第六章 その5
「うん、クリアボンドってホームセンターとかで売ってるじゃん。屋外用の水に強いやつ。あれをタイヤの溝に埋め込んでいけば、スノータイヤの
柊慈は上を向いてその様子を想像しているようだ。
「かなり大変だな」
「そうだね。細かい作業だね」
「それでスリップしたってか」
「うん、でもそれだけじゃなくてあの車には他のトラップも施してあった」
「トラップ?」
柊慈は部屋の隅に置かれていた古いクマのぬいぐるみを抱きかかえた。
「うん。松脂って分かる?」
「えーと……。松の木を触った時に手がべとつくあれか」
「そう。ハンドボールをやっている人が、ボールが汗で滑らないように松脂を手のひらに塗るの。だから一般人でも簡単に入手できる」
「で、その松脂をどうしたと?」
「車に塗りつけた」
朝妃の大胆な推理に柊慈は目を丸くした。
「えっ、塗りつけた⁉」
「うん、特に車体の下と助手席部分に」
「それはまたご丁寧な作業で」
「本当に。多分塗るだけじゃなくて、新聞紙に松脂をしみ込ませたものを車の下の部分に差し込んだりしていたんじゃないかな」
「まるで整備士みたいだな。車の下ってそんな簡単に入りこめるのか?」
「わからないけど、スバルのフォレスターは割と車高が高いから腕くらいは十分に入るはず」
「もしかして、それで車が燃えたと?」
「うん、その通り」
朝妃は部屋を見渡す。この部屋で何度遊んだであろう。トランプをしたりゲーム大会をしたり、お菓子パーティーをしたり、楽しい思い出がたくさん詰まった部屋だ。
「うーん、確かに松脂は燃えるけど……。でも火元がないんじゃないか? 石垣に激突した衝撃で発火したのか?」
「それは……きっと火元を犯人が打ち込んだんだよ」
「打ち込んだ?」
「そう。弓と矢を使って。きっと矢はカーボン素材の矢を使ったんだろうね。車の素材にも利用されているから、燃えカスからカーボンが検出されても不審に思われない」
朝妃は体の震えを抑えながら柊慈の目を見る。
「……つまり犯人はオレだと」
柊慈もじっと朝妃の目を見つめ返す。
「車の周辺に足跡がなかったことから考えると、恐らく渡り廊下から矢を放ったんじゃないかな」
「面白い推理だと思うけど、火のついた矢なんて放ったことがない」
「それは本当?」
「ああ、そんなの考えたこともない」
「じゃあ雑木林で見たあれは何なんだろう」
「雑木林?」
柊慈が手にもったぬいぐるみを強く抱く。
「うん、前にね、貫太ちゃんの飼い犬のもずくが散歩中に逃げて雑木林に入ってしまって、追いかけたの。その時、ブナの木に奇妙な穴がいくつか空いていて、その穴の周りに白い粉のようなものが付着していたのを発見した」
朝妃は目線を逸らさない。逸らしてはいけない。向き合おうって決めたから。
「白い粉って……」
「消火剤じゃないかな。つまり犯人は火のついた矢を放って狙いを定める練習をしていた。しかし、火が木に燃え移って山火事になったら
柊慈も目線を逸らさない。二人の視線が冷たい空気を切り裂いてぶつかり合う。
「すごいな。そんなことができたら」
「実際にあるみたいだよ。和歌山県の串本町で火のついた矢を放つお祭りがあるってネットに書いてあった」
柊慈はポケットからスマホを取り出して、検索する。
「本当だ。春を呼ぶ本州最南端の火祭り。望楼の芝焼きって書いてある」
朝妃は目を閉じて、静かにうなずく。
「おい、朝妃。オレが犯人だってどうして言い切れるんだ。練習したのなら他の誰でも可能だ。それにオレがあの日、花蓮を追いかけて家を出てから山口の車の衝突音が聞こえるまで十五分ほどだったはずだ。その時間オレが例え学校に向かったとしてもまだ到達していない」
「それも運動神経のいい柊慈ならきっと可能だと思う」
朝妃は震える手をもう片方の手で押さえる。その様子を見ていた柊慈が抱いていたぬいぐるみを置いた。
「オレの俊足でも走ったら滑って転ぶぞ」
