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081 心境

八一 心境


「うち、やっぱ、高校も普通のとこ行ってないし――その、通信だったし。ふつうの四大なんて、無理だったんだよ(ティッシュで洟をかむ)。無理して明るく振る舞っても、やっぱ無理なもんは無理だったんだ。最近、なんかもう大学辞めようかな、とか考えてて。それで、考え出すともう分かんなくなっちゃうんだよね。なにがしたいのかとか、なにがしたくないのかとか、なにならできるのかとか」

 結局、準備室にはわたしと横山だけになった。まずいな。しかしそれは自分ひとりで解決することへの困難さからくる危惧で、わたしはかの女をどうにかしなくてはと懸命に頭のなかで画策していた。面倒を避けるより、解決を導くための苦慮だ。らしくもない。誰かのための自分がすり減ることなど、以前はなかったのに。でも、いまのわたしは違うようだった。

「横山さん」

 隣のかの女は無言だったが、涙をしきりに拭いながらも顔を前方にもたげたのでわたしは話しだす。

「少し聞いて。いまあなたがわたしに何を話そうと現状、解決にはならないし、わたしが何を聞こうとも、同じく変化はないと思う。でもね、わたしはあなたの話をいつでも聞く。だからいつでも、何でも話して。何を話しても、話した分だけ聞く。話したいこと、話したいだけ聞く。なんで、っていわれても――自分でも分からない。クリスチャンの性なのかもしれないし、そういう人間がクリスチャンになるのかもしれない。とにかく、いまはそうしたい気分だし、わたしはもともとそういう性格だったから。父さんが死ぬまではね」

「ショウちゃん――ショウちゃんって実は、やさしいひとだったんだね(わたしは小首を傾けて見せる)。でもね、こんな精神状態じゃ、やっぱ無理なんだよ。確かにそりゃ、高校時代は死に物狂いで学力だけはつけたけどさ」

「よくわかってるじゃない(再び机に伏せた横山は顔だけ動かし、怪訝そうにこちらを見る)。まあ、わたしも偉そうにいえた口じゃないけどね。人って、環境と状況、それと心境の三つで成り立ってると思うの。いまの横山さんって、心境の増(ぞう)悪(あく)が一番大きいんでしょ? それと比べて環境や状況の変化は少ない。だったら、精神状態さえ持ち上げれば学力や行動力とか、もともと横山さんが持ってるバイタリティは、自然と上がってくる。ね、横山さん?(かの女は顔を上げて聞いている)この心境の変化がなにに起因するか、その分析と対策でいくらでも持ち直すと思うよ、わたしは――だって、入ゼミの集団面接のときなんて、完全にあなたに負けたって思ったんだもの」

 横山は顔を上げ、「うちの心境の変化か。ああ――たしかに」と何かに気づいたような表情をする。

「でもね、ショウちゃんにはいまは話さない(わたしはかの女の方へ向き直る)。だって、ショウちゃんって、意外とそういうひとで、なんか先生みたい、って思った。うち、一時期は病院通いもしてたんだ。内緒だけどね。そのときの先生みたいだった。いま全部話さないのは、ショウちゃんがそばにいるってことで少し、保険になるかなって思ったから。あとは、本当は自分でももうちょっと、粘りたいって少し思ったのもある。挫折って、悔しいもんね」


 窓を見ると雪はみぞれに変わっており、地表へと矢のように降り注がれていた。

 このみぞれもまた雨にでも雪にでも変わるだろう。誰の肩であろうと分けへだてなく濡らし、凍えさせる。

 準備室での話のあと、一限の講義に間に合わせようとふたりで走った。途中、ふたりとも(防寒のための)実験衣を着たままであることに気づいたが、横山は「でもいいじゃん。そういうファッションだってことにしようよ」と笑って見せた(この時だけ、ふたりには『通常講義に実験衣で出てくる奴』という共通項が生まれた)。

 夕方、大講堂の練習にまで実験衣姿で出てきたわたしたちは、周囲に呆れられながらもお互いを指さし、肩をはたきあった。


『ひとりよりもふたりが良い。』新約聖書コヘレトの言葉四章九節にある言だ。その十一節には、『更に、ふたりで寝れば暖かいが/ひとりでどうして暖まれようか。』とある。自分ともうひとりの者――神や信仰、良識と換言するのが一般的かもしれないが、わたしと横山は、お互いにそうするものだと信じて大講堂にまで実験衣を着てきたことをあてがった。言葉で伝えられない気持ちはたくさんある。伝えようのない気持ちも同様だ。それでも、相手はこうするだろうと信じた行動が的中するとことも、ある。

 ある者がある者を互いに好きだと思っている。時間や空間の隔たりを置いてなお、再会した時も好きでいることは期待や願望、信念だろう。人に期待しない生き方は、つまるところその人からの愛を否定するということだ。高校一年のときの、初めて行った礼拝堂の説教を思い出す。――『神の愛を否定しない』。今ようやく、その意味が分かった。

 横山、か。もう少し、あと何年か早くに知り合っていてもよかったと、そう思った。


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