第四章 その7
十日町署では、笹本が廊下に貼られた一枚の手配書を眺めていた。
「笹本さん」
羽鳥の呼びかけにふと笹本が振り返る。
「何だ」
「いえ、何をご覧になっているのかと思いまして」
笹本が再び壁に貼られた手配書に目線を戻すと羽鳥もそちらを見た。
「ああ、これは」
それは、朝妃が住んでいる町で六年前に起きた少女強姦事件の犯人の似顔絵の描かれた手配書だった。
一重瞼に小さな鼻、えらの張った輪郭で髪の毛は短い。年齢は十六歳~三十歳くらいと手配書に書かれている。
「まだ捕まっていないんですよね」
「ああ。こいつは一体どこへ行ったのだろうな」
「海外にでも逃亡しましたかね」
「ひとつ、仮説を立ててみたんだが……。もしかしてこの男が、山口邦彦を名乗っていたんじゃないか」
笹本は丸々とした顎を突き出し、手配書をじっと見つめる。
「えっ」
思いがけない話に羽鳥は言葉に詰まった。
「でも、履歴書に載っていた顔写真と全然違いますよ」
「ふむ……まぁそもそもこの手配書の顔が似ているのかどうかもさっぱりわからんからな」
手配書の似顔絵は、目撃者の団野柊慈の証言と、インターホンの画像から作り出した。団野家のインターホンは録画式になっており、宅配を装ってやって来た犯人の顔が映っていたが、帽子をかぶり、マスクをつけている上に画像が粗い。さらにインターホンに顔が映るのをできるだけ避けようとしたのか、映っていたのは殆どがその男の腕や胸のあたりで、数秒だけ映っていた顔も俯(うつむ)いており帽子のつばで目が隠れていた。
「でも、もしそうだとしたら犯人の特定ができるし、動機もある」
笹本の言葉に羽鳥はこの間、榎本家で朝妃から聞いた話を思い出す。
「それって……。犯人はもしかして団野家の人間だと……」
「姉を強姦した犯人が山口だと気付いた彼が殺した」
名前は伏せているが「彼」と断定している。当てはまるのは団野柊慈であろう。
僅か十五歳の少年が担任の先生を殺した? 羽鳥がうーんと唸っていると
「彼と言ったが彼女、の可能性もあるな」
「えっ、それは……」
「現場に落ちていた黒髪。団野結花がいまどのくらいの髪の長さなのか何色の髪をしているのかまで把握していないが、六年間も引き籠っているんだ。髪を伸ばし続けていてもおかしくない」
強姦の被害を受けた本人が、犯人を殺した。となると動機としては完璧だが、羽鳥は考えてもいなかった笹本の仮説に頭が追いつかない。
「ま、仮説はあくまで仮説だ」
と笹本が羽鳥の肩をポンポンと二回叩いた。その時
「笹本警部」
廊下を新米刑事の丹(に)川(かわ)が走ってくる。
「山口邦彦が暮らしていた部屋から採取した毛髪のDNAと、遺体のDNAが一致しました」
「そうか、報告ありがとう」
やはり車の中の遺体は山口邦彦を名乗る男で間違いなかったか。しかし、羽鳥は先ほどの笹本の仮説が気になって仕方なかった。柊慈のことも結花のことも昔から知っており、朝妃と同様、一緒に鬼ごっこをしたりサッカーをして遊んだ記憶がある。柊慈はやんちゃで無邪気だけど誰よりも周りのことを気にかけている優しい少年だった。あの柊慈が殺人なんてとても考えられない。それは姉の結花も同様で、いつもニコニコと優しい笑顔を振りまく華やかな女の子だった。羽鳥は混乱する頭のまま自分のデスクに戻る。
いや、でも待てよ。朝妃の話では山口の車が炎上した時、木下花蓮を除く五人は全員、団野家にいたとのことだ。柊慈が花蓮を追いかけて家を出ていったとはいえ、学校までは徒歩二十五分かかる。柊慈が山口を殺すのは不可能だ。と自分に言い聞かせていた。そうであって欲しいという願望もこめている。
ならば姉の結花が? いや、そうなると、団野家の人間全員が容疑者になる。柊慈の父も母も顔見知りだ。さらに離れて暮らしてはいるが、弓道の達人の祖父もいる。団野家の人間は全員優しいイメージしかない。
頭の混乱具合がひどくなってきたので、羽鳥は首を振って一旦いまの考えをすべて白紙に戻そうとした。
「オレって刑事に向いていないのかな……」
ポツリと独り言を呟いた羽鳥は、デスクの資料をまとめはじめた。
凛と張り詰めた空気が漂う。柊慈は目をつむってその空気を大きく吸い込んだ。気温は一度とかなり低温で肺の中に冷たい空気が一気に入り込む。目を開き、ゆっくりと弓を構え、矢を放った。……矢は的の一番外の黒い部分に刺さる。
こんなことをしている場合ではないと思いながらも、柊慈はもう一本の矢を取り出す。今日は二月二十四日。明日は受験の日で早朝から父に車で新潟市内まで送ってもらう。本来なら最後の詰め込みで勉強に励まなければならない時間だ。しかし、家で机に向かっているとあの日の光景が浮かんできて、集中できなかった。そこで無理を言って、いつも利用している魚沼の弓道場を借りた。精神を統一するため、柊慈は二本目の矢を放つ。今度は的の中心に当たる。
すべてを無にできたらいいのに。そう思いながら彼は三本目の矢を取り出した。