四六 不満
わたしは夏休みの間は計画的、集中的に団の活動と勉強を両立させた。平松も順調に文系科目を解けるようになっていた。
「ふうん、全問合ってるわね。英文解けるじゃない」
「実はおれ、学生だからな、本業は」
「ではひとつ質問を」
「はい、先生」夏の風はわたしたちのいる図書館の二階まで草のにおいを運んだ。
「どういう風にヨッシーと知り合ったの? いきさつが知りたい。オケで知り合って、付き合って、それであなた、すぐわたしになびくような浮気性なの?」
平松高志がわたしのアパートに来る可能性を考え、夏休みのキャンパスでいくつかの事前調査をしていた時の話だ(むろん自習の合間にではあるが)。このときは人生で初めて恋人ができるかもしれないということに少し浮ついて、恣意的に平松のいいところを見つけようとした時期だ(わたし自身、恋心のようなものも多少あったのかもしれない)。いくつかの意地悪な質問もしたが、その質問への答えの中からよい印象のものだけをやはり選択的に抽出していた。
「いきなりか。いつかは突っ込まれるとは思ってたけど、いきなりか」
「大事なことよ」
閉館時間も近づいた図書館は冷房も切られ、開けた窓から入る生ぬるい夜風がわたしたちの露わになった腕を撫ぜた。かれは汗ばんだ額を左手で拭い、その手をジーンズにこすりつける。かれはTシャツも背中にはり付いていることだろう。
「じゃあ逆に訊くけど」
「訊かなくていい」
「は?」
「あなたのこと知りたいの。あなたはわたしのこと、もう好きなんでしょ? なら、わたしの方があなたのこと知らなきゃ、なにも進まないじゃない」
自分でも意外なことをいってしまった。自らの目の奥が笑っているのを悟られないよう、睫毛を伏せ、隠す。
そこで一瞬の沈黙はあったものの、わたしはかれの口もとが緩むのは確認できた。
「それって」と、かれは嬉し気に話す。「なに?」
「い、いや、なんでもない。そうだな、ヨッシー――吉川先輩とは塾で知り合った。地元のな。ひどい田舎だよ? 積雪量の単位がメートルなんだぜ。まあそういう、人口も少ないところで知り合った。たまたまにしても奇遇だったな、同じ大学行くなんて。ちなみにそのころは全然だめ、まるきりだったよ。おれが高一の時、向こうは受験生だったから。二年生になったらヨッシー、浪人生じゃん。どこにも突っ込むタイミングはなかった。向こうは文字通り必死で勉強してて、おれのほうは勉強もジュニオケも適当にやってて。で、詳細は省くけどヨッシーがここに進学しました、はい次におれも入学しました、さあ、ようやくだ。ヨッシーの方から、あんた追っかけてきたの? って風にからかってきてさ。もともとお互いに好意はあったのかもね。そのあと付き合いだした。まあざっとこんな感じだな。聖子のことは一目惚れっていったが、実はもう少し複雑で、その説明は」
「ふうん」
「そう、って、なあ聖子」
「なに?」
「もう少しリアクションないの? ここは聖子がじゃあわたしも実は、って切り出す場面じゃない?」
「そういう認識はなかった。だって必要ないじゃない?」
「おれも聖子のこともっと知りたいんだけど、それって必要っていわない?」
「ふうん」
「またか、またなのか」
「わたし、帰る」
「え? どうした? なにか、怒った? でもなんで?」と平松はわたしの手を握る。「またあしたね」とわたしはその手をほどいて席を立つ。
アパートまで街灯の多い道を選んで歩きながら、この感情を一般的にどう呼ぶのか考えた。電話をかける女友達もいない(もとより友達などただのひとりもいないのだ)。酒を買う気分でもない。なにも大げさにとらえる必要もないのだ、吉川の話をするときの平松が楽しそうで、それが面白くなかっただけなのだから。「べつにわたしたち、恋人同士じゃないし」とつぶやき、部屋の鍵を開ける。
大切な話以外の話を重ね、わたしたちは恋人であっても、奥深い域には達さないままサマーコンサートと、その夜を迎えた。