第三章 その5
ひどい倦怠感で布団に倒れ込んで昼過ぎまで眠ってしまっていた翠は、目が覚めるとぼんやりとした視界のまま、枕元に飾ってある写真立てを手にとった。
六月に行った修学旅行の写真。佐渡島の綺麗な海をバッグに撮影された写真には、笑顔の六人が写っている。花蓮もほんのりと口角をあげており、昨日の出来事がすべて夢だったのではないかという気になってくる。
翠は写真の中の大好きな人を見つめるのが朝の日課になっている。その人は背が小さくて黒いつやつやの髪をしている。派手でもなく地味でもなく、キリリとした目が知性を感じさせる。
数秒間見つめた後、今度は隣に置いてある写真立てを手にとる。こちらには頬のふっくらした可憐な女の子が写っている。最高の笑顔でポーズをとっているその子はレースのついたまるでお姫様のようなドレスを身にまとい、高いヒールの靴を履いている。
そんな彼女は兄の髪の毛を触るのが好きだった。いつも「やめろ」と言うのだが、兄の髪をわしゃわしゃにして遊ぶのだ。
そんな可愛い妹に、翠は兄妹ながらも軽く恋心を抱いていたんじゃないかというくらい惹かれていた。いや、溺愛していたというのが正しいだろうか。
しかし、この写真を撮影した一週間後に葵は帰らぬ人となった。
事故だった。たまたま河原で綺麗なアオスジアゲハを見つけた葵は蝶に夢中になって足元を見ておらず、川へと落下した。
春は上流から雪解けの水が流れてくるので、川が増水する。
家族が目を離した数十秒間の間に彼女は川に流されて、下流で遺体になって発見された。その時も葵は桃色のかわいいワンピースを身にまとっていた。
悲しみに暮れる陸山家だったが、彼女の火葬の前にずっと伸ばしていた黒い髪を切って保管することにした。
彼女の仏壇にはいまも可愛い髪飾りがたくさん飾ってあり、仏壇の前のハンガーラックには当時のままのワンピースなどがかけてある。
ただ、翠には一つだけ気になることがあった。それは、川で蝶々を追いかけていた葵のすぐ近くに、花蓮の家庭教師をやっていた土屋麻衣子の姿を見かけたことだ。
勉強ばかりしているという噂の女がどうして川にいたのだろうか。ただ散歩をしていただけなのかもしれないが、七年経ったいまでも翠の頭の片隅でひっかかっている。
「葵、おはよう」
翠は写真に向かってそう声をかけ、立ち上がった。
花蓮のお通夜に参加できなかった朝妃は、家に帰ってきてからリビングのソファでぼーっとしていた。
「お姉ちゃん……大丈夫?」
今度は悠妃が朝妃の心配をしている。
月曜から臨時休校だというメール連絡があったが、いつまで臨時休校なのかという記載はなかった。テレビのニュースでは花蓮の件については一切報道されていない。
悠妃がホットコーヒーを入れて、朝妃の前に差し出す。
「ありがとう……」
花蓮は亡くなった。青白い顔をして微動だにしない花蓮を呼び続ける柊慈の声と、あたふたする良介おじさんの声が朝妃の頭で何度も反芻する。
「こんなものが置いてあった……」
昨日の脱衣所で柊慈が手に持っていたのは一枚の紙きれだった。そこには
「わたしだけなかまはずれ しにたい」
と鉛筆で書かれていた。
それを見た瞬間、頭をハンマーで殴られたような衝撃に襲われた。
もっと早く花蓮の誤解を解いておけば……。もっと早く菜子が謝っていたら。あの日、花蓮も柊慈の家に呼んでいれば。後悔しても花蓮が死んだ事実は変わらない。
中学三年になったばかりの春。花蓮と朝妃はたまたま教室で二人になった時があった。
「えっ、東京の高校を受験するの」
「うん」
