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025 見物

二五 見物


 夜の遅い時間だった。

 二年目となる夏の図書館はいつも涼しげで、静かだった。この日もテキストやノートを広げて自習していた。もうすぐ閉館時間だ。館内で勉強している学生もほとんどが帰り支度を始めているか、集中力が切れてパソコンでネットをしているかだ。

 そろそろ時間だ、と机のわきに置いたカシオの腕時計を見る。今日もよく生きた方だろうか。

 わたしのいる階段付近は吹き抜けとなっており、一階部分を見おろせた。金髪を整髪料で立たせた男子学生が今日の朝刊を広げている。わたしの視力はよい。一人暮らしなら、新聞を読めるのは図書館くらいのものだ。閉館の五分前、時間通り帰宅した。

 次の日の晩、わたしは休憩がてらイギリス人の書いたファンタジー小説の原書と、先日の楽器店で購入した管楽器専門誌『PIPERS』、それから『レコード芸術』を読んでいた。椅子の背もたれに深く体をあずけ、読書しつつ考え事をめぐらせた。結局、あのオーボエはろくに吹いていない。あのリードはもう寿命だ。しかし自分の楽器がすぐ手の届く場所にあるというだけでも安心するのだ。父の形見のようなものである以上に、練習すればいくらでも短期間で仕上げられる自信もあったからだ。

 いきなり背後から「いい趣味だね」と男の声がする。ハードカバーの小説をぱん、と閉じる(風圧で前髪がふわりと浮く。だれがどう見ても嫌悪のしるしである)。

 相手の顔を確認し(朝刊を読んでいた金髪男だ)、「のぞき趣味もなかなか高尚だけどね」と返す。

「いや、それもなんだけど、『PIPERS』と『レコード芸術』」と、予想とはやや違う点に言及したので「そう? なにか問題でも?」と簡潔に答える。

「いや、というよりむしろ問題解決の糸口、かな」

「わたしにとっての問題は図書館で絡んでくる不審者だけど」

「自分、吹奏やってたん?(金髪男は腕組みをして笑顔を見せる。あどけない、といってもよい笑顔だった)」

「はあ? 聞こえなかったの? それに質問の意図も理解できない」

「クラ? オーボエ? それか、バスーン?」

「あなた、一体なに? 用があるならいって、結論から」

「少しはこっちの質問にも答えてよ。まあ、面白いからいいや。オケでオーボエ吹き探してるんだよ。結論へは現時点、情報が少なくて到達できない」

「そう。ではわたしも結論から。音楽経験は中高と一応あるけど、だれとも音楽をするつもりは毛頭ない。そもそも楽器もないし。あなたのことも平たくいって邪魔。これで結論が出たわね、お疲れ様」と断言して荷物をまとめ、席を立つ。

「まあ怒るなよ。うち、演習やら実習でいろいろ穴空いててさ。オケ自体は平日なら六時半くらいから、文キャンの大講堂で練習やってるから、今度見においでよ」と立ち去るわたしを追いかける金髪男に振り向き、

「そのオケで日本語が通じるのならね」と揶揄した。

「オーケー、ウェルカム・トゥー・アワー・オーケストラ、ミズ・アサノ」

「は? 英語のつもり? 五歳児なみね。お姉さん帰るから、僕ちゃんもお帰り」

「五歳児ひとりで帰すか、ふつう?」

「——ディスガスティング、とだけいっておくわ」


 次の日、十八時五十五分を図書館で待つ。定刻になり、荷物をまとめて外に出る。図書館から大講堂への徒歩二分の間、オーケストラの練習を見物する理由を論述する、という課題を自分に与えた。なにも金髪男に誘われたからではない、自由意思に基づいたものだ。次第に緩む歩調を見て、わたしはいったいだれへ取り繕っているのかと自嘲した。

 楽器はバックパックにある。警備員のひとり目が出勤するような朝早くからキャンパスに着き、ひと気のない構内で新しいリードを試してみたのだ。ひらけた場所であったため、音響はアパートや楽器店と違って空に吸い込まれる。環境を変えての試奏でもリードは悪くない出来だった。加えて、三年のブランクもさほど大きくなかった。だが、それにしてもオーケストラとは関係のないものだ。

 大講堂へ着く。練習開始からすでに三〇分を過ぎていたが、しかし人もまばらに個人練習を行っているのみだ。なるべく目立たぬよう移動し、階段型教室でもっとも音のいい席に座り、基礎工学のテキストを広げる。

 なるべく団員を見ずに耳だけで評定を試みる。初心者の多い弦楽器は、やはりレベルの幅が広い。バイオリンやチェロといった楽器は中学高校での演奏人口はかなり少ないのだ。上手い者もいるし、しかしほとんどが素人か、他楽器からの転向組だろう。入団オーディションで自分の楽器に落ちたのだが、楽器を転向してでも入団したい、という強情なのか薄弱なのかよく分からない者たちだ。この際は弦楽器群には評価の必要はない。フルート、およびピッコロといったエアリードは競争も激しいのだろう、精練されているといってもいい。中高音の金管セクションは可もなく不可もなく、か。トランペットなど花形楽器は競争の高いセクションでもあるため、レベルも必然的に上がる。問題はシングル・ダブルリードだ。ソロの出番もフルートほど多くない。かつ過去の音楽経験などで、競争もさして激しくない環境から大学のオーケストラに入ったかれらの音は、わたしの耳には通用しない(ただし、クラリネットとバスーンには上級者の音があった)。この規模ならば編成は二管編成だろう。つまり、同じ管楽器はせいぜい二本ずつ、それに弦と打楽器を配したもっとも基本的なオーケストラだ。

「やっぱクラとオーボエが気になる?」

 後ろからあの声がした。

「どこから生えてきたの?」

「ずっと後ろにいたのに」

 わたしはボールペンの芯を意味もなく鳴らす。「いい趣味ね」

 金髪男はわたしの隣に座る。「座ってほしいとはいってないけど」

「楽器は?」

「実家。もう、あなた煙草臭いわよ。だれかと話す前には遠慮しないの?」

「楽器、まだ実家なの?」

「そうだけど、なによ」

「『まだ』っていうの、否定しなかったね」

 わたしは頭皮を掻いて四色ボールペンを握り直し、ノートへ向かう。

「楽器があっても吹く気はないわよ」わたしは短い髪をかき上げる。「で、あなた、パートは?」興味もないくせに訊く。

「クラ補佐のオーボエ代理」

「ひどいオケね」


 そうひどいオーケストラでもないかもしれない。金髪男はパートリーダーと思しき、長い黒髪の女性に手招きされ、「じゃあね!」とバッグを抱えて教室の階段を駆け下りる。譜面と楽器、リードケースを取り出してウォーミングアップを始めた。練習に出てきている人数も増え、それぞれ音出しをはじめるなか、クラリネットの澄んだ音に気づきテキストから視線を上げる。アタックは明瞭で、素直。深みよりもよく伸びる明るい音が特徴的だった。上手い方に入るだろう、とごく簡単に金髪男を評価した。高校時代のクラリネットの子を思い出した。あれも上手いクラリネットではあった。が、人格者ではなかった。

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