二九 高揚
なんらオーディションも経ずしてオーケストラでオーボエを吹いたあと、わたしはきっと面倒だろうと見立て、ほかの団員とは会話せずに帰った。この日は、のちに何度となく乗ることになる吉川の白いバイクに初めてまたがった日だった。
夏の虫の音こそ威勢はいいが、節電で夜は真っ暗なキャンパスであった。明るい大講堂に慣れた目では一メートル先も見えない。消灯された駐輪場の灯りをぱちんとつけ、吉川は自分の白いスクーターに鍵を差す。セルを回しエンジンを始動させる。
吉川はシートを上に跳ね上げ、中からお椀型のヘルメットを出す。「ほら」と渡されたので受け取る(意外と重く、胴体で抱え込んだ)。かの女もハンドルに固定してあったフルフェイスのヘルメットをかぶる。わたしも顎紐をきつく締めた。バイクには生まれて初めて乗る。緊張がない訳ではない。身長一五四センチのわたしにはこのスクーターのリアシートは高い。ヘルメットはサイズも大きく、ぶらぶらさせた足もどこに置けばよいかもわからなかった。大通りの信号待ちからの、鋭い加速に後ろにのけぞり落ちてしまいそうになることも一度や二度、あった。しかし夜の空気をひゅんひゅんと切ってゆくのは本当に爽快で、今日一日がわたしにとりどれほどイレギュラーな日であったかを振り返ることも忘れさせた。かの女は道順も間違えることなく、住宅街の赤や黄色の点滅となった信号を通り抜け、あっという間にアパートに着いた。ここの四階なんです、といって別れた。まだ高揚感が残り、なにも手に付かずベッドへ腰かけ、母にメールをしていた。やがてうたた寝のまま意識を失った。
うつぶせで寝ていたからか、起きたら首が痛くなっていた。夏なのに重ったるい色をしているチャコールグレーの枕カバーに、自分の短い黒髪と、なぜか金髪があり、寝ぼけまなこに昨夜なにかしでかしたのでは、とぼんやり考えた。携帯のアラームが鳴って我に返る。しかたない、部屋に金髪が落ちていても。
急いで食事を摂り、シャワーを浴びて髪も乾かさずに出かける。
「おはよう」
走って着いた大学構内で(もう髪は乾いていたが、汗でまたしっとりとしてしまう)、金髪男――平松が呑気な挨拶をする。時間も余裕がなく「うん」とだけ答え、講義室へまたも走った。「ゆうべは無理させちゃったかな?」とだれかに聞かれたら必ず勘違いさせるようなことをいっていたが、最後まで聞かず講義室へ入り教卓の出席票を取った。
すべての喫煙所に「次年度より指定場所を除き敷地内全面禁煙実施」との掲示物があるが、それまでにわたしは肺がんにならないだろうかと憂慮された。気休めのマスクも猛暑のこの時期はつらい。なるべく呼吸を我慢する。
「あれ? せいこちゃん夏風邪?」と、講義室の前にあるベンチに陣取り、こぞって煙を吐いているうちの一人、金髪男が訊く。わたしと同じく心理学の講義に出るのだろう。
「平松さんね。昨日はお疲れさま。あなたも管楽器なら少しは煙草控えたら?」
「高志でいいよ。せいこちゃん気遣ってくれてるの? なんか悪いなあ、照れるなあ」と返すので、「煙いから離れてくださいって意味だけど、理解できないのね。まあ、わたしから避ければいいんだけど。じゃあ、オケで」と時計を見て講義室に入ろうとすると、後ろの方から平松の「オーケー、オーケー、オケ、オーケー」と歌いだす声と、それに交じってはやし立てる仲間の声が聞こえたので、可能な限り冷静になって速やかに講義室へ入った。
平松高志、か。
この時はまだなんの印象もない、いや、ただ煙く不愉快な通行人のひとりだった。その後、わたしはかれを殺し、かれはわたしを救う。これより半年後のことだ。