第四章 その6
愛奈未はその日例の場所にいた。時刻は午後四時。そろそろ辺りが暗くなってくるころだ。人気のない山の斜面にある公園の錆びた遊具は雪に埋もれており、ジャングルジムの上半分だけが顔を出している。
太陽を探してみるが、やはり今日も分厚い雲に隠れていて、どこにあるのか全くわからない。お気に入りのブラウンのダッフルコートと、白い毛糸のマフラーを巻いて、彼女は待つ。すると数分後、例の人が現れた。
その人はフードを深くかぶっており、身長は愛奈未とほぼ同じくらいだ。
「ごめん、待った?」
その質問に愛奈未は首を横に振った。
「待ってないよ。だいじょうぶ」
フードの下で女は小さく笑った。
☆★☆★☆★
榎本家のダイニングの机の上に大量のみかんが置かれている。
「お母さん、これどうしたの?」
悠妃が不思議そうにみかんを一つ手にとる。
「ああ、この間田中さんにスーツを貸したじゃない。そのお礼だって。田中さんだけは、私のことを無視しないで普通に話してくれるわ」
朋子は一週間、介護施設の仕事を休まされていたが、やはり人手不足なので来てほしいと言われ、久々の勤務を終えたところだった。帰りに、田中さんが大きな段ボール箱を持ってきて、「これ、お礼によかったら食べて」と朋子がいつも乗っている水色の軽自動車の荷台に乗せた。
「田中さんだけはってことは、他の人からは無視されているの?」
悠妃の質問に、朋子は「まぁ業務上の連絡とかは伝えてくれるけど、それ以外はねぇ……」と言葉を濁す。
「ま、でも時間の問題でしょう。きっとそのうち普通に話してくれるわよ」
と前向きな発言をする母に申し訳なさを感じる朝妃。
「あれ、朝妃、そこにいたの⁉」
朝妃はダイニングに入る扉のところに立っていた。悠妃と朋子は彼女の存在に気付いていなかった。
朝妃はダイニングの椅子に腰かける妹の元へ歩み寄る。
「悠妃も大丈夫? 学校で嫌味とか言われていない?」
朝妃がおそるおそる聞くと、悠妃はみかんの皮をむきながら
「平気だよ。まぁ正直ちょっと言われているけどそんなの気にしないから」
と淡々と答えた。
妹の力強い答えに背中を押されながらも、やはり悪いことをしたと未だに後悔は消えない。
「あ、そういえば」
悠妃が指でつまんだみかんを口に放り込む寸前で止めた。
「なんかいま思い出した。あの……ほら、山口先生の車が燃えている時に、なんか変な臭いがしたんだよね」
「変な臭い?」
朝妃は、ダイニングの椅子に腰を下ろす。
「うん、ちょっとすっぱいっていうのかな。みかんのようなレモンのような、でも全然違うような……。ツンとする臭い」
「ガソリンの臭いじゃなくて?」
「うん。ガソリンじゃないね」
朝妃も机の上のみかんを一つ手にとり剝き始める。
「これって警察に言った方がいいのかな?」
悠妃が首をかしげる。
「その時のことを思い出すの……辛いんじゃない? 大丈夫?」
思わず尋ねる。あの時、悠妃はショックでかなり泣いていた。
「うん……辛いけど」
すっぱい臭いとは何か。やはり朝妃はあの車の炎上は単にガソリンやバッテリーによるものではないと感じていた。例えば、可燃性の何かが車に塗られていた。または着火剤のようなものがエンジンルームに大量に挟まれていた。その「何か」がすっぱい臭いを放っているのだろうか。
朝妃と翠が現場に辿り着いた時には既に車は炎に包まれ、タイヤのゴムの焼き焦げるひどい臭いやガソリンの臭いがした。
犯人はどうして車を燃やした。山口を名乗る男を殺すためには、単純に衝突事故だけでは物足りないと考えたから? いや、そうだとしたら、そもそもどうして衝突することが分かっていたのか。
「このみかん美味しいね」
悠妃の言葉ではっと我に返る。いけない。推理し始めると我を忘れてしまう。
