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第五章 その1

第五章 その1


 平成八年、里峰中学校の体育館では十五人の精鋭が、大きな声を出しながら練習に励んでいた。七月の体育館はいくら窓を解放していても蒸し暑く、汗が止まらない。


 榎本陽一はいつも通りランニングとストレッチを終えた後、二人一組でのパス練習を行っていた。相手は陸山肇はじめだ。

 ハンドボール部の中で一番背の低い陽一は、背の高い陸山がとても羨ましかった。陸山はまだ十四歳だが身長が百七十五センチあり、手足が長い。スポーツにおいてやはり身長が高いのは有利だ。

それにゴールキーパーを担当している団野仁志ひとしも身長百七十三センチ、体重は七十五キロでガッチリした体型をしている。身長百五十八センチの陽一と仁志が隣に並ぶとまるで親子のようであった。


 この頃の里峰中学校は全校生徒が八十名で、部活はバレーボール部、ハンドボール部、陸上部があった。

 バレーボール部とハンドボール部が体育館を使用するのに対して、里峰小、中学校には体育館が一つしかない。そのため、バレーボール部が体育館を利用する際は、ハンドボール部はグラウンドでの練習となる。


 屋外練習では全員真っ黒に日焼けして汗だくになっていたが、中学三年の夏の大会を最後に部活を引退するため、大会前のこの時期は皆気合が入っていた。


「声出せ声っ‼」

「おーっす」


 キャプテンを務めるのは相模原聡一そういち。副キャプテンは杉孝典たかのりだ。


「よーし、五分間休憩!」


 聡一の声で皆、一斉に水筒を求めて体育館の隅に集まる。


「お疲れ様」


 朋子が一人一人にタオルを渡していく。


「あっちー。体育館にエアコンつかないかな」


 陽一がTシャツの裾をまくりあげる。 


「教室にもエアコンねぇのに、体育館にはつかないだろう」


 肇が水筒のお茶をガブガブ飲んでいる。


「温暖化だよな」

「ああ、子どもの頃こんなに暑くなかったよな」


 仁志の言葉にキャプテンの聡一が

「オレらいまも子どもだろう」と笑う。


「十五歳は子どもか」

「オレまだ十四だよ」

「オレ明日誕生日だ!」


 孝典が何気にアピールするが、みんなお茶を飲むのに必死で無視をする。


「おいおい無視かよ」

「しゃあねぇな。オレの汗がたっぷりしみ込んだタオルでもやるよ」


 仁志が孝典に自分のタオルを手渡す。


「いらねー。オレ、朋子ちゃんのキスが欲しい」


 それを聞いていた朋子が「えっ」ととぼけた声を出す。


「私のキスは一回百万円だけど」

「ああ、くそー」


 朋子は男子ハンドボール部のマネージャーを務めている。可憐で気の利く朋子に好意を寄せている男子は多い。いや、全員といっても過言ではない。


「さあ、休憩は終わりだ」


 聡一が軽快にコートに戻ると他のメンバーも重い腰を上げる。


「五分って短いな」

「ブツブツ言ってないで、行くぞ」


 ハンドボールの試合は七人編成である。陽一、肇、仁志、聡一、孝典を含める十五人のうち七人はレギュラー、残りの八人は補欠である。

 二年生まで補欠だった陽一も三年からレギュラーになったが、体の大きな肇や仁志のようには活躍できていない。朋子にいいところを見せたい陽一は精一杯練習に励んでいた。


 中学三年最後の夏の大会、第一回戦は強豪の和田中学が対戦相手だ。抽選で当たったので仕方がない。


 試合が始まると、予想はしていたものの和田中学の猛攻にあっという間に陣形は乱れ、次々とゴールネットにボールを押し込まれる。それでも何とか相手のボールを奪い、パスを繋ぐ。小柄な陽一がちょろちょろと動き回り相手を錯乱し、肇と聡一がパスを繋いでシュートを投げ込むが、和田中学のゴールキーパーは大柄な仁志よりもさらに一回り大きくて、とても中学生とは思えないような体型をしていた。まさに鉄の壁である。


