目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
ハッピーレクイエム
煙 亜月
現実世界現代ドラマ
2024年09月13日
公開日
99,383文字
連載中
『わたしはかれを殺し、かれはわたしを救う。これより半年後のことだ』——。
 
 誰とも馴れ合わず、無味乾燥なキャンパスライフを送る女子大生、朝野聖子。
 聖子の計画は遡ること二年前、父親が宴席帰りの列車内で死亡し、鉄道会社が巨額の和解金を遺族である聖子の母に請求したことに始まる。
 それはクリスチャンの聖子の信仰を打ち砕くに十分すぎるほどであった。

 神など存在しない。もしくは、驚くほどの怠け者なのだ。
 聖子は工学部に入学し、ふつふつとたぎる怒りを込めて勉学を深める。
 わたしは――ヒトクローンを造る。
 神の業を人間の手によって行なえば、神は神でなくなる。もし反対に神の逆鱗に触れたのちに裁きが下り死したとしても、なんら価値も意義もないこの世に未練など残すまい。これにより神の存在を、その意義を問えよう――そう思っていた。

 平松高志に心奪われ、なにもかもを許されるまでは。

 当初、平松は聖子の人生に関わるような人種ではなかった。正反対の人物だった。しかし時間をかけて平松の愛情と、大学オーケストラでの友情が凍り付いた聖子の心を溶かしてゆく。

 平松との愛は、出会って半年の間だけの命だった。その愛に今のわたしがあえて名前をつけるなら、

 ――『奇蹟』だ。

 亡くなった平松高志をこの身体に宿し、わたしは死へと近づこうとする――。

001 嘔吐

一 嘔吐


「よし、団員は注目。もう帰るやつもいるけどな、残すのは後悔じゃなくって思い出だかんな。俺はずっと裏方やった。でもな、いい四年間だった。感謝する――ああ、立っとると吐きそうや。ほな、次の人いこう」

 中締めを部長の田中が述べていたころ、かれはなにもいわずわたしの膝で眠っているはずだった。

「おい平松、なんかいえよ」部長がいい、わたしが頬を叩いてかれ――平松――を起こそうと試みた。まったく起きそうにないかれを見た田中は「しゃあないなあ、使い勝手の悪い奴やな。じゃあ、ショウちゃん」と、わたしへ視線が向けられる。「じゃあ、ってなんですか、じゃあって。これじゃあわたしだって立てませんよ」

 わたしはかれの寝顔を撫ぜる。幾分ひんやりとした肌。

「はあ、平松の介護はショウちゃん頼むからな」


 ここで、いや、もっと早く気づくべきだったのだ。

 唇が青い。強く平手打ちしても起きない。隣で飲んでいる医学科の吉川が注視する。吉川はがん、と大きな音を立てジョッキを置く。

「ショウちゃん! どけ!」

 わたしは驚いて身を縮こませる。吉川は寝ているかれの襟を掴み、右拳で思い切り強く胸を叩打した(かれの吐瀉物があたりにまき散らされる)。吉川はそのままかれの体を寝かせ、顔を右に向けさせる(かれの口からさらに吐瀉物がぼたぼたとこぼれ落ちる)。

「お、おい、ヨッシー?」「やめろよ、店の中だぞ」と制止する者もいたが、吉川は大声で「黙れ!」と一喝する。

 一瞬だけ静まる居酒屋の店内で吉川の舌打ちが聞こえた。

 ややあって騒ぎだす団員もいたが、まだ笑っている団員もいた。それらを尻目に吉川はかれ――平松の体も足も、真っすぐにさせるようほかの団員に指示する(吉川の叩打は休むことはなくかれの胸に浴びせられ、そのたびに吐瀉物があたりに飛散した。吉川はかれの顔だけねじって横向きにし(横を向かせただけで口に残る吐瀉物がぼたぼたと床にこぼれた)、座卓を乱暴に蹴って脇にやる。かの女はかれの胸に手を二秒かもう少し当て「くそ」と毒づく。

 平板な口調で吉川はいった。

「安東と木村、AED探してきて。赤いケース。除細動の。交差点の角のホテルにあると思う。三分経ったら見つからなくても戻るように。ショウちゃん、いい加減どいてね――早くどけっての、もう!」

 わたしはより一層状況を把握しかねた。周りの団員の理解力にもばらつきがあった。

 それとほぼ同時にそばにいた若い女の店員がトランシーバーでどもりながら人を呼んだ。その後店員は「あの――」とこちらに話しかけたが、吉川が今度は大声で「男子はテーブルとか、いいから早く、全部どかして」とがなり、かき消した。吉川はかれに心臓マッサージ――胸骨圧迫を施しはじめた(団員も事の重大さにようやく気づく。大慌てで座卓を隅にやる。グラスが倒れ、座敷から床に落ちて割れる音が響く。団員は騒然とする)。

「鈴谷と田中、ああ、田中じゃなくて木村、一一九番通報。救急です、っていって、できるだけゆっくり話したらいいよ。残りは全員、今すぐ一階に降りて」と、指示を飛ばす。わたしはこの出来事がまだよく理解できない。


 年かさの男の店員が階段を駆け上がってくる。泣き出した若い女の店員を脇にやる。「大丈夫ですか! 急アル? 一気したの? 意識は?」と矢継ぎ早に階段付近にいたトランペットの子に訊く。たちどころにその女の子が泣き出す。「もう! あたしだって泣きたいよ。ねえ、この状況わかる? わかる? わかんないならどいてよ。男子は通りに出て救急車の誘導。全員、本当に、頼むから静かに」


 確実にまずいことなのだと、団員は慌てふためき、その中で唯一の秩序は吉川の動きと、なににも動じずじっと座ったままのわたしであったように思う。「だれか、医でも看護でも、だれでもいい、ちょっと替わって。あたし吐きそう」との吉川がいい、看護学部三年次の男子が代わりにかれへの胸骨圧迫を続けた。吉川は完全に伸びて、「水」とだけいって、その場に嘔吐した(かの女の体には全身的に震えがみられた)。


「すごいゲロ」

 わたしはぽつりといった。

 見るともなしに見れば、かれや吉川のであったり、つられた団員のであったり、とにかく吐瀉物だらけであった。騒いでも仕方ないか。なにがどう仕方ないのかよくわからないけど。

「そういえば、わたし誕生日近いんだった」わたしはまたつぶやく。

 鈴谷という男子団員と、田中よりは酔っていない木村がその場で救急車を呼ぶ。「え? どうやって呼ぶん? やったことないし」

「ふつうに電話する画面の左下に緊急ってとこあるだろうが! くそ!」と胸骨圧迫を再開した吉川が叫ぶ(泣き出したり嘔吐したりと、ほかの団員もそこそこうるさかったので大声で怒鳴らざるを得ないのだ)。


 その場にいた人間総出で片付けられた店で、横たえたかれに胸骨圧迫を施している吉川の顔を見る(団員も店員も屋外へ出、救急車のために通行人を退かせたり、目立つところで立っていたりしていた)。

 なぜ吉川は泣いているのだろう。わたしはただ、かれの穏やかな寝顔をいつもの、たとえばわたしより先にかれが寝てしまった夜のようだね、と思った。わたしもかれと同じく、穏やかな気持ちだった。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?