第二章 その4
「なんだ、事故か⁉」
翠が目を凝らしてみるが、やはり視界が悪い。
「ね、いまの音、学校の方から聞こえなかった⁉」
柊慈の家から坂を下り切って、交差点を左にまがってまっすぐ行ったところに学校がある。
「確かに方角的にはそっちだな。行ってみよう!」
朝妃と翠は学校に向かって走る。しかし、朝妃が途中で滑って転倒してしまう。
「あいたたた」
「大丈夫か?」
「大丈夫。全く、こういう時、雪道ってのは困るね」
「ところで朝妃、なんか焦げ臭くないか?」
「え……」
確かに何かが燃えているような臭いがする。それは決して焚火のように自然物を燃やしている臭いではなく、ゴムやプラスチック製品、そして……。
「ガソリンの匂いがする……」
後ろから幾つかの足音が近づいてきたので、誰だろうと振り向くと、学校の方へ向かって走る町の人々だった。
「何か、えらい(すごい)音がした」
六丁目のおじいちゃんと、五丁目の橋本さんだ。
「ええ、事故か何かだと思います」
「学校の方ろっか(だろうか)?」
「そうですね」
朝妃は、学校の方角をじっと見つめる。すると、僅かな灯りの中、黒煙らしきものを確認した。
「翠、煙だ! 多分何かが燃えているよ」
「とにかく消防に電話するか」
翠がズボンのポケットからスマホを取り出し、一一九番をダイヤルする。
学校に近づくにつれて、鼻をつくような強烈な臭いが増していく。ようやく学校に到着し、正門をくぐった朝妃は絶句した。
車が燃えている。
「朝妃、消防には電話しておいたから」
後ろからやって来た翠も足を止める。
「あの車は……」
見たことがある。激しく燃える車の前で立ち尽くした朝妃は背筋が凍った。
その場から動けずにいると「お姉ちゃん!」と言う声が聞こえた。
燃える車の遠く向こう側に朝妃は自分の妹、
「お姉ちゃん、どうしよう! 山口先生が中に……」
やっぱり。車体の形からするにこれは山口先生がいつも乗っているスバルのフォレスターだ。
山口先生が中にいる⁉ それを聞いたところで激しく燃え盛る車に近づくことなどできない。
「消火栓を探そう!」
朝妃が職員用の通用口のドアノブを回すと幸い、鍵はかかっていなかった。学校内に入り、廊下の消火栓を開けてホースを伸ばしてみるが、正門近くの燃える車まで全く届きそうにない。
その時、「ウー、カンカン」という音が聞こえた。
学校までやってきたのは地元消防団の車だった。消防団の一向は燃える車に一瞬たじろいだが、何とか消すことはできないかと消火活動を行う。しかし、ガソリンに引火している車の炎は簡単には消えない。
この町には消防署がない。そのため、火事の時は地元消防団が第一線で、初期消火活動を行うのだが、この時ばかりは燃え上がる黒い鉄の塊に、消防団の人たちも唇を噛むことしかできなかった。それから約十分後にやって来た化学消防車によって炎は鎮火されたが、車は見るも無残に焼け焦げ、鉄の黒い枠だけが残り、タイヤは溶けて変形している状態であった。
消防隊員によって、運転席から一人の人間が救助されたが、灰になりそうなほど焼け焦げた遺体は最早性別も年齢も何も識別できない状態であった。
そのうち学校の前に集まっていた町人の一人が、指をさして叫んだ。
「もう一つ煙が上がっているぞ!」
その人の指さす方を確認すると、学校の北側方面から煙があがっている。
「何だ、何だ! 今度は何が燃えているんだ⁉」
消防団の人たちが煙のあがった方向へ駆けつけると、学校の裏門を出た辺りにある農機具の倉庫の前で火の手が上がっていた。
「とにかく消すぞ!」
消防団によって、火は消し止められた。その頃になってやっとパトカーと救急車のサイレンの音が近づいてきたのだった。
小さな町は大混乱であった。パトカーのサイレンが鳴り響き、学校は封鎖されてしまい、第一発見者の朝妃の妹、悠妃は震えながら事情聴取されていた。
この時、現場に駆け付けた刑事の一人は皮肉にも、里峰小、中学校の卒業生、
羽鳥は第一発見者が榎本悠妃だと聞いて、まだ身長が百センチを過ぎたばかりの小さな女の子の姿を思い出した。
さらに、現場には顔なじみの悠妃の姉、朝妃と陸山翠がいたので驚いた。
「あなたが火災現場に一番に駆けつけたのですね」
羽鳥の質問に震える唇を必死で動かして答える悠妃。
