七四 反目
大講堂の扉を開ける。
「あ、ショウ――ちゃん」フルート女子三人組(いわゆる『お嬢様方』だ)と談笑していた第一バイオリンの横山がこちらに気づく。フルート三人組のうち、リーダー格の木村が小刻みに首を振る。そうすると横山はやや名残惜しそうな視線もくれつつ、四人でふたたび立ち話を再開した。
ゼミの集団面接からこちら、横山とはうまく会話ができそうになくて、わたしはかの女を避けていた。横山の方は気にかけている様子であったが、どうも気分が乗らないのだ。よいのだ、必要なことだけ伝達できれば。高橋教授の求めるような雑談ができずとも。
――雑談の存在しない世界だったら、どれほどの人間がそのエネルギーを温存できたであろうか。冗談も、ウィットも、世間話も、その必要は相応の負担となる。入学してすぐのころから二年次の春ごろまでを思い出す。今も純然たる機械のように、感情の機微を察したり、奥深いところの情緒まで考慮したりすることもなかったら、どんなに楽だろうか。
高志がいたからだ。高志がいたからわたしは変容した。
かれがいなかったらどうなるかなんて、想像もつかないほど根源的な問いのように思えた。生まれてこなかったらわたしはどうなっていただろう、などと問うほどにナンセンスだ。
「はいよ、おつかれさまでーす!」よく通る声。吉川だ。かの女は手を揉んだり指先に息を吹きかけたりしながら、ステージ下の席でバッグをどさっ、と置く。テキストやノートの類を、講義ごとにすべて自宅に持って帰っているのだ。だからかさばるし、重い。全講義を自宅学習している表れだろう。
「悪いんだけど、今日は全体なしで。ごめんね、あたしも顧問も都合つかなくてさ。パー練だけだけど、みっちりやろう」
パートごとに分かれての練習では木管楽器群は階段型教室の上の方を使い、ちょうどひな壇のように座奏や立奏での練習をおこなっていた。フルート三人組『お嬢様方』の指定席だ。普段はだれも近寄らないポジションに、吉川をはじめ、鈴谷、平松、瀬戸、および吹奏楽部から借用したバスーン奏者の宮崎、それからわたしというシングル・ダブルリードは階段を上ってすぐ近くで譜面台や楽器を置く。パートの垣根を超え、お嬢様方にこうも接近するのは、演奏会を強く意識していることを明示している。
「オッケー、木管。ちょっと聞いて。四十五分までパー練したら、今いる面子だけでも軽く合わせよう。通せるとこだけでも通したいから」
吉川が(木管に――だが実質的にはお嬢様方へ向けて)声を張り上げる。シングル・ダブルリードの結束は固い。だがそれ以上に『お嬢様方』も団結している。フルートのファースト、セカンド、そしてピッコロを担当するかの女らと、実際には舞台には上がらない補欠奏者たちもまた同様であった。唯一シングル・ダブルリードと異なるのは、フルート属には吉川を好ましく思う者がいない、ということだ。音楽性を異にした温度差などではない。単純に、かの女らは吉川のことが大嫌いなのだ。
吉川への敵意が著しい三人のお嬢様方は互いに目配せしたり、小首をかしげて見せたりしながら、
「ああ(含み笑いを浮かべる)。でもうちら、後輩たちの指導もあるし」と、語尾を伸ばした声で断った。
「は? 指導? ――定演まで秒読みじゃん」吉川はやや呆れつつ抗議する。
「そっちはどうなのか知らないけど、フルートはフルートで練習してたんだし。だから後進の育成にかけるだけの余裕もあるの。まあ、どうしても、っていうのなら別だけど(吉川に向かって頬笑む)――それにしても、CDでも流しながら練習した方が効率いいかも、ね?」
吉川は顎をくっ、と引いてお嬢様方のリーダー格、木村をにらむ。
「ねえ、学指揮もそう思うでしょ。今いる団員だけでうまくやっても、みんな遅からず引退するんだし。後へとつなぐためには指導、しなきゃでしょ? そりゃまあ、留年とかするんなら話は別だけど」
「ちょ、ちょっと待ってください。わたしなんてバスーンから転向して、これが初舞台なんです。フルートとの合わせがないと、やっぱりその、不安とか、調整不足も残るといいますか」瀬戸が尻つぼみになりながらも木村に反論する(わたしや高志、鈴谷、また吹奏楽部の宮崎は成り行きを静観している)。
「あはは、ごめんね、瀬戸ちゃん。パート内で転向してもまだ不安よね。合わせてみないとイメージできないような曲でもないんだけどねえ。でもやっぱりこれ、悪いんだけどさ、合わせの回数というよりパート自体が未完成というか、そういうものなんじゃないかな」
瀬戸が悔しそうにうつむく。木村がそれを見たところで「いいわよ、別に。あたし、今日空いてるし。なんだって付き合ってあげるわ、瀬戸ちゃん」と、吉川を見ながらいった。吉川の表情は硬く、両こぶしもきつく握られていた。