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002 急逝

二 急逝


 平松――平松高志、わたしの恋人が死に瀕していた。

 けたたましいサイレンが悪趣味なクリスマスキャロルのように近づき、救急車はかれをストレッチャーに乗せる。酒はなにをどれくらい飲んだかとか、何分ほど意識がなかったのか、蘇生術を行なったかなどを訊いて(そのほとんどを吉川が答えてくれた)、「だれかこの方のご家族か、親しい方は」と付き添いを乞うた。わたしと吉川が手を挙げ、病院まで走った。


 救急車内でかれはストレッチャーに乗せられ、体が見えるよう着衣を鋏で裁断された(北欧風の腕時計もベルトを切断された)。道中、医学科の吉川は口頭であの場の状況、処置など伝達事項を救命士に話した。が、乗り心地の悪そうなシートで次第にぐったりとし、病院に着くまでに幾度か袋に嘔吐した。


 上半身を露出させたかれにAEDのパットが貼られ、たびたびかれの体ががくがくと暴れる。かれの横で救命士は胸骨圧迫を施し、AEDが心電図を読み取るという旨のアナウンスのたびに、わたしに「下がってくださいね――下がって! 早く!」といい、肩で呼吸をつく。わたしはかれをじっと見る。吉川は袋を持ったまま泣き出す。機材という機材がビープ音を叫ぶ。当のかれは何事もないかのように「なに騒いでんのさ」と今にもいい出しそうだったというのに。

 それにしても足が冷える。居酒屋のサンダルで出てきてしまった。ブーツもなければ、コートもない。ねえ、コートなくて寒くない? 三人とも居酒屋に忘れてきちゃったね。真冬だもんね、寒いよね、車の中。

 見れば毛布のようなものは、車の端に積んであった。しかしそれを寒いからと自分へ頼むのも気が引けた。わたしはかれの顔をじっと見ていたが、寒さは変わらず自分の足の先が冷え切っているのを感じた(この時かれの体温がどれほどだったかまでは判断できなかった)。


 救急病院へはすぐに着いた。

 救命医、救急当直の内科研修医、そして看護師がかれに様々な器機を取り付けて、救命士からクリップボードの用紙を受け取る。ストレッチャーをがらがらと押して薄緑のカーテンの奥に消える。

 わたしと吉川はかなり酔いが回っていたし、市街地を猛スピードで走る緊急車両に乗っていたし、吉川にいたっては蘇生術も施していたりしたのだ。気持ちが悪い。今にも戻しそうだった。ふたりでぐったりとして長椅子でまどろみつつあったが、看護師から問診票を書けとか、保険証はあるかなどと、事あるごとに入眠を阻害された。それに大体、わたしたちは吐瀉物まみれなのだ。

 かれの死を告げられると吉川は泣き叫ぶし、かれのお母さんに電話したら電話したで半狂乱になるなど、こんな時にかれはなにをしているのだ、と内心かれを責めた。するとかれが困ったような、面目なさそうな顔をしてカーテンの奥から出てこないか、どこか期待しながらそれぞれのアパートへ戻った(靴は居酒屋のサンダルのままだった)。


 涙も嘆きも呪詛も出なかった。居酒屋での食事は十分な量だったので空腹は感じなかった。

 吉川は寝ているだろうか。時刻は四時半である。かの女にLINEしてみるとすぐに既読がついた。

「ヨッシー、起きてたの」

『まあ、寝られるわけないからね』

「高志、まだ帰ってこない」

『え?』

「高志、入院みたい」

『ちょっと待って、まだ飲んでんの?』

「わかんない。でも高志がいない」

『いや、待って。いや違う。待たなくていい。今からそっち行く』

「え? なんで?」

 最後に送ったわたしのメッセージには既読はつかなかった。

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