終章
ペンキが以前よりもさらに剥がれてしまい、見るも無残なその門は、かつてたくさんの児童たちを招き入れていた。その門に手をかけて勢いよく足を持ち上げる。
「大丈夫か、捕まれ」
差し出された手を握り、無事に校門の内側へと降り立った。
正門から入って左手の石垣には、いまも焼け焦げた跡が残っている。その手前の花壇に朝妃の身長の二倍ほどに成長したモクレンが美しい花を咲かせていた。
「ハクモクレンだな」
「ハクモクレン?」
「ああ。モクレンでも紫の花をつけるシモクレンと白い花をつけるハクモクレンがある」
「やっぱり翠は詳しいね」
あれから二年と少しばかり経った。里峰中学校は結局、地元民の公共の場として開放されることはなく、古びた門は閉ざされたままになっている。雪解けのこの時期、うっすらと見える地面には雑草が生い茂っていた。
高校二年になった朝妃はいまもこうして時々、学校へ侵入している。菜子と愛奈未はブラスバンド部に入部して、土日も練習に励んでいるし、朝妃が立ち上げたミステリー研究会には残念ながら新入部員が誰も集まらなかったため、見かねた翠が「オレ入るよ」と言って入部してくれた。正式には部員数が足りないので「ミステリー研究同好会」として活動している。
あの事件の後、心に傷を負った朝妃たち四人は花蓮の遺影を抱えて卒業式に出席した。そこには柊慈の姿はなく、二年間担任を務めたあの男の姿もなかった。マスコミはこの奇怪な事件を面白おかしく報道し、ひっそりとした田舎町の名前が日本中に知れ渡ってしまった。責任を感じた団野一家は遠くに引っ越してしまい、山の中腹にあった柊慈の家は廃墟になってしまった。朝妃はそんな団野家が心配で、いまも結花とLINEで話をしている。結花は六年間の引き籠りを卒業し、弁護士を目指して勉強しているらしい。
「おかんがこの木を山口に渡したのは偶然なんだろうけどな。なんか生前の花蓮を見ている気分だ」
木下花蓮。木蓮はまさにあの麗しき少女のように儚く、強く、そして悲しい花をつけていた。
「なあ、朝妃知っているか」
「何を?」
翠が花壇の端を指さすとそこにはとげとげしい葉をつけた小さな木が生えていた。
「これって……」
「ヒイラギだな」
「……」
「本来は邪気を払う縁起のいい木なんだけどな」
朝妃はその小さな木をじっと見つめた。木蓮から五メートルほど離れたところに静かに佇むその木は、いまも亡きその人を思っているのであろうか。
ヒイラギの葉にそっと手を添えようとした時、人の気配がして正門の方を見ると、愛奈未と菜子がよじ上っていた。
「はあい」
華麗なジャンプで着地した愛奈未が右手をあげる。それに続いて菜子もジャンプするが、すべって転ぶ。
「あいたたたた」
「大丈夫⁉ もう、あんたは運動音痴なんだから」
「そんなこと言わないでよ」
口を尖らす菜子の手を愛奈未が引っ張る。
「二人とも、練習お疲れ様」
今日は土曜日で、午前中のブラスバンド部の練習を終えた二人は菜子の母親の車で帰宅したところだった。
「愛奈未は確かでっかい楽器吹いてんだろ」
「そうそう。チューバっていうやつ」
「お前にぴったりだな」
「何それどういう意味?」
翠をにらみつける愛奈未の顔は笑っている。
「そういえばさっき車で通ったとき、あれなくなってたよ~」
菜子の発言はいつも唐突だ。
「あれって何?」
「煙草の自動販売機」
「ああ……」
朝妃は結花の腕についた火傷の跡を思い出した。
「そうそう、やっと撤去されたみたい」
「まあ、でも結花さんが引っ越しちゃったからなぁ……」
翠は、結花の姿を思い浮かべているのだろうか、明後日の方向を見ている。