 結局、鉄の壁を破ることができず、試合終了のホイッスルが鳴る。負けた。悔しくて陽一の目から涙があふれる。


「ナイスプレイ」


 そんな陽一の背中を叩いたのは聡一だった。陽一だけではなく、孝典も肇も仁志も皆泣いている。中学三年間のハンドボール人生はこれで幕を閉じる。



 そんな懐かしい過去を思い出していた陽一は、思わずくすっと笑ってしまった。押し入れの中を整理していたら、昔の写真が出てきたのだ。ハンドボール部全員で撮影した写真と、ボロボロになったボール、そして最後の試合の後、朋子が渡してくれたタオルと松脂まつやに。色が褪せたユニフォームも捨てずにとってある。


「お父さん、ご飯だって」


 朝妃が陽一の部屋のドアを開ける。


「ああ、いま行くよ。朝妃、お父さんとお母さんの昔の写真見るか?」

「昔の写真?」

「ああ、中学の時の写真が出てきたんだ」


 朝妃は言われた通り、陽一が持っている写真を覗き込んだ。するとそこには翠にそっくりな人と、顔は柊慈に似ているが、体型がかなりがっちりした男の人。そしてあまり顔の変わっていない陽一と美人な女の人が写っていた。


「どうだ。お母さん、美人だろ」 

「えっ、これお母さんなの⁉」


 すらっとした体型にぱっちりした二重瞼。シャープな顎と高い鼻。言われてみれば、鼻と目は母にそっくりである。


「いまは随分とふくよかになったなぁ」


 確かに、いまは丸々とした輪郭とたっぷりお肉のついた頬で、せっかくの綺麗な目と高い鼻は目立たなくなっている。伸ばせばゴムのように伸びそうな二の腕と、柔らかいボールのようなお腹の上に、体型がばれないようなエプロンをつけている。


「お母さんって痩せていると美人なんだね」

「失礼ね。太ってても美人よ」


 ドアのところを見ると洗濯物を抱えた朋子が立っていた。この時期、外に衣類は干せないので、寝室にある室内物干しで洗濯物を乾かしている。


「洗濯物をしまいにきたら、何やらミス里峰中学校の話をしているのが聞こえてね」

「ミスって……そういやそんなこともあったなぁ」


 陽一が苦笑いする。


「ミスって? もしかしてミスユニバース的な?」


 朝妃の質問に朋子がぷっと吹き出す。


「そうよ。文化祭の時に選ばれたの」

「出場者たった四名だった気がするぞ」

「余計なこと言わなくていいの」

「そっか。昔はもっと人数が多かったんだよね」


 陽一が朋子に向けて写真を差し出す。


「懐かしい写真が出てきたから、見るか?」

「ああ、それは最後の大会の時の」


 朋子が陽一の差し出した写真を手にとる。


「いまと全く変わらないわね」

「いや、だから体重が……」

「今日の晩御飯、ナシでいいかしら」

「……すみません」


 朋子と陽一のくだらないやり取りを聞き流しながら、朝妃はボロボロになったボールを手にとる。


「ハンドボールってちっちゃいんだね」

「そうだな。片手で持てるくらいだもんな」

「何の話をしているの?」


 ドアのところに今度は悠妃が立っていた。


「あ、悠妃。お母さん昔は美人だったんだよ」

「だからいまも」

「え、写真か何か?」


 悠妃が陽一の部屋に入り、朋子が持った写真に目をやる。


「別人じゃん」

「もー! みんな今日の晩御飯抜きにするわよっ!」


 朝妃は、箱の中に入った古びた缶に目をやった。


「これは何?」


 その缶は手のひらにのるサイズの円柱状の缶だったが、かなり錆びている。


「あ、それは松脂まつやにだ」

「松脂?」

「そう、ハンドボールではこれを使うんだ。汗でボールが滑らないように手の平に塗るんだよ」


 朝妃は錆びた缶にぐっと力を入れて開けてみる。すると、中には黄色い樹脂のようなものが入っている。


「……ん?」


 悠妃が顔を出して缶の中を覗き込み、鼻をくんくんさせている。


「どうしたの悠妃?」


 悠妃の顔色がだんだん青くなる。


「この臭いだ……」

「えっ?」

「山口先生の車が燃えた時に嗅いだ臭い。これだよ」


 悠妃の突然の発言に、家族は顔を見合わせた。


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