七八 表現
十一月も終わりに差し掛かり、練習は静かに熱気を帯びていた。すでに客員指揮者が幾度となく全体合奏を指揮し、団員のなかでは早くもプレッシャーでミスを重ねる者も出ていた。しかしながら、幾度か(どんなミスがあっても進行を止めない)リハーサルに近い練習を重ねてゆくにつれ、一年生や、初心者の多い弦楽器群たちもかえって肝が据わり、ノーミスで通すようになった。
そもそもこの大学に設置された交響楽団は一般的なオーケストラと比べ、ごく小規模である。さらに、地方国立大学であるため、四年制大学や短期大学、専門学校などから団員が統合的に参加できるような、学園都市でみられるネットワーク網もない。よって、学内から吹奏楽部をはじめ、ジャズ研究会、応援団、さらには市民オーケストラよりエキストラを借りての演奏会となる。だれもかれもが気心知った仲でない。それでも――。
それでも、夏のあの日、わたしが初めて楽団でファーストオーボエを吹いたときのように、音楽の持つ非言語的コミュニケーションで疎通する。そういう人種の集まりなのだ。ただし、コンサートという型にはまった活動の経験があるかどうかは、別問題である。
「ではいったん、全員退いて下さい。――三、二、一、指揮者入ります。ブーケお願いします。もう一回退いて、二、一、再び指揮者。退いて――指揮者と弦、入ります。あ、コンマスもう少し悠然と――ええと、もっと偉そうに。そう、それ。指揮者合図でG(ゲー)線、はいG線終わり。全員退いて――はい、フルで入ります」
部長の田中がマイクで指示を出し、それに従って入退場の進行を確認する。
吹奏楽部ならともかく、ジャズ研究会や応援団のドリル隊にはコンサート、それも二管編成の本格的なオーケストラ出演の経験はなかなかない。
そんなかれらを待ち受ける最初の洗礼が「指揮者を見ること」だ。普段かれらは――ドリル隊ならカラーガード、ジャズ研究会に至っては己の勘だけで次の瞬間にどう演奏すればよいのかを判断する。よって、演奏技術でいうところ猛者揃いのかれらにしてみても、オーケストラは初心者だ。あの白い棒が動いているだけなのにダイナミクス、曲調、テンポ、指揮者の意図を汲み取らなければならない。オーケストラにしてもドリルやジャズ研のベテランは欲しい。しかしそのベテランであっても、タクトの読み方をまったく知らない場合もあるのだ。
タクトの読み方を学ぶために割く時間はない。二週間で完全にマスターしてもらう必要がある。それ以上に演目、中でも後半の交響曲をまるまる一曲、憶えてもらう方にエネルギーを傾注しなければならない。とくに大曲となれば何十小節と長い休符がスコアに散見される。その休みのうちにも、今オーケストラはどこを演奏しているかを確実に把握しなければならない。勢い、タクトの読み方にそうそう時間をかけられない。だが、中には何年もドリルやジャズコンサートの補欠に回る学生もいる。かれらは指揮の見方もスコアの読み方も経験があり、オーケストラでも通用する技術を持つ者もいるのだ。あとは、ドレスなりタキシードなりを着せて舞台に上がらせれば、その者は補欠ではなくなる。オーケストラの主力となるのだ。
学内外のエキストラの奏者へは、部長の田中らを中心とした事務方が窓口となって、声掛けやスケジュール、謝礼などの調整を一括して行う。
団が保有しない特殊楽器の最たるものであるハープ、およびハーピストはプログラムにドビュッシー編曲の『ジムノペディ』を演奏する可能性が挙がると同時に早々に押さえていたので、穴埋めという点では問題なかった。問題はその謝礼金だった。
オーケストラコンサートで使われるハープ、つまりペダルのついたグランドハープの価格は最低でも一三〇万円からとなるし、プロ用は普及品でも五〇〇万円程度は見込まなくてはならない。また(当オーケストラとは縁がないが)最高級品ともなると、一台で一四〇〇万円と、ほかの管弦打楽器より格段に入手性に乏しく、所有する団体も限られる。さらにいえば、ハープは演奏人口が極めて少ない楽器だ。オーケストラに属し、その給料だけで生活しようものならば、よほどの大規模オーケストラに入団しない限り極めて困難といえる。よって、奏者のほとんどはソロ活動――つまりフリーランサーとして、式場やエキストラなど、けして少額ではない依頼を受けて生計を立てている。つまるところ、エキストラ代の節約のために、楽器や奏者がそもそもいるのか分からない市民オーケストラなどに打診するより、最初からある程度の出費を見込んでフリーのプロを当たってゆく方が妥当なのだ。
しかし今年は違った。ハープとハーピストを隣県の音楽大学の学生へ依頼することができたのだ。プロやセミプロを謝礼も交通費、楽器運送費込みで招くはずでいたのだが、思わぬ節約となった。