「走っていない。家の裏の斜面を竹の
再び朝妃の視線と柊慈の視線が空中でぶつかりあった。
「あの斜面を? あそこは傾斜角二十度くらいあるぞ」
「そう。だから一気に滑り下りることができた。私なら途中で転んでしまうかもしれないけど、柊慈は運動神経がいいから……」
そこで突然柊慈が立ち上がった。
「いい加減にしてくれ。朝早くやって来たと思ったらいきなり犯人扱いかよ。それはすべて朝妃の頭の中で作り上げた物語だろう」
いつもは優しい顔をしている柊慈の見たことがない剣幕に朝妃は背筋が凍る思いだったが、歯を食いしばってぐっとこらえる。
「確かに何の証拠もない」
「だろう。だったら勝手にオレを犯人に仕立て上げないでくれ」
朝妃は、ポケットの中に隠したスマホの保留ボタンを押した。すると離れの扉がガラガラと開いた。
「お邪魔します」
入ってきたのは羽鳥と笹本だった。
「いまの話、すべて聞かせてもらったよ。確かにまだ証拠は出てきていない。これから君の指紋を採取させてもらおうと思う」
そう言って笹本が警察手帳を柊慈に向かってかざす。彼は突然現れた刑事二人に戸惑いの色を見せる。
「裕兄ちゃん……」
「久しぶりだな柊慈」
羽鳥も懐から警察手帳を取り出した。
「朝妃……」
柊慈が朝妃の方を見ると、朝妃はスマホを握っていた。
「ごめんね、ずっと通話状態にしていたの。いまの会話を聞いてもらっていた」
「君を疑うなんて本当はものすごく嫌だけど、犯人である可能性が捨てきれない」
羽鳥はそう言って警察手帳を再びスーツの裏ポケットにしまった。
「どうして……」
「あの山口を名乗っていた男の本名は
羽鳥の言葉に、顔をしかめる柊慈。
「君はあの男が姉を襲った強姦魔だと気が付いてしまったんだ」
朝妃は、結花を襲った犯人が自分の担任教師だったという話に驚きを隠せない。
「結花さんが襲われた日に押されたインターホン。録音されていた宅配便の配達員を装った男の声と、里峰中学の校長からもらった入学式のDVDの山口邦彦を名乗る男の声。この二人の声が声紋鑑定で一致した」
声紋。それは声を周波数分析装置で図に表したもの。いくら声を上ずらせても、わざと低い声を出しても本来の生まれ持った声の質は変わらない。
「どうしてあの男が犯人だと気付いたんだ?」
羽鳥の質問に鋭い視線を返す柊慈。
「ちょっと待ってくれ。裕兄ちゃんまでオレが犯人だと言うのか。指紋を採取って……どこに指紋が残っているんだ」
「そうだな。まず、十六日の車が炎上した現場付近からはたくさんの指紋が検出された。当然だが、小学校、中学校という場所だ。少人数とはいえ、不特定多数の人間が様々なものを触っている。二つ目の火災が発生した裏門や小学校の職員用通用口のドアノブからも多人数の指紋が検出された」
「じゃあ、もしその中にオレの指紋が残っていても、おかしくないってことだろう。オレはあの学校の生徒だ」
「もちろんその通りだ。しかし、木下花蓮が持っていたセロハンテープのカッター。普通なら木下花蓮自身の指紋が残っているだろうに、誰の指紋も検出されなかった。これはつまり、誰かが拭き取ったと考えるのが一般的だ」
羽鳥の言葉が狭い離れの和室に響く。
「じゃあオレの指紋を採取しても無意味なんじゃ……」
「そんなことはない。唯一指紋が残っていたものがある」
朝妃は息をのんだ。
「まず、先に言っておこう。二月十六日に宇都宮春樹を殺した人物。そして翌日の十七日に木下花蓮を殺した人物。この二つの事件は同一犯の犯行だと思われる。しかし、犯人は恐らく木下花蓮については殺すつもりはなかったんじゃないだろうか」
羽鳥の言葉に、柊慈は目元をぴくりと動かした。
「この犯人だが、十七日に木下宅を訪問した際になぜかインターホンの電源を切った。理由は不明だが、誰にも邪魔されずに話がしたかったとか。そんなところじゃないだろうか」