「いまはもう自傷行為はやってないみたいだから、体の火傷の跡も随分消えたみたい」
愛奈未がそう言うと、翠がほっとした顔をする。
朝妃は結花が腕と頬だけではなく、お腹や足、肩や胸にまで煙草の火傷の跡があると知ってぞっとした。結局はすべて柊慈が一人で行ったことらしいが、あの時、彼女が言っていたように、同じ苦しみを味わえばいいと思ったのだろうか。だから車に閉じ込めて焼き殺したのか。そして姉を庇いたくて、笹本の質問に最後まで答えなかったのだろうか。彼が逮捕されてしまったいま、その問いに返答する者はいない。
「そうだ、お前LINEで話しているんだよな」
朝妃と同じく、愛奈未もLINEで結花と話をしている。
「お前、結花さんとずっと会ってたんだよな。最初聞いたときは驚いたぜ」
「うん、ごめん。もっと早く誰かに相談してたらよかったのかもしれない」
十月のある日、愛奈未は弟の陸久斗がなかなか帰ってこないので、探していたら、山沿いにある公園で結花が煙草を自分の腕に押し付けているところを目撃した。慌てて腕を掴んで彼女の行為を止めた愛奈未はその日から、結花と時々会って話し相手になっていたそうだ。
「それにしても土屋のじいちゃんも頑固だよな。いまになってやっと自販機を撤去って遅すぎるだろ。柊慈が何度もお願いしたんだろ?」
「そうだよね……もっと早く撤去されていたら……」
柊慈は自分の姉が煙草の火で自傷行為を行っていることを知っていた。そこで、姉が煙草を買うことができないように、自販機の持ち主である土屋家に何度も撤去をお願いしたらしいが、聞き入れてもらえなかったそうだ。
本来なら、今時の自動販売機にはTASPOの機能がついていて、二十歳以上でないと購入できない。しかし、土屋家の管理していた自動販売機は二十年以上前のもので、そういった機能はなく、誰でもお金を入れたら購入できるものであった。
さらに花蓮の家庭教師をしていた土屋麻衣子は、花蓮のことを随分バカにしていたそうだ。「こんな問題も解けないなんて馬鹿じゃない」「脳みそ腐ってんじゃないの」などという言葉を浴びせていたことを花蓮から聞いた柊慈は、土屋家に恨みを持ち、第二の火災現場に土屋麻衣子の毛髪を落とした。髪は花蓮に頼んで入手したらしい。
その話を聞いた朝妃は、常に人のことを考えている柊慈の行動としてはかなり稀有に感じたが、それほど姉の結花を、そして花蓮を大切にしていたのだろうと自分に言い聞かせた。言い聞かせないと頭がおかしくなりそうだった。
「あ、そうそう。例のもの、持ってきたよ」
愛奈未が小さな紙袋を差し出す。
「お、ありがとう」
紙袋に入っていたのはスチール製のお菓子の缶だった。
「みんな何入れるの?」
愛奈未の質問に、朝妃が手に持っていた鞄から封筒を取り出す。
「手紙と写真」
翠は、上着のポケットから何やら黒い物体の入ったジッパーつきの小さな収納袋を取り出す。
「オレは髪の毛」
「えっ、キモイ!」
愛奈未が後ずさりする。
「そういえばツンツンヘアーは卒業したの?」
中学の頃ワックスで逆立てていた髪をいまはなでおろしている翠は、あれからさらに身長が伸びていた。
「こっちの方が似合うって美容師が言ってた」
すると菜子が笑って
「翠は美容院じゃなくてクリモトでいいよ~」と茶化す。クリモトとは、この町にある御年八十七歳のおじいさんが経営する理髪店のことだ。その笑顔を見て朝妃は安心する。あの事件の後、病院を退院した菜子だったがしばらく人形のように表情が固まってしまっていた。大好きな柊慈が逮捕されたという現実を受け入れることができなかった菜子はしばらく心療内科に通い、少しずつ自分を取り戻してきた。
