第四章 その4
刑事課のデスクで書類をまとめていた羽鳥のスマホが鳴る。
「あ、朝妃ちゃん。うん、いまから? えーっと一時間後くらいでいいかな」
羽鳥が電話を切って立ち上がったところにちょうど笹本が通りかかる。
「どこか行くのか?」
「あ、あの里峰中学校の榎本朝妃が何か大事なことを思い出したそうなので、ちょっといまから行ってきます」
「大事なこと?」
「ええ。何でしょうね」
「すまんが私は一緒には行けないぞ」
「わかっています。一人で大丈夫です」
羽鳥は上着を着こんで、外へと出た。外は今日も雪がちらついている。吐く息が真っ白で思わず肩をすくめてしまう。
「うぅ、寒い寒い」
覆面パトカーの上に積もった雪を軽く手で払い、ドアを開けてエンジンを温める。
早く春が来ないかなと羽鳥は満開の桜を頭に思い浮かべる。ふるさとの春は、雪解けと共に山桜が鮮やかに咲き誇る。
エンジンが温まったのを確認して、アクセルを踏んで、署の駐車場から車を出す。
榎本家に辿り着いた羽鳥がインターホンを押そうとすると、車の音に気付いたのか、ボタンを押すより先に朝妃が玄関から出てきた。
「わざわざ、すみません。どうぞ」
朝妃に通されて玄関をあがると、ふわりと百合の香りがした。花瓶に生けられた花は朝妃の母親が用意したのだろうか。
榎本家は十年ほど前にリフォームを施したのでリビングは綺麗で、システムキッチンと、優しい色合いの木製ダイニングテーブルが並ぶ。
確か、朝妃が小学校一年生の頃には祖母がいたような気がするが、詳しくは覚えていない。
「コーヒーでいいですか?」
「ああ、悪いね」
部屋の中は静まりかえっており、彼女以外の人間の気配はしない。
「今日は、ご家族さんは?」
「父は仕事、母は買い出し、妹はまだ中学一年なので午後まで授業があります」
裕兄ちゃん、と元気いっぱい呼んでくれた幼い朝妃の記憶しかない羽鳥はよそよそしい言葉遣いに戸惑う。
「朝妃ちゃん、いつも通りでいいよ。改まって敬語を使われると緊張してしまう」
そう言ってわざと姿勢をくずした羽鳥の前に、花柄の綺麗なカップに入れられた熱々のコーヒーが置かれる。
「うん……わかった。じゃあいつも通り話すね」
「よろしく頼むよ」
時刻は午後二時三十分。窓の外は今日も雪模様だ。
「それで、思い出したことって何?」
羽鳥の質問に朝妃は一瞬目を逸らす。
「あの……実はそれは嘘」
「えっ⁉」
「ごめんなさい。そう言わないと裕兄ちゃん、来てくれないかと思ったから」
「嘘って……。でも何か言いたいことがあるから呼んだんだろ?」
羽鳥はコーヒーに角砂糖を一つ放り込みスプーンで混ぜる。
「うん」
「今回の事件のことだよね?」
「うん……あのね、裕兄ちゃん。山口先生が亡くなった次の日に私のクラスメイトの木下花蓮が亡くなったよね」
その時の様子を思い出す。羽鳥と笹本が現場に駆け付けた時、既に救急車が花蓮を乗せて出発した後だった。救急車には、柊慈が代表として付き添ったので、朝妃と翠、それに巻き込まれた良介おじさんが、木下家で呆然と待っている状態であった。
「あの……警察の方では山口先生の死も花蓮の死もどのように解釈されているのかわからないけど、花蓮は自殺じゃないと思うの」
彼女が自分と目線を合わせてじっと見つめてくる。その目には悲しみ、不安、そして何かの決意など様々な感情が垣間見える。少し目線を逸らすと、テーブルに置かれた朝妃の手が少し震えていることに気付いた。
「自殺じゃないとなると……他殺ってこと?」
「うん」
「どうしてそう思うの?」
「花蓮は……。花蓮はとても芯の強い子だった。夢を持っていた。もうすぐ東京の高校を受験して上京して……明るい未来が待っているはず。それなのに、あと一ヶ月後に離れる私たちに仲間外れにされたくらいで死んだりしない」
朝妃の表情は苦痛に満ちていた。
羽鳥はあの日、木下家で遺書を見た。白いA4のレポート用紙に平仮名で「わたしだけなかまはずれ しにたい」と鉛筆で書かれていた。
確かに違和感はある。中学校三年生の子が全文平仮名で書く理由はなんだったのか。しかし、人が死ぬ間際に冷静な判断などできないのでは。
実際、先輩からは、書きなぐったような文字の遺書や、これから死ぬことに恐怖を感じているのか、震えてガタガタになった文字の遺書も見たことがあると聞いていた。