「なんで? やっぱり都会に憧れるから?」
「……」
うつむき加減で少し頬を赤らめた花蓮はこう答えた。
「モデルになりたいから」
「えっ?」
花蓮の声はとても小さかった。
「モデル……になりたい」
恥ずかしいのだろうか朝妃と全く目線を合わせない花蓮は窓の外へ目線をやる。
「うわあ、ぴったりだね!」
花蓮がさらさらの髪を指でつまみ、朝妃の方をチラリと見る。
「ほんとにそう思う?」
「思う思う! 身長は高いし、美人だし、モデルになるために生まれてきたんじゃないかって思うくらい」
朝妃は日頃、あまり感情をあらわにしないタイプだが、この時ばかりは、花蓮がトップモデルになって活躍する姿を想像して、ワクワクせずにいられなかった。
「お母さんは複雑そうだけどね」
花蓮の家がシングルマザーなのを思い出した朝妃は、そっかと小さく答えた。
窓の外では見頃を終えた桜がひらひらと舞い、ソメイヨシノの木は葉桜になりかけていた。窓の外を眺める花蓮の顔はとても凛々しくて清々しい。
「違う……」
朝妃の消えそうな声に悠妃が反応した。
「えっ? ごめん、コーヒー薄かったかな」
「違う」
「ええと……そもそも飲みたくなかった?」
「花蓮は自殺なんてしない」
悠妃はソファーの上でダウンコートを羽織ったまま、真剣な顔をする姉の発言に驚いた。
「花蓮は自殺するような子じゃない。だって夢があった。モデルになりたいって夢をとても大切にしていて……」
「お姉ちゃん……」
朝妃は花蓮と過ごした日々を思い出す。言葉数は少なく感情をあまり表に出さない彼女だが、内面はとても強く自分の意思をしっかりと持っていた。
確かに花蓮を除く五人で集まっていた。それに、菜子の言葉で傷ついたのも事実であろう。しかし、そんなことで死を選ぶほど、彼女は軟弱ではないと朝妃は思う。
その時、ダウンコートのポケットに入れていたスマホが鳴った。柊慈だった。
「はい」
「朝妃、起きていたか」
「うん。ねぇ柊慈。私、花蓮は自殺なんてしないって思うんだ」
「どんぴしゃだな」
「え?」
「オレもいまそう考えていたところなんだ」
「やっぱり」
「誰かに殺された可能性がある。恐らく……山口先生を殺した奴」
「うん。私もそう思う」
「探そうぜ」
「……探すって、犯人を?」
「ああ。オレたちの大切な仲間を奪った奴を探そう」
朝妃は力強く「うん」と返事した。
「そもそも、あの遺書だっておかしくないか?」
昨日の遺書を思い出す。何の変哲もないレポート用紙に、鉛筆でメッセージが書かれていた。
「うん、なんで文字が平仮名だったんだろう」
「だよな。あとなんか、紙の上の方にテープかなんかを剥がした後があった」
「誰かが花蓮の遺書を偽造した」
朝妃はソファーから立ち上がった。
「えっと……。柊慈が花蓮の家に行った時って玄関の扉の鍵が開いていたの?」
「ああ、インターホンを押しても応答がないから玄関扉をひいてみたら開いたんだ。何度も花蓮の名前を呼んだんだけど、やっぱり返事がないからおかしいなと思って勝手に入らせてもらった」
昔からこの地域に住んでいるお年寄りなどは、玄関の扉を開け放ったまま外出することもしばしばあるが、花蓮や千夏のように都会で暮らしていた者が、鍵を開けっぱなしで外出することはまずないはずだ。
「誰かが侵入した痕跡とかなかった?」
「いや、特に普通だったと思うけど」
「誰かと争ったような形跡は?」
「なかったよ」
駆けつけた救急隊によって病院に搬送された花蓮は死亡が確認されたが、朝妃が脱衣所に駆けつけた時点で既に花蓮は死後何時間か経過しているような気がした。