「菜子は何入れるんだ?」
「えっとね……。これ」
菜子は一枚の紙を取り出した。絵を描くのが上手な菜子は全員の似顔絵を描いていた。そこには屈託のない笑顔で笑う柊慈と優しく微笑む花蓮の姿もあった。
「……うまいな」
「でしょ? 私、画家になれるかなぁ?」
菜子は東京の芸術大学を志望している。
「なれるよ。将来私が子どもを産んだら似顔絵描いてね」
そういう愛奈未は保育士を目指している。
「愛奈未は子だくさんになってそうな気がするな~」
「そうそう、十人くらい」
菜子の言葉に、「どんだけー」とツッコむ愛奈未。
「あれ、菜子、もう一枚紙持っているよね? それも入れるの?」
愛奈未に指摘されて、恥ずかしそうに菜子はその紙を背中に隠した。
「何なに? 気になるじゃん!」
「……絶対笑わないでね」
「うん、笑わない。笑わない。多分」
「多分って何よ」
翠がすかさず、菜子の背中に回る。
「えっと……何かの手紙か?」
「もう、勝手に見ないでよ!」
菜子がそっと背中から一枚の紙を取り出すと、それは花柄の便せんだった。
「柊慈へ」とボールペンで書かれていたが、その後が全くの空白になっている。
「いままで、多分五十回くらい柊慈に告白するために手紙を書こうと試みたんだけど、なかなか続きが書けなくて……」
「ご、五十回⁉」
愛奈未が驚く。
「うん、色々書いてやっぱりダメだってくしゃくしゃにしてしまったり、たった一言、好きですって書けばいいのに、それがどうしても書けなくて。今日の給食美味しかったね、とか体育祭かっこよかったよ。とか全然関係ないことばっかり書いちゃうの。……結局、一枚も渡せずに、他の便せんは全部燃やしちゃった」
その時、記憶の片隅に、翠が話していた言葉がよぎった。
「あ、だからあの時一斗缶で……」
翠も同じことを思い出したらしいが、途中で口を押さえた。
「その一枚はどうして残したの?」
愛奈未の質問に、菜子は黙って鞄からボールペンと下敷きを取り出した。
「これは今日書いたの。今日こそ葬ろうと思ったから」
「葬る?」
翠が首をかしげる。
「うん、いつまでもうじうじ片思いを続けるの辞めようって」
そう言いながら菜子は空白の便せんに、「大好きだったよ 菜子」と書いた。
「さ、これでおしまい。あーやっと書けたよ」
ひょうきんに笑う菜子の姿に少しだけ胸が痛んだ。
風が吹いて、モクレンの花びらが二枚ほど散った。季節は少しずつ、でも着実に春へと向かっている。
「朝妃も東京の大学志望だっけ?」
「うん……」
あと一年で皆、バラバラになってしまう。今日はこのモクレンの木の根元にタイムカプセルを埋めるために集まったのだ。
土を丁寧に掘り返して、開けた穴にスチールの缶を入れる。
「いつ開けようか?」
スコップを持った翠が問う。
朝妃、愛奈未、菜子が顔を見合わせる。
「……できれば柊慈も一緒がいいな」
朝妃が小声でそう言うと、菜子と愛奈未は黙ったままだ。
「……そうだな」
翠も小さくそう呟いて、スチールの缶に土をかけていく。
「オレら七十歳になったら掘り返そうか」
「随分先だね。生きているかな?」
愛奈未の疑問に三人はうーんと唸る。
「その頃にはきっと、昔のことはみんな水に流せてるんじゃないかな」
翠は再び小さな声でそう言った。その声は春の風にかき消されそうだった。
三月のまだ少し冷たい風はモクレンの花を揺らし、柔らかい陽光が四人の心を照らす。目を閉じるとたくさんの思い出がよみがえり、楽しいことも悲しいこともすべて受け入れて、いつかまた、この場所に全員が集える日が来ることを朝妃は願った。
「行こうか」
四人は再び正門へ向かって歩き出した。