て、さらに空き缶や空き瓶もゴミ捨て場に不法投棄しに行った。「映画みたいだな」
「え?」わたしが訊き返す。
「『ペイ・フォワード』。こうして捨ててもどこかから探して飲んでるんだよ、その、アル中のひとは。ま、これで我が家の酒はぜんぶ消えうせた。料理酒もみりんもないからな」
ふたりで階段を上がり、家のドアを開ける。鍵は開いていた。ドアは、たしかに施錠した。わたしは一秒ほど硬直し、「高志!」と叫ぶ。しかし高志はそれよりも早く階段を駆け下り、「佐々木さん、佐々木さん!」といいながら通りへ出た。
わたしは部屋のなかへ入る。風呂にもトイレにも、ベランダにもいない。
「聖子、それ、なんだ?」戻って来た高志がのぞき込む。
「置いてあった――平松ご夫妻様」
「はあ?」
「これまで――」
『これまではいつ死んでも、それも運命と思っておりました。ですが奥様のお言葉にはっと目を覚ましました。これからタクシーで遠方の署へ出向き、無一文ですからその場でお縄にあずかります。家具を作るのは慣れております。その工賃でまずは両親への詫びとしよう、そう決めました。ただし今は届が出ているので、家には戻れません。宙ぶらりんのまま凍死出来たら、などと期待していました。お礼もできず申し訳ありません。ありがとうございます。佐々木信弘』
走り書きで投げ込みチラシに書かれた佐々木の手紙。
「な、何なんだよ、それ」高志が壁を叩く。「逃げてるだけじゃねえか。しかも犯罪だぞ、犯罪」いまいましげに部屋を眺める。「――悪い、怒っても仕方ないよな」
わたしは瞑目する。ごく自然に祈っていた。よかったね、佐々木さん。きょう凍死しなくて。ひとって、一回しか死ねないもんね。いい死に時がくるといいね、佐々木さんも、わたしも、みんなも。