目の前の悠妃の笑顔を見ているとほっとした。あの事故のことがトラウマになって何日間も苦しみ続けるんじゃないかと思っていたからだ。朝妃もみかんを一房口に入れた。甘酸っぱい香りが広がる。
「ただいま~」
玄関のドアが開く音がして、陽一が帰ってきた。
「はあ、今日はスリップしてしまったよ」
「あら、珍しいじゃない。雪道バイクはお手の物なんじゃないの?」
朋子が食器棚からお皿を出している。
「いくらベテランでもやっぱり雪道は滑る滑る」
陽一は今年で郵便配達員十八年目だが、雪道でも配達のためにはバイクを使用する。車だけでは狭い路地などに入りにくく、郵便局員にとってやはり小回りの利くバイクは欠かせない。スタッドレスタイヤを装着しているが、二輪はやはり四輪に比べてバランスをとるのが難しくスリップもしやすい。
「いっそのこと、スキーで配達したらどう?」
朋子が夕飯のカレーをかき混ぜながら冗談を言う。
「クロスカントリー配達ってか。坂を下る時はいいけどのぼりとか最悪だな」
「じゃあサンタクロースみたいに、
「それなら、オレは毎日赤い服を……。ってこの辺りにトナカイはいませんねぇ」
陽一は冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを取り出す。
「寒いのにビールだけは飲むんだね」
「そりゃお前、あったかいビールは美味しくないだろう」
陽一はグラスを片手にダイニングテーブルに向かう。
家族は皆自分に気を遣ってくれている。と朝妃は思う。きっと職場では父も冷たい対応をされているのであろうが、そんな様子は微塵にも見せない。
「お父さん、ビールつごうか?」
朝妃の申し出に目を丸くする陽一。
「お、珍しいなぁ。さては何か企んでるな。受験に合格したからってブランド物は買わないぞ」
「誰もブランド物を欲しいって言ってない」
朝妃は陽一の隣に座り、缶ビールのプルタブを開けた。
「じゃあ、なんだ? お父さんの魅力に今更気が付いたってか」
陽一はダイニングテーブルに置いてあったリモコンを手にとり、テレビの方に向けたが、はっとして、ボタンを押さずに元あった位置に置いた。
やはり気を遣っていると朝妃は思った。テレビをつけると、今回の事件の報道が流れるかもしれないという陽一の配慮なのか、ここ数日榎本家ではテレビがついていない。娘二人が学校教師の死を目の当たりにしてきっと傷ついているはずだと陽一も朋子もそう思っている。
しかし、実際のところ報道では事故のことよりも、戸籍のない人間が公務員として公立中学校で働いていたことに世間は注目していることを朝妃はネットニュースで確認していた。
朝妃は陽一の目の前のグラスにビールを注いだ。
「お父さん、気を遣わなくていいよ。私も悠妃もさっき事件の話をしていたところだから。普通にテレビ見てね」
陽一はぐいっとビールを飲み干し
「ああ、そうか。お前たちは本当に強いな。お父さんだったら毎日うなされていそうだ」
と小さくハハハと笑った。
陽一が再びリモコンを手にし、テレビをつけるとちょうどバラエティー番組が放映されていた。なんとなくほっとする榎本家の四人。
「あ、そうそう、どうでもいい話かもしれないが」
陽一が切り出すと、朋子が炊飯器を開けてご飯を盛りながら「なあに」と問う。
「土屋さんとこのお嬢さんいただろ。ほら、東大卒の」
「ああ、麻衣子ちゃんね」
「あの子の家に今日配達に行ったんだけど、髪をばっさり切っていて、さらに茶髪になっていたから驚いたよ」
朋子は具だくさんのカレーをご飯の上にかける。
「そりゃ、女性なんだから髪も切るでしょうし、染めるでしょう」
「でも、いつも前髪も長くてなんか暗いイメージだったのに、急にあか抜けたなぁって。彼氏でもできたのかな」
「そういうことは詮索しない方がいいわよ。さあ、夕飯を食べましょう」
朋子が美味しそうなカレーを食卓に並べた。