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022 楽器

二二 楽器


 講義を終えて、図書館での自習を早めに切り上げる。帰りにディスカウントストアで買った惣菜を持ってアパートの階段を上がる。買ったばかりの焼き餃子のにおいが食欲へ強烈に働きかける。父も餃子が好物だった。母が父のためによく作っていたので、わたしも自然と好むようになった。

「一応、荷物は受け取るよ。でもね」


 わたし、重荷はもういいの。


 狭い部屋の真ん中に置かれた座卓で目を開けたまま祈り、温めた惣菜や冷凍ご飯を食べているとドアホンが鳴る。テレビ代わりのパソコンが表示している時刻を確かめる。指定した時間ちょうどに再配達が来たようだ。冷蔵庫にマグネットでとめたネーム印を取り、息を殺してスコープをのぞく。いったんチェーンをつけたまま解錠してドアを開けると配達員が重そうに荷物を抱えていた。ドアチェーンを外し、配達員に礼をいって荷物を受け取る。その段ボールの箱はずしりと重く、わたしの腕力では座卓の脇に置くだけで精一杯だった。腰をやられるところだった。息を整え、しばらく開梱をためらう。宛名書きの母の字に図らずもなつかしさを覚えるが、即座に気のせいだと結論して手を洗い、食事を続ける。箸を運びながらも、ちらりちらりと段ボール箱に視線が向かってしまう。

「ちょっと待っててね」

 温めた餃子のパックに一度蓋をして、荷物を開けるために座卓を少し隅にずらす(夕飯も台所の調理台へ避難させる)。ペン立てから取った鋏を開いて片刃を使い、ガムテープに切れ目を入れ、中を検める。アパートには持ってこなかった品々――被服や缶詰や、アルファ米といった保存食、無洗米、それから楽譜と、ビニール袋で密閉されたうえ、緩衝材で丁寧に包まれたオーボエの黒いケース、中学高校と使ってきたリードケース、聖書、現金が三万円入った封筒、それとは別な封筒に短い手紙と白い小さな紙箱があった。なるほど重くなるわけだ。手紙の結びには「いつもの楽器屋さんで買ってきました。お使いください」とあり、白い箱を開けてみると、すぐにでも吹ける完成リードがパッケージで入っていた。

 半ば自動的にコップに水道水を注ぎ、五本あった完成リードをすべて入れて水分を含ませる。座卓に置いたオーボエとリードのコップに対峙する。

 音楽なんて、悪い思い出しかないのに。ただ、母と父の思いを無下にはできないから、と自分の好奇心を抑えられない釈明をする。

 オーボエ本体はいくら良い木材であっても、三年もノーメンテで経年しているのだ。管体への油脂分も欠乏し、保管場所によってはクラックが入っていてもおかしくはない。まずは管体の外観、そして内部を入念に点検した。致命的な異常はないように思えた。手早く歯を磨き、口もとをぬぐう。

 コップに浸漬した五本のリードのうち、一番良いものを選び、口にくわえる。舌先にある感覚が懐かしいのかなんなのか分からなくなる。このまま噛みちぎっても、あるいはオーボエ本体をへし折ってもだれも咎めようもない。ふと、そんな考えが浮かぶ。みぞおちの痛みを感じた。

 このメーカーの完成リードは評判も高い。高価なものだ。だが、母の思いは汲みきれない。あれだけ娘の心を乱した(一時期は不登校にもなりかけた)音楽へ、また進んでゆけというのか。リードだけで発音してみる。直線的できりっとした音に戸惑った。お前はそうまでして楽器を吹きたいのか、と。

 パソコンの時計をまた確認し、オーボエの上管、下管、ベルを組む。もう時間も遅いし。この安アパートの壁も薄い。しかし少しだけなら音が出てしまってもいいだろう。リードを取り付けた楽器がわたしという奏者の手にあった。ストラップを通し、姿見の前で構える。左手は正確に第二オクターブのラ――ドイツ表記でA音の運指をして、息を吹き込むためにすっ、とブレスをする。

 A音は鳴った。眠らせておいた楽器も、三年のブランクはたしかに感じられたが、かつてわたしがこの楽器を馴致していた事実に変わりもなかった。楽器を構え、奏者として立つ。それがどれほど素晴らしく、どれほど怖いかをわたしは理解していた。

 十五分ほど経ったろうか、隣人に壁を正確なリズムで五回叩かれ、わたしは楽器をしまう。座卓の上に柔らかなクロスを敷き、一緒に送られてきたキィオイルや精密ドライバーでできる限りのメンテナンスを施す。楽器をケースにしまい、餃子の存在を思い出す。

「冷めたな」

 温めなおした夕食を摂り、シャワーを浴び、ベッドへもぐりこむ。入眠はしづらかった。ベッドのヘッドボードのライトをつけ、聖書を適当に開いて読む。『神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が休まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた』。

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