そういえば花蓮が亡くなった当日、翠が木下宅を訪問したが、インターホンが鳴らなかったと言っていたのを朝妃は思い出す。
「実際、警察が捜査に入った午後三時ごろにインターホンの電源は落とされていた。木下花蓮の母親に確認したところ、朝の時点ではついていたはずだと。もしかしたら犯人が消したのかもしれないと思って電源ボタンから指紋を採取したら、木下花蓮でも、千夏でもない誰かの指紋が出てきた」
朝妃はごくりと唾を飲んだ。羽鳥は、柊慈の目を捉えたまま淡々と話し続ける。
「犯行の後、犯人は痕跡を残さないために、セロハンテープや使用した鉛筆、床についた指紋などを綺麗に拭き取っていたようだが、インターホンのことをすっかり忘れていたようだな」
柊慈はひきつった顔をしているが、無言のまま羽鳥の言葉に耳を傾けていた。
「あと……木下花蓮の家を捜索した際に、あるものがなかった。もしかしたら犯人がまだ持っているかもしくは捨てたと考えられる」
「あるもの?」
朝妃が問う。
「トレーシングペーパーだ。犯人は木下花蓮の遺書を偽造するため、トレーシングペーパーを利用した」
トレーシングペーパーと聞いて、朝妃はすぐにそれが思いつかなかった。ペーパーというのだから紙なのだろうが、聞きなれない名前だ。
「中学三年の美術の授業で版画を彫ったはずだ」
そう言われて朝妃は思い出した。確か東海道五十三次の絵を版画で彫るのに、トレーシングペーパーを利用して、絵を写した。トレーシングペーパーとはとても薄い紙で、絵を模写する際に利用する。確かマスキングテープで貼り付けて、鉛筆で絵をなぞり、その紙を外して裏返し、6Bの鉛筆などで線の辺りを塗る。そして別の白い紙にその用紙を貼り付けて上からボールペンなどでなぞると、裏に塗られた黒鉛が紙に写るという仕組みだった。
「遺書が平仮名で書かれていたのはそのためだ。犯人は木下花蓮の部屋からノートをいくつか物色し、その中から一文字ずつトレーシングをした。
この時、『仲間外れ』や『死にたい』といった漢字は見つからず、やむを得ずすべての文字を平仮名で表記することになった。紙の上部にテープを剥がした跡があったのはそのためだ」
それで、あの遺書が出来上がったのか。部屋の中に石油ストーブを炊いているとはいえ、朝妃は急に冷や汗をかき始めた。
「筆跡というのは声と同様、その人の特徴が出る。いくら似せて書いても別人が書いた文字ではばれてしまう。そこで犯人は模写することを思いついた。我々が木下花蓮の家を捜索した際、机の中からトレーシングペーパーが発見されなかった。きっと犯人が持ち帰ったのだろう」
柊慈がため息をついた。
「インターホンの電源にオレの指紋がついているのは、花蓮の様子を見に行った際に玄関の扉が開いたままになっているのに、呼んでも返答がなかったから、不審に思って、インターホンの記録画像を確認しようとしただけだ。その時、間違って電源を落としてしまった」
「苦しい言い訳だな。そもそも木下花蓮が亡くなったのは絞殺だが、自殺の場合、果たしてマフラーなんか使うだろうか」
羽鳥も冷や汗をかいたのか、ハンカチを額にあてる。
「自分のそばにあるもので手っ取り早く首を絞められそうなものを選んだんじゃないか」
柊慈が吐き捨てるように言う。
「……彼女が使用していたのはバーバリーのカシミヤ素材のマフラーで、かなり柔らかい。首にくいこんで亡くなるまでを想像すると、もっと固いものや強度の高いものを使用した方が早く死に至れる。あのマフラーで首を絞めるとなると、よほど力の強い人物が使用したのではないか。と推測できる」
朝妃はその時の光景が目に浮かんで思わず吐き気がした。
「あの家にはガーデニングや畑仕事に使用するロープもあった。それに電気の延長コードなどもある。それを避けてマフラーで首を吊る選択をするのは、頭のいい彼女らしくない」
後ろで聞いている笹本は腕を組み、じっと羽鳥の言葉を聞いていたが、ここで口を開いた。