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003 翌朝

三 翌朝

 服、どうしよう。あまりにもたくさんの事が短時間のうちに起きたので、いいかげん脳が疲弊してきた。どうやって家に帰ったのか思い出せないが、起きたときはベッドで眠っていた。一度目が覚めて吉川とLINEしていたような気もするが、よく分からなかった。ドアチャイムが幾度も幾度も鳴り、目を覚ます。吐瀉物まみれの服のまま玄関へと歩く。吉川がドアの向こうで「聖子! 開けてよう!」と泣いている声が聞こえ、施錠してなかったのでわたしはそのようにする。転がるように吉川は入り、わたしに抱きつき、そのままふたりでへたり込んだ。

「ヨッシー」

「ごめん、聖子。あたし聖子の心配もしないといけなかった」と鼻をすすって吉川はいった。

「何のこと?」と尋ねる。

「(吉川はうつむいて鼻をすする)わかった。ちょっとじゃまするよ」吉川は靴を脱ぎ、部屋に上がる(服はすでに着替えていたようだった)。

「え?」と玄関に座ったままでわたしは呆けたように吉川を目で追う。かの女の形相はいっとき険しくなり、やがて涙を流しながらぐしゃぐしゃの顔でわたしに抱きついた。「聖子?」

「うん」

「あのさ――いや、見当識って言葉くらいは知ってるよね。ここがどこで、自分がだれで、今どういう状況か」

「――はい?」

聖子座卓のティッシュで鼻を思い切り強くかむ、悪いけどあたし、ちょっと一緒にいるわ」まだ外も暗く、わたしたちはシングルベッドに潜り込んで仮眠をとることになった。一人っ子だったので、背中をくっつけて眠るのは高志に次いで吉川が二番目だった。服は着替えろといわれたのでその通りにした。エアコンもつけっぱなしにし、暖かい部屋の中でわたしはまた眠りについた。

 高志と出会って半年の出来事だったのだ。その半年で、永遠の別れが来るなんて。神の計らいか嫌がらせで、別れを予知できたとしても、わたしはあの時に出会った高志を愛しただろう。それはいまでも強く思う。


 高志はわたしと今日、死ぬはずだった。ところがわたしは夜を明かし、朝を迎えた。高志には永遠に訪れない朝を迎えた。

「ヨッシー、どこ?」

 トイレだよ、と間延びした声が返ってくる。わたしは安堵し、また布団の中へ潜る。今日は月曜だったか。起きた方がよいのだろう。でも、低気圧による頭痛が苦しい。が、出すものは出さねばならず、吉川のあとに続いて手洗いに入る。

「おはよう、聖子」手洗いから出ると吉川がカーテンを開けて待っていた。わたしはぽかんと口を開け――言葉を発するためなのか、言葉を探すためなのか、しかしそれのいずれにも挫折して、口をつぐむ。

「ねえ、ショウちゃん」吉川は疲れた様子で話した。「夢だと思いたいのかもしれないけど、事実、なんだよね。昨日の今日で混乱するかもしれないけどさ。あたし、バイク取ってくる。その間にショウちゃんは準備しといて。病院行こう」

「え、準備って?」

「――心の準備」

 ワンルームで二人とも突っ立ったまま黙り込む。わたしはぎこちなくうなずく。


 ふたりとも居酒屋にコートもブーツも置いてきた。代わりになるようなものを身に着け、吉川の一二五ccのスクーターの後ろに乗る。幹線道路を救急病院へ走る。なんの部屋なのか、プレートもなにも掲示されていない自動ドアまで看護師に連れられ歩く。看護師はネームプレートのICカードでロックを解除し、こちらです、と案内する。寒いが陰気ではない、白く清潔感の漂う空間であった。


 吉川は遅れて歩き、わたしのあとに控える。看護師がきれいに折り畳みながら覆布を取り去る。高志は白い着物を着せられ、両手をみぞおちのあたりで組み、鼻と耳からは綿球がのぞいていた。

 この時初めてわたしはかれの死を実感した。右手で触れたかれの頬はびっくりするほど冷たく、左手を添えてみて、死というものが体にしみこんできたのを今でも鮮明に思い出せる。わたしはなにもせず、高志の穏やかな死に顔を見ていた。きれいだった。なにもしゃべらずただ眠っている、高志の死は誰も覆しようがなく、永遠不変のものであるという意味で、かれの寝顔は完璧で神々しいようにも感じられた(後ろで吉川が吠えるように泣いていた)。高志は、平松高志はすべてから解放された面持ちで――あらゆる苦しみを地上に残して――天に召されたのだ。

 きのう、ふたりで死ななくてよかったのかもね。かれの死に顔に向かって心の中でつぶやく。

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