七五 失意
九時だ。練習が終わる。
肩といわず背中といわず、まるで岩石を背負うかのように疲労がのしかかっている。楽器をしまいながらため息をつく。
木村たちは木管楽器のなかでもとくに秀でた技術とセンスを持っている。それはつまり、やりようによっては意地悪な練習もできる、そういうことだ。オーケストラの指揮は指揮者、協奏曲であればその独奏者、コンサートマスター(もしくはミストレス)、各パートのパートリーダーとその役割は下ってゆく。しかしながらもフルートは抜きんでて存在感の大きいポジションにある楽器だ。出番も多い。出番が多ければ多いほど、曲の中で支配権を得やすいのだ。したがってファーストフルートの演奏や身振り、足部管の動きが曲のテンポ、アーティキュレーション、ダイナミクスや曲想までをも決めることになる。吹く箇所の少ないバスーンなどではとても抗えない。
「うん、やめ」木村が構えを解く。「バスーン、そこもうちょっと音量出ないかなあ。ピッコロに消されてるし。あとオーボエ、ちょっとのっぺりしすぎじゃない? もっと歌おう? それからクラ、跳ねすぎ」
指揮台に上った吉川と正反対の解釈だった。
この練習が、練習になったのだろうか。
吉川も疲れた様子で楽器をしまっている。「ヨッシー」
かの女は楽器ケースをかちっ、と閉じ、「ごめん、ショウちゃん。今日はなんていうか、だめな日だわ」と苦笑いを浮かべ、「煙草、吸ってくるわ」と出口に向かった。
横山が談笑していたフルートパートから離れ、追いかけてくる。
「ショ、ショウちゃん、どこ行くの。待ってよ」
「ごめん、わたし待てないの。優先順位はそっちじゃなく、ヨッシーだから」横山の前を通り抜け、スマホだけジーンズのポケットにねじ込んで吉川を追う。高志が通路をふさぐようにして立つ。「――なにそれ。どいてよ」
「分かってるだろ。圧倒的な力量の差だよ。下手に慰められちゃ、ヨッシーも立つ瀬がない」
「ええそうね、はいはい、分かったわよ。じゃあヨッシーは、っていうか高志やほかのみんなは、あんな扱い受けても平気なの? おかしいと思わないの?」瀬戸や鈴谷たちは、けして遠くはない位置でなりゆきを見守っている。
「そうだよ」
「はあ?」
「ヨッシーは純粋に練習量の差で負けたんだ、人間性とか音楽性とかじゃなく。一日の――二十四時間のうちでの空き時間の少なさで負けた。慰めようがない。応援のしようもない。良い悪いじゃなくて、差があった。それだけだ。聖子がいまヨッシーにかけようとしてる言葉では、挽回しようのない差でね」
「そ、そんなの理由にならない。あんな、人格否定みたいなやり方はヨッシーだけじゃない、木管全体の調和を乱すのは目に見えてる。理由は何であれ木村先輩たちの――」
高志は掌をこちらにむけて制止する。
「じゃあ訊くけど、聖子は木村先輩の指示に従えたか? 瀬戸ちゃんも、鈴谷先輩も、おれも、あと吹奏の宮崎さんも、指示に従えてたか? どう? 対応できてたよね? どうしようもない、レベルの差。自分の実力不足で悩んでる人間には慰めや励ましはいらないよ。学指揮とパトリとファーストの兼務だし、ある程度仕方のないことかもしれないけどね」
頭の中がちりちりするような怒りとともに、この男への落胆の念が深く充満する。わたしはこの男の話を聞くにつれ表情を失くしていった。
かれは伸びかけた顎髭をさする。
「それじゃあ、どうしようもないっていうの」
「ああ、そうだなあ」他人事のようにいう。
「なにそれ。馬鹿みたい。そんな、オーディションばっかりの高校みたいなスパルタ精神がまだ残ってるなんて、もう、馬鹿みたい!」
いいながらわたしは右手を振り上げる。
「それとこれは別もんや」
大声がしてわたしは動きを止める。
鈴谷は叱責口調のまま続ける。
「朝野、お前知らんのか。吉川はな、オケが終わったあともぎりぎりまで市民オケで練習してるんやぞ。そんな実力主義者にどんな言葉をかけたらええと思う? ないやろ? わかったらさっさと片づけ、掃除。シングル・ダブルリードに関していえば次まで暗譜。それと、瀬戸と宮崎。何枚かCD聴いておくこと」
――ぱん。
振り上げた右手の持って行く先を失い、自らの太腿を打つ。
「くそが」
わたしは毒づく。