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058 吐血

五八 吐血


 吉川と飲むのは久しぶりだ。

 始終ぼんやりとしたままバイクの停めてある駐輪場に向かって歩く。夜の駐輪場へ向かう通路に灯りはなく、秋の虫がりんりんと鳴き、日没後の急な冷えは冬の気配をちらつかせていた。わたしはうつむいて歩く。「ショウちゃん」と先を行く吉川に声をかけられる。「下ばっかり見てると肩こりになるよ(わたしは顔を上げる)。そんな風に三十度も角度つけて下向くと、あんたの頭の重さ、十八キロくらいになるからね、あたしの計算だと」と笑いながらいった。「ヘルメットかぶってたらもっとだよ。ちゃんと前見ててね、あたしのショウちゃん」とお椀型のハーフメットを手渡す。

 吉川はフルフェイスヘルメットをメットホルダーから外してかぶる。ハーフメットで空いたシート下のメットインにバッグをしまう。わたしもリアシートに乗り、吉川の細い腰に手を回し、お腹の前で手を組む。「ショウちゃんと飲むの、久しぶりだね」とだけいってかの女はバイクを走らせた。

 制限速度が時速三〇キロメートルの原付一種と異なり、吉川のPCXは原付二種のため、道路によっては六〇キロまで出せるのだ。大学からアパートまではほんの数分である。途中、ディスカウントスーパーへ寄って酎ハイとビール、おつまみなどを買う。またPCXに乗り、吉川のアパートへゆく。五階のかの女の部屋に入る。

「てきとうに座んな。あたしもこれ、てきとうにあっためるから」といってスーパーで買った酒の入った袋を座卓に置く。わたしはすぐさま酎ハイを取って、開栓してごくごくと飲む(炭酸の泡があふれてジーンズにこぼれる)。電子レンジで唐揚げを解凍していた吉川は眉を上げ、「ちょっと、そんなに一気飲みして大丈夫?」と気遣う。わたしは息もつかずひと缶を飲み干す。ただちに手で口を押さえながらトイレへ駆け込む。廊下やトイレの床にも吐瀉物をこぼしながら、便座に顔をうずめて胃の中のものをすべて嘔吐する。

「聖子、あんた」すっかりやつれたような声で吉川がわたしの背中に手を置く(上下にさすると吐き気が強まることを知っていたのだろう)。

「み、水」苦労してそれだけいう。吉川がコップに注いだ水を受け取り、これも一気に飲む。横隔膜の激しい運動で肺がつぶされ、大きな声をあげて吐く。

「コーヒー残渣様吐物ざんさようとぶつ」と吉川はいう。

 わたしは肩で息をつく。「え?」

「あのね、吐いたものが真っ黒な場合、まず胃潰瘍が疑われるんだよ。胃とか、あとまあ、食道の出血はね、時間が経つと胃酸と結びついて黒くなるんだ。胃酸、つまり塩酸とヘモグロビンが結びついた塩酸ヘマチンの色。見た目がコーヒーかすみたいだから、コーヒー残渣様吐物っていうんだ。死ぬほど苦い味のゲロな。だからさ、あの、血を吐くくらい、いまの聖子には相当なストレスがかかってる。現段階ではその説が強い。とりあえずは寝て、少し安静にしよう」

 わたしはそれを黙って聞く。たしかにとんでもなく苦い。なおも吐き気がやってくるので、胃袋が裏返って口から出てきそうになるまで、なにも吐けないのに吐いて、吐いて、吐き尽くす。吉川は幾度もコップに水を入れてきてくれた。わたしはそれを飲む。「これ、血なの?」と便器にたまった黒いヘドロのような、あるいは大便のようなものを見て尋ねる。

「そう、吐血。といっても、あたしも自分の以外は見るのは初めてだけどね」

 しばらく(といっても二、三分程度だろう)便座に顔を突っ込んだまま吐き気を抑える努力をした。その間にも吉川は水を汲み直してくれたし、そばから離れないでいてもくれた。

 少し落ち着いたわたしをかの女はベッドに寝かせ、タオルケットをかける。だんだん吐き気も治まってきた。わたしが次第に回復する様子を認め、「悪い、二分待って」とベランダへ煙草を吸いに出る。

 吐血するほどのストレスがかかっているなんて、まったく知らなかった。胃を荒らすことはしていないつもりだった。酒も、コーヒーも香辛料も少ない方のはず。天井を見ながら、またみぞおちのあたりが陰圧になるような錯覚を覚える。

「どう? 大丈夫?」ベランダから戻った吉川に訊かれる。「でもわたし、刺激物もそんなに摂ってないし、暴飲暴食もしてないのに」か細い声で答える。

「暴飲はついさっきしたけどな。とにかく、そこらの内科でいいから一度診てもらおう。早い方がいい。市販薬飲むにしても、自己判断はおすすめできないからね」吉川はそういいながら酒の缶を(未開栓の吉川の分も含め)すべて片づける。「もう、ヨッシー。そんな病人扱いしなくてもいいのに。ちょっと血吐いただけじゃない」

 とうに解凍が終わり、電子レンジの中で冷めつつあるおかずなどをパックのまま座卓に並べ、ラップをかけていた吉川は「ショウちゃん。あたしが今なにをいいたいかっていうの、わかる?」と穏やかな口調で尋ねた。

 わたしは嘔吐による疲労で鈍くなった思考を巡らせ、「低脂肪じゃない普通の牛乳飲もう、とか?」と寝たまま答える。「まあそういうのもあるけど」吉川は一度大きく息を吐く。

「ばかやろう!」

 吉川の大声でわたしはびっくりする。

「なんでそんなになるまで自分の体こき使ってんだよ。あんたの代わりはひとりもいないんだよ? だれがずたぼろになるまで頑張れっていった? だれが? なんのために? 子どものころにさ、物を壊したら怒られなかった? 自分の体ならだれにも怒られないと思った? 念のためもう一度いうけど、聖子の、ばかやろう」

「なんで」

 なぜ、かの女は泣いているのだろう。

 かの女はベッド下に座り、寝ているわたしを抱きしめ、手を握り、小さく「ばか」といった。わたしは天井を向いたまま、胃痛がたびたびあったことや、ここのところの虚無感、無理をして生きていること、無理でもしないと生きられないこと、ぼんやりと考えた。「ヨッシー」

「あんたのこと他人に思えないんだよ。迷惑かもしれないけど。あたし、受験のときも期末のときも、カフェインの錠剤飲んで血吐きながら勉強してた。医学部には入れたけど、心療内科にも通うようになった。苦労なんてのは、美徳じゃないよ」

 苦労、か。わたしは目をつむり、自分は苦労していたのだと、今日この日までその自覚もないまま生きていたことを吉川に話した。高校二年の時のアンサンブルコンテストで遭ったスケープゴート、父の死、神を試すために理転して工学部に入ったこと、自分の人生を自分でコントロールしたいこと、そのどれもに失敗したこと、すべてについて時間をかけ、すべてについて詳細に話した。

 ベッドの下のラグであぐらをかいて聞き入っていた吉川は、最後まで話したわたしがため息をつくと、

「ばか」

 といった。


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