第三章 その4
朝から再開された鑑識班による現場検証に立ち会い、学校の内部を隅々まで調べていた羽鳥だったが、学校の中からは特にこれといった怪しいものは見つかっていない。さらに指紋の検出は学校ということもあり、不特定多数の指紋があちこちから検出された。当然と言えば当然だが、中学校の職員通用口のドアノブからは、中学校の校長、教頭、教務、そして教員全員の指紋が検出された。そして小学校の職員通用口のドアノブからは同じように小学校の教員の指紋が検出された。その他無数の指紋も検出されたが、小学生がふざけてドアを開けようとしたなどで触れる可能性も十分にある。
昇降口の扉やその他教室の窓などの指紋も調べられたが、すべて不特定多数の指紋が検出されるのみであった。
そして、第二の火災があった焼け跡から出てきたUSBメモリースティックの解析については、焼け焦げて変形してしまっているため、解析は厳しいようだ。昨日はあった多人数の足跡も、昨晩雪が降ったため、新雪によって消されてしまった。
羽鳥は、車の助手席で思索にふけっていた。先ほど榎本家を訪れて、再度、朝妃と悠妃、そして偶然居合わせた翠から昨日の状況を聞いていたが、昨日聞いた内容とほぼ同じだった。
榎本悠妃は夕方五時にバレー部の練習が終わった後、一人で体育館に残って自主練をしていた。その間、山口は職員室の金魚に餌をあげに行くと言い、職員室へ向かう。山口が体育館を離れてから約十五分後に急ブレーキと何かが衝突したような音がして、驚いて彼女は体育館から飛び出した。
里峰小、中学校の体育館は正門から一番離れたグラウンドの端にある。そのため、正門近くに辿り着くのに五分ほどかかった。
榎本悠妃が正門近くに到着すると、石垣ブロック塀に衝突した車が燃えていた。そして、車の中でもがき苦しむ人間を目撃したが、動揺している間にその人は動かなくなった。
彼女が現場に到着してからおおよそ五分後、衝突音を聞きつけた榎本朝妃と陸山翠がやって来た。
榎本悠妃の証言では、車の周りには足跡らしきものを確認していないとのことだ。
山口が乗っていたフォレスターの排気口は右側にある。ガソリンタンクは通常、排気口から一番遠い位置に設置するものだ。実際焼け跡の車のガソリンタンクは左側前方にあった。給油口も左側なので、擦った摩擦熱でガソリンに火がついたとは考えにくい。
それに、中の人間がもがき苦しんでいたというのは、脱出できない状況にあったのだろうか。
その後、化学消防車が到着して火は消し止められたが六時前になって今度は学校の裏門の外にある農機具倉庫の前で様々な物が燃やされていた。
なぜ、何のために。
羽鳥がうーんと唸ると、運転席の笹本が「考えこんでいるな」と声をかけた。
「疑問の多い事件ですからね」
羽鳥はやれやれと頭を掻く。
雪がちらついてきたので、笹本はワイパーをかける。
羽鳥が里峰中学校を卒業したのは、八年前のことである。卒業当時、まだ小学一年生だった朝妃と翠はとても可愛くて、鬼ごっこやかくれんぼをして一緒に遊んだことを思い出す。悠妃は「ねえね、ねえね」と姉の後を追いかけまわしていた幼児だったのに、いつの間にか成長して、女らしくなっていた。
消防隊によって消火された車の中からは身元不明の遺体が発見された。その遺体は現在司法解剖に回されている。
「そもそもなぜ山口は車に乗ったのでしょうね」
「山口邦彦だと断定された訳じゃないぞ。別人の可能性もある」
「すみません。でも仮に山口だったとしたら、榎本悠妃がまだ体育館で自主練
をしているのに、放ってどこへ行こうとしたのか」
羽鳥は運転する笹本の顔を一瞥する。まだ四十代前半のはずだが、目元に刻まれた皺の数は、これまで数々の難事件に立ち向かってきた証だ。
「なぜ車に乗ったのか。車に乗る必要性があった。それとも全く別の人間が車を勝手に動かした」
「わからないことばっかりですね」
「全くだ。農機具倉庫の前の火災も、訳のわからんものばかり燃やされていた」
「燃やすってことは……何かの証拠を隠滅しようとしたのでしょうか」
「お、珍しく鋭いじゃないか」
笹本に褒められた羽鳥は苦笑いをする。
「珍しくですか」
「車を燃やして何かを隠そうとした。そして、農機具倉庫の前で何かを燃やして隠蔽しようとした」
「ということは、やっぱりあの燃えカスの中にあったものの中に重要なものが含まれているってことですかね。あのUSB……」
「いや、USBはカモフラージュじゃないか」
「えっ」
「燃えカスの中で確かに重要な証拠を握ってそうなのはそれだが、実は別のものを隠蔽したかった。あくまで憶測だけどな」
羽鳥は昨日の燃えカスの内容を思い出す。竹、ペットボトル、衣類、コンビニの袋、そしてお菓子の箱。約二十本の釘。この中に重要なものが? 思わず頭を抱えてしまう。
一度、十日町署に帰るため山道を下ろうとしていた時、羽鳥のスマホが鳴り響いた。電話の内容に羽鳥は思わず「えっ」ととぼけた声を出してしまう。
「笹本さん。山口邦彦という男は存在しないそうです」
笹本が、ため息をついた。
「何だかややこしい事件の臭いがしてきたな。存在しないってことは、戸籍上存在しないってことか?」
「はい。戸籍のない人間が公立中学校の先生になんてなれるんですね」
「うむ……」
笹本がしばし黙りこむ。山の中腹に、必要性を全く感じないぽつんと一つ立っている信号がある。生憎、黄色の点滅から赤になったので、ブレーキを踏む。
「昨日、校長から山口の履歴書を預かっただろう」
「はい」
羽鳥と笹本は、昨日の事情聴取で校長から山口邦彦を採用した時の履歴書を預かっていた。
鞄の中のファイルからその履歴書をコピーしたものを取り出す。
履歴書の学歴欄に
「平成二十七年 東京都立浦高等学校 卒業」
「平成三十一年、関東教育大学 教育学部 卒業」
さらに、職歴欄には
「平成三十一年、東京都立川市立藤川小学校 勤務」
と書かれているが、先ほどの電話では、こちらもすべてデタラメという話だった。
羽鳥は履歴書に貼られている山口を名乗る男の写真に注視する。二重瞼と形の整った鼻。唇は薄くて少々エラが張っている。いたって普通の容姿。美形でもなく不細工でもない、どこにでもいそうな顔立ちだった。
「山口の家の方はどうなっている?」
山口邦彦は、里峰小、中学校から少し離れた山沿いにあるアパートで独り暮らしをしていた。
「今朝から家宅捜索組が行っているはずです」
羽鳥がそう言った瞬間、再びスマホが鳴り響いた。
「はい、はい。えっ……」
それは山口と名乗る男が担任をもっていたクラスの子が亡くなったという知らせだった。