あと、もう一つ気になることはあった。それは白い紙の上部にテープを剥がしたような跡があったこと。
気になることはあったが、亡くなる二日前にクラスメイトに悪口を言われたこと、その翌日、自分以外のクラスのメンバーが集まっているところを目撃したとの証言や、浴室付近から花蓮と千夏以外の指紋が検出されなかったこと。そして争った形跡がなかったことより、警察では自殺と判断した。
自殺だと判断したもう一つの理由に、木下花蓮のスマートフォンに残っていた履歴で、現在行方不明になっている教師の山口と木下花蓮が男女の関係にあったのではないかという説がある。
いくら人数の少ないクラスと言えど、個人的にLINEで繋がっていて、どこで何日に会うという連絡をとりあっているのは、生徒と先生以上の関係にあったからなのだろう。その先生が亡くなったという衝撃、さらにはクラスメイトからも仲間外れにされている状態だと勘違いしていた。この二つの理由が重なって自殺に至ったと考えると、十分あり得ることであった。
「なるほど。じゃあ朝妃ちゃんはその……花蓮さんが誰かに殺された可能性があると考えているんだね」
羽鳥の言葉に彼女が頷く。
「だけど……」
朝妃の表情がさらに険しくなる。
「だけど他殺の場合、私を含めたクラスメイト五人のうちの誰かが犯人ってことになってしまう……」
朝妃は唇を噛んでいる。そんなに強く噛んだら血が出るのではないかと羽鳥は心配になった。
「というと?」
「だって、花蓮が仲間外れにされたことを知っているのは私たち五人だけ……」
朝妃はいまにも泣き出しそうだった。テーブルに置かれた手が先ほどよりさらに震えている。
「なるほど……。確かにそうだな」
羽鳥は出来る限り冷静に答えた。自分は刑事であって私情を持ち込んではいけない。朝妃は羽鳥からすると、幼い頃、一緒に遊んだ記憶のあるいわば歳の離れた幼馴染のような妹のような存在だ。
「だとすると、犯人は遺書を書くことで、犯人である可能性を自ら示唆したことになるな」
「恐らく、これは私の推測だけど……。犯人は花蓮を殺すつもりはなくて、でも何らかの理由で咄嗟に殺してしまった。その現実を隠蔽するため、急遽、自殺に見せかけることを思いついたんじゃないかと」
なるほど。と頷く。
「でも……」
羽鳥はふぅ、とため息をついて、姿勢を直す。
「でも、それをオレに伝えるってことは、オレはこれから朝妃ちゃんを疑いの目で見なければならないよ」
「わかっています」
「どうして、自分にとって不利になる情報を教えてくれるんだ?」
朝妃は、俯き加減の顔をぐっと持ち上げて、羽鳥の目をしっかりとらえる。
「犯人を捕まえたいから」
しばし、榎本家のダイニングに沈黙の時間が流れる。
「たとえそれが大事なクラスメイトでも?」
羽鳥の質問に彼女はゆっくりと頷いた。
「そっか……。じゃあ、山口先生が亡くなったことについてはどう考えている?」
「それは、私にはわからない。でも、花蓮を殺した犯人と山口先生を殺した犯人が同一人物である可能性は捨てきれない」
しっかりした中学三年生だな。と感心する。
「山口先生も事故で死んだのではなくて他殺だと考えているんだね」
「うん。警察はどう考えているのかわからないけど、少なくても報道番組を見る限りは、事件と事故の両面から捜査しているって言っていたから」
「ああ……」
いくら刑事が内密にしていても、マスコミというのは一体どこから情報を集めているのか。と驚くことが多い。もしかしたらマスコミ関係の会社の上層部と警察の上層部はある形で繋がっているのかもしれない。そして、そのある形とは決して綺麗な関係ではないであろう。
「でも、そうなると矛盾が生じるの」
「矛盾?」
羽鳥は自分の前にいる中学生がまるで経験を積んだ刑事のように思えた。朝妃ちゃんはこんな子だったっけ? 羽鳥の記憶の中では無邪気に笑いながら、グラウンドを走りまわっていたり、妹の悠妃を無理やりおんぶしようとしたり、普通の元気な女の子だった。いつの間にこんなに成長したのだろうか。
