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052 証拠

五二 証拠


「おはよう、聖子」

 うん、おはよう、と返しかけて即座に言葉をひっこめる。「え、ちょっと待って、なんで? なんでいるの?」

 ひと呼吸、いや、それ以上のあいだをわたしたちはベッドで見つめあった。

「それ、まじ?(ひっ、といってわたしは大慌てで露わになった肌をタオルケットで隠す)ああ、まじか。そういうタイプだったのか」

 遮光カーテンの隙間から強い日光が室内へ入り、逆光になって目の前の男の輪郭を光らせていた。なぜここに高志がいるのか、いったいどういうことなのか。「ちょっと待って、考えるから」

 かれは快活に笑い、「いいよ、おれの聖子」と頭を撫でた。急にわたしは了解にいたり、「高志!」と抱きついて、ふふ、と笑って見せる。「聖子」「高志」「聖子」「高志」「聖子、これ、何回リピートするんだっけ?」

「死がふたりを分かつまで、かな」生まれて初めて使う言葉にわたしは照れながら笑う。

「なにそれ」かれは立ち上がってカーテンをしゅっ、と開く。「まぶしい」「当たり前だろ。もう十一時なんだから」

 ジーンズにTシャツという姿でベランダへ出たかれは窓をぴったり閉める。煙草に火を点ける音がする。わたしは今が十一時だということに困惑することもなく、満足な睡眠を得たのちの心地のよい朝だと判断した(この時刻をまだ朝だという場合に、との注釈はつくが)。用を足してうがいをし、姿見を見る。そういえば昨日はお風呂に入ったのだろうか。起きたときは全裸であったため、下着とその辺に転がっている服は身に着けた。ベランダから入ってきたかれを呼びとめる。

「高志、ちょっと確認したいんだけど」

「ゴムなら使ったよ、もちろん。エアコンつけていい?」頬や口もとの伸びた髭を撫でながらリモコンを探す。

「あ、そ、そうなんだ」わたしは目を逸らす。目ざとく気付いたかれが「ん、ほかになんかあったっけ」と訊く。「いや、その」わたしは口ごもる。

「え、なになに」おもしろい種明かしを期待するかのように無邪気な目を向ける。

「傷、わたしの傷、目立った?」と、伏し目がちにいう。深刻そうに聞こえてしまったかもしれない。「いや、別にいいんだけどね」と頭皮を掻いて取り繕う。

「盲腸の?」

「わたし、コーヒー淹れるね」座卓から立ち上がって電気ポットに水を入れる。

「気にしてるの、手術の痕」かれがやや気遣うように訊く。「もう何年も前のことよ」

 実家にいるときからから使っているマグカップ、百円ショップで買ったデミタスカップという、形も大きさも不揃いな二脚にコーヒーを淹れ、かれと座卓に並ぶようにして置く。かれはサンキュー、といってカップに口をつける。「質問です。人体の細胞の大半が入れ替わる周期は何年?」「約五年。ねえ、それなに?」「第二問、傷痕の細胞を構成するのは?」「膠原繊維。なによ、もう。朝からなんの話? あなた数学科でしょ?」かれの目の前で不機嫌にならないよう、早めにストップをかけた。「いま朝か?」とかれはへらへらと笑い、コーヒーに口をつける。

「五年たっても傷痕が残るって面白いよな。その膠原繊維がずっと補強してるんだよね。骨もそうだ。折れたらより強くなるし。これもだよ」かれはそういうと服をめくってお腹を見せた。

「これって」下腹部から正中線上を縦に走る二〇cmほどの手術痕。その脇に、虫垂炎の切除術と思しき痕がある。

「おれも盲腸のオペしてな。そしたらとんでもない藪で、腹膜炎になってさ。腹膜癒着っていうやつ? それなりにやばいやつ。でも生きてる。傷痕は病気やらなんやらに勝った証拠なんだよ。聖子の傷痕もそうだ。男子小学生みたいなこというけど、傷痕は勲章なんだよ。生きた証拠だからな」

 うつむいていたわたしを見てかれは「ていうか、昨夜あれだけ素っ裸だったのにさ、見えないほどの暗さじゃなかったのに。ぜったい記憶飛んでるよ、聖子」とけらけら笑う。黙って聞いていたわたしは、「わたし、盲腸もだけど、ほかにも傷があるの。別に悪いことじゃないんだよね。なんとか生きていった証拠なんだよね」と自分に念を押すかのようにいった。「わたし、トースト焼くね」と立ち上がった。

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