第三章 その6
実際に人が死ぬ様子を見たのは、祖母が亡くなった時だ。病院のベッドで死後しばらく祖母の手を握り続けていた朝妃は、最初のうちまだ少し温もりを感じたが、だんだん冷たくなり、一時間経つと祖母の体温はもう感じられなかった。
昨日の花蓮も血色がなく、肌が真っ白になっていた。だらんと垂れ下がった手を握ってみたが、その皮膚はとても冷たかった。
「花蓮のお母さんはパートに出ていたんだよね」
「ああ」
花蓮の母の千夏は、その日、朝の九時半からスーパーでの仕事をしていたそうだ。家を出るまでは花蓮はいつもと変わらない様子だったと、昨日病院に駆けつけた千夏が嘆いていた。朝妃が花蓮の死体を確認したのは午後三時ごろ。柊慈は午後二時四十五分ごろに花蓮の家を訪ねたそうだ。そこで、首をつった彼女を発見し、慌てて降ろしたそうだ。
「マフラーで首を吊ってたんだよね……」
「ああ。風呂場のポールにマフラーを巻きつけてそこで……だ」
「花蓮をどうやって下ろしたの?」
「マフラーが固く結んであったからなかなかほどけなくて、キッチンバサミで切ったんだよ」
「花蓮の体はまだあの時点では柔らかかったよね?」
「そうだな」
人は死んだ後、約二時間後から徐々に死後硬直が始まる。あの時点では、死んだ直後って訳でもなく、二時間以上経過している様子でもなかった。つまり、朝妃が花蓮の死体を確認した際に、彼女は死後一時間程度経っていたんじゃないだろうか。そう予測する。
「花蓮の遺書って脱衣所にあったんだよね」
「ああそうだ」
「あの字……偽造にしては花蓮の字にそっくりだったよね」
「そうだな……」
朝妃も柊慈も小学三年の頃からずっと花蓮と一緒に過ごしてきたので、彼女の字を見間違う訳がない。だが、何かがひっかかる。
「どうして平仮名だったんだろう」
「それはオレも気になる」
あの遺書はいまどこにあるのだろうか。
「とにかく一度、聞き込みに行こうか」
「聞き込み?」
「ああ、昨日花蓮の家に誰かが侵入したのを目撃した人がいないか。怪しい人物を近くで見かけなかったか」
柊慈の提案で翌朝、聞き込みをするために家を出た。しかしこの日は天候が悪く、寒風が吹き荒れ、視界が悪い。柊慈の家から坂道を下った地点で合流し、二人で木下家へと向かうと、昨日と同じく家の周りには鯨幕が張られている。
鯨幕が雪に叩かれ、風になびいて波打っているのを一瞥し、近隣の家へと向かう。本来ならクラスメイトである朝妃と柊慈もこの葬儀に参列すべきなのだが、昨日、千夏に追い返されたので、とても木下家には近づけない。
「ごめん、こんな日に呼び出して」
「ううん、早く花蓮を殺した犯人を見つけたいもの」
朝妃はフードを深く被っているが、それでも顔面を冷たい雪が叩きつけて鼻先がヒリヒリ痛む。
木下家から五十メートルほど離れた一軒家にやってきた。インターホンを押そうと手を伸ばした時、雪かき用のスコップを片手に玄関から出てきたのは、顔なじみの秋山さんだった。
秋山さんは七十近い男の人で、春から秋にかけては米を育てている稲作農家だ。社交的で快活。地元の夏祭りでも先陣を切って
「秋山さん」
柊慈が声をかける。しかし、こちらを見た秋山はいつものような人懐っこい笑顔ではない。
「ああ、お前ら」
「あの……。木下さんのお嬢さんが亡くなった
柊慈の問いに、鼻をひくひくさせる秋山。
「おまんた(お前たち)。自分たちのせいでなくて、誰かが殺したとでも言いたいがん?」
「えっ……」
予想外の返答に戸惑う二人。
「おまんたが花蓮ちゃんをいじめたんろ。おやげねえ(可哀そうに)」
朝妃は目の前が真っ暗になった。そうか。私たちが花蓮をいじめて、それが原因で彼女が自殺した。恐らく昨日の通夜の席で千夏がそう言いふらし、町中に知れ渡った。この小さな町では情報が一気に広がる。
