八〇 悲嘆
もう真冬といってもいいだろう。吐く息は白く、指先は凍え、体の動きは鈍り、低気圧は頭を絞めつける。その日は雪の日でもあった。
「じゃあお先ね。朝野さんも、早く帰ろうな」
先に帰る先輩ゼミ生に、はあ、とか、ええ、と生返事をする。流し読みするネットの情報は車窓を流れる景色だ。スクリーンを眺めてゆく間に冷たくなってしまったカフェオレのキャップをゆるめ、ひと口飲む。甘いとか風味があるとかは判っても、それ以上の感情は抱けない。
この格好で講義、受けられたらいいのに。今日のような陰鬱な日でも実験衣はあたたかい。身にまとう長い白衣はわたしを表す制服か広告塔のように、この理化学実験棟での学生生活に意義も意味も与えてくれる。
理化学実験棟の不動産価値は、この大学では高くも低くもないだろう。が、その中の動産価値は合計すると驚くほど桁違いの高値がつけられるはずだ。建屋には多数の理系ゼミがこれら精密機材とへ日夜、向き合っている。高橋ゼミも理化学実験棟で研究をし、またその深部へと引きこもっている。
理化学実験棟での『収穫』は、遺伝子操作を行なった供試種や供試苗である。その供試種などを育てる農学部試験農場は実地試験の場として機能しているが、冬のあいだは人影もまばらだ。しかし、霜の世話をしたりシートを張ったりで、冬でもそれなりに人手もかかるようだった。期末試験や卒業研究、大学院入学者選抜試験で、冬はどうしても手が足りない。となれば余裕のある一、二年生が農場に駆り出されるのだ。たとえば横山もそうだ。横山の姿は冬季定期演奏会練習のときは目にするが、それ以外、学内ではあまり見かけない。試験農場で忙しいのだろう。そう簡単に思っていた。
窓の外を見るともなしに見る。今日は雪が降っていたのだ。
自転車にも乗れず、またバイク通学の学生もダイヤの乱れた公共交通機関に切り替えるなどで慌ただしい朝だった。わたしは天候を完璧に予測し、かつ実験棟で自習でもしようと、暖房の効いた実験棟で朝の早い時間を過ごしていた頃だった。
各ゼミに通常一、二室が設置された準備室――要するに文系キャンパスの学生食堂まで行くのすら億劫な学生が食事を摂る控室――で、わたしはコンビニで買ったパニーニを食べていた。ワンルームの部屋でおなじような出来合いの朝食を同じように摂るにしても、光熱費などで結局は大学で食べた方が節約になる。もちろんほかの学生も似たような意図を持っていたが、わたしとかれらの違いは、人恋しさがあるのかどうかということに尽きる。アパートでも準備室でもわたしはひとりだ。やはり、馴れ合うつもりはない。その時は楽しくても、どうしても疲れるからだ。
うなりを上げるエアコンだったり、まあまあのスペックを持つパソコンだったり、それらを期待しての実験棟での朝食だ。本質的には図書館に入り浸っていた一年次の頃となんら変わりはない。
この朝、横山はめずらしく準備室にいた。この雪なら仕方もない。農場や大講堂ではなく、かの女は準備室でひとり(室内にはほかに数名の学生はいたが)コンビニ弁当を前に、祈りをささげていた。わたしは一席のあいだを置いて座るかの女の方をちら、と見る。長いな。朝食の祈祷にしては、長い方だろう。
「――ます」蚊の鳴くような声でそういい、かの女は洟をすすって箸を持つ。すぐに箸を置き、机に突っ伏してしまった。
「――横山さん?」
「ショウちゃん――はは、うち、もうだめかも、なんて思ったりしてさ。なんか、ふつうにしてても涙、止まらなくって」
押し殺した声で泣き出す横山に、室内にいた面々は硬直する。やがて男子学生が目配せして無音のまま出ていった。女子学生もおろおろとしていたが、不安げな表情のまま、やはり退出した。