六一 熱量
次の日は講義が早く終わる曜日であったため、わたしは近場の内科に行った。内視鏡でも突っ込まれるのでは、と多少の気構えはあったが、実際は簡単なものであった。待合室で簡単なチェックシートの記入と、吐血や、嘔気や胃痛などの症状が最近あったことを問診表で答え、そののちしばらく待つよういわれた。看護師に呼ばれて診察室に入り、触診と聴診をされる。ラムネのような口の中で溶ける制酸薬を出された。いったんアパートへ帰る。医師からは、おそらく胃炎でいいだろう、との診断だった。
ふう、と息をつく。これで一件は片付いた。バッグの中に十四錠の頓服薬がある。胃に穴は作りたくない。酒には気をつけて、早く戻らなきゃ、いつものわたしに。
胸やけや胃痛のときに制酸薬を飲むとあっけないほどに奏功し、胃に不快感のない生活を取り戻した。ゼミのことは日を改め、吉川に相談した。
「どこでもいいんじゃない?」
わたしが自分の問題を過小評価されたかのようにしょげ返ると、
「途中で変わっちゃえばいいんだよ。あたしは違うけど、周りで転室する子もちらほらいるし。医と薬は長いからさ、ずっとやってるとゼミも興味の変化も、ありうるわけ」と吉川がいった。
「でも、一貫性とか考慮されない? 就活のとき、不利になりたくないな」他学科なら来ることもない医学棟のデイルームで、ミルクの多めなコーヒーが自分の手の中で冷めるのを感じていた。エネルギー保存の法則はここでは適用されないようだった。熱かったコーヒーは手の中でひとりでに冷め、わたしにはそのぬくもりは伝導されない。
「まあね、でも最初から完璧なゼミ選びはできないよ。そもそも、最初から完璧もゼミもないし。君子豹変じゃないけどね、方向性の転換はだれにでもあるから。しかもそれには勇気も覚悟もいる。平たくいってリスクね。面接官も、転室理由は訊くかもしれないけど、それはストレートに答えてもマイナスにはならないと思うよ」吉川は缶のブラックコーヒーを飲み、「ここ冷えるから、また練習のときに話そう。まあ、露出狂のあたしが悪いんだけどね」とホットパンツとサイハイタイツの間の素肌を撫ぜた。
練習のときにどういう風に訊こうか。まだ自分のなかで、なにをどう知りたいのかが定まっていない。いや、答えはすでに出ているような気もした。「研究内容じゃなくて、先生の人物本位でもいいんじゃない」と吉川は最後にそういっていた。「講義が面白い教官を追っかけてもいいと思うよ」