そこへ、秋山の嫁の里美が玄関から出てきた。
「あら、あなたたち……」
里美は吹雪で視界が悪い中、目を凝らしてこちらを見ている。
「里美さん。すみませんこんな日に。あの……、一昨日にこの辺りで不審な人物を見かけたりしませんでしたか?」
柊慈の質問に無言のまま何かを考えている里美。
「こいつが、自分たちが原因でねぇて、どうやら花蓮ちゃんは別の人物に殺されたって思っているらしいが」
「……そう」
里美は、肯定するでも否定するでもなく、ただ、吹雪の中に立つ二人の姿を真顔で見ている。
朝妃と柊慈は、完全に町の中で孤立していることに気が付いた。社交的な秋山といつも愛想のいい里美。二人の視線が今日は冷たく突き刺さる。それでも柊慈が食い下がる。
「花蓮さんは自殺ではなく、他殺だと思うんです」
すると、秋山は手に持っていたスコップを勢いよく雪に刺して、突然怒り始めた。
「責任逃れするな! 自分たちのやったことをしっかり猛省するんだ」
日頃穏便な秋山に突如怒鳴られた二人は思わず後ずさりする。
「仕方ない、一旦引き上げよう」
二人に軽く会釈をして柊慈と朝妃はその場から離れた。
「完全にオレたちが悪者だな」
「確かに私たちにも責任はあるけれど……あんなに怒った秋山さん初めて見た」
「くそ、オレのミスだ。あの日、花蓮を家に呼んでいたら」
柊慈が険しい顔をする。
「柊慈は花蓮と菜子が仲直りできるように考えていたじゃない。タイミングが悪かったんだよ」
「ん、ちょっと待てよ」
柊慈が足を止める。打ちつけるような雪で彼の被っているフードの上には大量の雪が積もっている。
「犯人が別にいるとしたら、なぜその人はオレたちが花蓮を仲間外れにしたことを知っているんだ……⁉」
「あ……」
朝妃はまた金槌か何かで頭を殴られたような衝撃を受けた。犯人は花蓮以外の五人で集まっていたことを知っている人。または花蓮が菜子の言葉で傷ついたことを知っている人。
「わ……私たちの中に犯人が……⁉」
吹雪のせいで表情がよく見えないが、柊慈が眉間に皺を寄せていることがなんとなくわかった。
「いや、オレたち以外にも知っている人間がもしかしたらいるかもしれない」
「えーと……」
「例えば、花蓮が誰かに自分のことを話した。それか学校でのオレたちの会話を別の学年の奴が聞いていた。とか」
確かにその可能性はゼロではないが、花蓮はあまり自分のことを人に話さないタイプなので、前者は違うような気がした。
「オレたちの中に犯人がいるなんて……考えたくもねぇ」
柊慈の言う通りだ。ずっと一緒に過ごしてきた大切なクラスメイトの中に犯人がいるなんてあり得ない。と朝妃は思う。
「朝妃」
「な、なに?」
柊慈はフードの下でどんな表情をしているのだろうか。ただ名前を呼んでそこで停止してしまった。
「どうしたの?」
「……決して疑うつもりはないんだけど、一応伝えとく。十六日の車の炎上事件があった日に裏門付近に長い髪が落ちていたそうだと小耳にはさんだ」
「えっ……小耳にはさんだって、どこで……」
「もしかしたらデマかもしれないけど、オレの母ちゃんが消防団の人から聞いたそうだ」
「……」
朝妃はセミロングで菜子は髪が長い、そして愛奈未はショートカットである。
「ごめん、伝えるタイミングを間違ったかな」
体の力が抜けていく、そういえば十六日に職員室で刑事に自分と悠妃が裏門に近づいたかどうかの質問を受けたのを思い出した。そうなると、いまの柊慈の話はデマではないのでは、と考えると朝妃は何も言葉を返せなかった。もしかしたら自分が容疑者の候補に入っているのかもしれない。何よりも、信頼している柊慈に疑われるのは耐え難い苦痛だ。
「帰ろう」
柊慈はそれっきり黙ったままで、朝妃は冷たい吹雪の中、絶望的な気分で彼の後をついていった。