「山口先生が乗っていたと思われる車のブレーキ音を聞いたのは五時十五分ごろ。さらに炎上したのは二十分ごろ。その時間、私たち五人は柊慈の家に集まっていた。五時ごろに花蓮が柊慈の家に現れて、去っていった彼女を柊慈が追いかけた。そしてその後、外に出た私と翠。愛奈未と菜子はその時まだ柊慈の家の離れの部屋にいた。柊慈の家から学校まではずっと下り坂で、どれだけ急いでも徒歩二十五分ほどかかる。雪がない季節は自転車で下れば僅か五分ほどで着くけれど、雪道でそれは不可能。当然だけど、私たちは自動車の免許は持っていない。となると、悠妃が燃えている車を発見した五時二十分の時点では私たち五人は学校には辿り着けない」
羽鳥は黙って朝妃の話を聞いていた。確かに柊慈の家は山道をかなり上ったところにあり、学校からは決して近いとは言えない。
「しかも悠妃が見た限り、車の周りには足跡みたいなものはなかった。タイヤ痕は残っていたみたいだけど」
「つまり、車に火を放つことは朝妃ちゃんたち五人には不可能だと」
「うん……。正確には花蓮も含めて六人だけどね」
朝妃は冷めたコーヒーを一口飲んだ。相変わらず彼女の手が小刻みに震えているのが羽鳥にも分かる。木下花蓮が山口を殺したという可能性についてはあまり考えていなかったが、朝妃に言われてはっとした。
「しかも、車の素材は鋼板、アルミ、カーボンが一般的。普通に燃やそうと思っても燃えない。車が炎上する場合はオイル漏れやバッテリーのショートで自動的に炎上することもあるけれど……。それにしても私が目撃した車は車体全部が燃えていた」
「朝妃ちゃん……」
「はい」
「まるで君の方が刑事でオレの方が事情聴取をされているみたいなんだけど、どうして車の素材まで知っているの?」
「それはネットで調べた」
「ああ……」
「裕兄ちゃん」
「何?」
「私がいまの捜査の状況を尋ねても、答えてくれないよね?」
「うーん、そうだね。基本的に一般人に捜査内容は教えられない」
「じゃあ、山口先生の正体も教えてくれないよね」
朝妃がじっと羽鳥の目を見つめる。その気迫に思わず負けそうになる。
「でも、きっとマスコミが嗅ぎつけて、報道すると思うんだ。だけど現時点でまだ報道されていないから、いまはDNA鑑定の最中かな?」
「……」
羽鳥はコーヒーを飲んで気持ちを落ち着かせた。本当に尋問されているようだ。
「山口先生、いや、山口先生を名乗っている人の焼死体もさすがに内臓の内部までは焼けていないはず。だから司法解剖で、内臓の組織のDNAが採取できる。そして先生は一人暮らしをしていた。きっとその部屋から毛髪か何かを採取して、そのDNAが一致するか確認中なんじゃないかな?」
羽鳥は冷や汗で脇の辺りが熱くなった。室内は石油ストーブが焚かれてとても暖かいが、そういう汗ではない。
「まぁそんなところだ。としか答えられないよ……」
また、しばし室内に沈黙の時間が流れる。
「そもそも、裕兄ちゃんがあの時、私のところに聞き取りに来なかったら花蓮は助かっていたかもしれないのに」
朝妃の冷酷な視線が突き刺さる。
「それは、二月十七日のことか?」
「うん、私と翠は昼の十二時半ごろ家を出て、花蓮の家に向かおうとしていた。でも裕兄ちゃんともう一人の刑事さんがやって来たから足止めを喰らったの」
羽鳥は思わず頭を掻いた。そうだ。十七日の午後一時から二時くらいが木下花蓮の死亡推定時刻だ。
「悪かったよ……。本当にそれはただの偶然だ。でも、もしその時間に木下家に行っていたら、残虐な犯人と鉢合わせていたかもしれない」
「私としては、花蓮が亡くなるくらいなら鉢合わせた方がよかった」
彼女の目は光を失っている。
「そんな……。下手したら三人全員殺されていたかもしれないんだぞ」
「殺す、ということは花蓮の死は他殺の可能性もあると分かってくれたって解釈してもいいかな?」
目の前の少女はまるでアンドロイドのように淡々と話す。唯一、彼女の手がずっと震え続けていることだけが、彼女が人間だと示している。
「私は、自分が容疑者の候補に入ったってかまわない。だから……花蓮を殺した犯人を捜してほしい」
朝妃の切望する目に、思わず大きなため息をつく。
「わかったよ。いま聞いた話はすべて上に伝えておく」
羽鳥が立ち上がってコートを着ようとすると、朝妃が「裕兄ちゃん……」と小さな声で呼ぶのが聞こえた。再び彼女の顔を見ると、頬を涙がつたっていた。
「悔しい……」
朝妃はそう言って、手で顔を覆い、泣き出した。
ある日突然、担任の先生を失い、クラスメイトを失った少女はやはりまだ十五歳の女の子なのだ。
「犯人逮捕に全力を尽くすよ」
「頼みます……」