「はい。バレー部の練習が終わって……私はみんなが帰った後に少しだけ残って自主練をしていたんです……。そしたら大きな音がして、何だろうって思って体育館を出て音のした方へ向かったら、車が燃えていて……」
「その時に、誰か他の人物を見かけませんでしたか?」
「い、いえ。特に誰もいなかったです」
「車の中に人がいるのにはどうして気付いたのですか?」
「私が車を発見した時、中にいる人が暴れているのが見えたんです。慌てて、助けなきゃって思ったんですけど……。とても、そんなことができる状態ではなかったので……」
悠妃は寒さと恐怖で歯がカチカチ鳴っている。
「でも、三分ほどしたらその人は動かなくなりました」
「消防には通報されましたか?」
「通報しようと思ったのですが、何せスマホは更衣室に置きっぱなしだったので……」
なるほど。と頷いた羽鳥の後ろから、別の刑事らしき人間が駆けてきて、悠妃にあったかいお茶のペットボトルを差し出した。
「ここではさすがに寒いですね。どこか室内に入りましょうか」
学校の職員室に場所を移し、そこで、第一発見者の悠妃、後から駆けつけた朝妃と翠、そして休日に急に呼び出された教頭先生と校長が集まった。
校長先生は顔を真っ青にして
「や、山口は死んだのですか?」
と尋ねる。
「いや、まだその方がどうかわかりません。何せ遺体の損傷が激しいもので」
それを聞いた教頭もオロオロしている。
「事故なんですかね……」
「それもまだわかりません」
そこへまた新米らしい刑事が職員室のドアを開けてやってきて、ベテランらしい刑事に耳打ちで何かを伝える。
「ええと……。すみません、悠妃さんと朝妃さんは正門横の車が炎上してから以降、いまの時間までに裏門付近へは行きましたか?」
ガタガタ震えている悠妃に代わって朝妃が答える。
「いえ、私も妹も裏門方面へは行っていません。なぜそのような質問をされるのですか? 現場から何か発見されたのでしょうか?」
朝妃ももちろん動揺はしていたが、妹の悠妃が自分以上に過酷な現場を目撃している。人が焼け死ぬ姿なんて見たらショックを受けるに違いない、しっかりしなければと気持ちを奮い立たせていた。
「残念ながらその質問にはお答えできません」
やっぱり。と朝妃は思う。刑事というのは必要なことだけ質問して、大概、一般人には事件、事故の詳細を教えてくれないものだ。
自分と悠妃ということは、何か女性特有のものでも見つかったのだろうか。
「あと、先ほど誰も見かけなかったとのことですが、本当に誰もいなかったですか?」
現場を目撃した僅か十三歳の少女の心情など露知らず、刑事は淡々と質問してくる。
「はい、誰もいなかったと思いますが……」
「そうですか」
「あの、妹はとてもショックを受けているので……」
朝妃の隣で悠妃は震えが止まらない様子だ。
「わかりました」
夜の九時、さすがに未成年の三人は家に帰さなくてはならない時間なので事情聴取は終了し、羽鳥が車で家まで送ってくれることになった。
「ヒック、ヒック」
車の中で泣いている悠妃の肩を抱く朝妃。
「悠妃。とにかく今日はゆっくり休もう、ね?」
朝妃はふとその時になって花蓮と、花蓮を追っていった柊慈のことを思い出す。
花蓮のことも心配だが、いまは悠妃の心の傷が心配だ。
「悠妃ちゃん、朝妃ちゃん。大変だったね。まさかこんな形で再会するとは思ってなかったよ」
羽鳥は、まだ中学生の二人を不憫に思いながらアクセルを踏む。
「裕兄ちゃん、立派な刑事になったんだね」
朝妃が小学一年生の時、羽鳥は中学校を卒業した。
「まだ新米だよ」
「でも卒業する時、刑事になりたいって言ってたよね。夢を叶えていてすごいな」
あの頃、羽鳥は刑事ドラマにハマっていて、それで何となく目指した。しかし、ドラマの中で難事件を華麗に解決する刑事は、やはりドラマ仕立てなのであって、実際に刑事になってみると、地味な仕事や人に嫌がられる仕事が多いことが分かった。初めて担当した新潟市内の強盗事件では、近隣の店に何度も赴き、煙たがられたのを思い出す。
「朝妃ちゃん。気を落とさないように。何かあったらまた連絡して。まぁ恐らくこちらからまた伺うことになるような気がするけど」
それを聞いた朝妃は、もしかして自分と悠妃があの事件に関与していると疑われているのではないかと思い、少し嫌な気分になった。