第二章 その3
団野結花は柊慈の姉である。ダイニングのちょうど上の二階の部屋に閉じこもっている結花の顔を何年も見ていない朝妃だが、柔らかい目元と高い鼻、ふっくらした唇のとても可憐な顔立ちを、いまでも鮮明に覚えている。幼い頃は柊慈と朝妃の面倒をよく見てくれた五つ年上の優しいお姉さんだ。
温厚で容姿にも恵まれた結花はある事件をきっかけに部屋に引き籠ることになった。
町の人々は、皆知らぬふりをしているが、恐らく知らない人はいないであろう少女強姦事件が発生したのは六年前のこと。
当時、十四歳だった結花と九歳の柊慈は両親が仕事のため二人で留守番をしていた。この町では特に大きな事件が起こったこともなく、玄関の鍵は一応閉めてはいたが、夏場だったので窓は全開とかなり無防備な状態であった。
白昼堂々の犯行ではあったが、犯人が宅配業者を装っていたため、近所の人も誰も不審に思わなかったようだ。
「宅急便です」
との声に「はーい」と快く返事をして玄関のドアを開ける結花。その瞬間宅配業者の服を
「助けて! 助け……」
助けを呼ぼうとする結花の口をおさえ、両手を縛り、口にガムテープを貼った犯人はリビングに結花を寝かせて服をめくる。その時、ゲームをしていた柊慈は二階の部屋にいて、一階から姉の声が聞こえた気がして立ち上がった。
「お姉ちゃん、何か呼んだ?」
階段の下に向けて声をかけた柊慈だったが、返事はない。そういや昼ご飯の時間だなと思って柊慈はゆっくりと階段をおり、ダイニングへと向かった。
「お姉ちゃ……」
ダイニングの扉を開けると、奥のリビングに人影を発見したが、そこには姉ともう一人、見知らぬ男がいた。姉は着衣が乱れており、男は下半身が裸の状態だった。その男が何やら姉の上に乗っかり、腰を前後に動かしている。
呆然とする柊慈の姿に気付いた男が突然、刃物をどこからか取り出した。
「お前……っ! そこを動くなよ」
刃物を持った男に対し、柊慈は九歳とはいえ、これはただならぬ状況だということだけは理解できた。
「いいか、警察になんて通報したら殺すからな」
そう言いながら、男は自分の下着とズボンを手にとり、玄関から慌てて出て行った。ブロロロ……。エンジン音がだんだん遠ざかっていく。
柊慈は涙を流している姉の口に貼られたガムテープをとった。
「しゅ……柊慈……」
姉はそのままひっくひっくと泣き出した。何だろう。何が起きたのだろう。あの男は一体誰だったのだろうか。柊慈はどうしてよいかわからず。姉の手首に巻かれたロープを必死にほどこうとした。
その事件以来、結花は部屋に引き籠るようになり、学校にも行かなくなってしまった。
事件を知った結花の母は警察に届け出たが、犯人は未だに捕まっていない。警察は犯人特定のため、結花の膣内に残った粘液を採取したいと申し出たが、結花は頑なに拒否した。
レイプという事件は、こうやって警察に被害届を出すこと自体が珍しい。だいたいは被害に合った女性が、周囲の人に知られたくない。という理由や本人の精神的なショックから被害届が提出されないケースが多い。
目撃者の柊慈は警察から、犯人の特徴を聞かれた。
「男の人はどんな顔をしていたかな? あとどんな服を着ていたか覚えている?」
柊慈は震える体をおさえながら必死で説明した。髪が短くて、鼻が低い。歳は若かった。高校生くらいかなと思った。服はよくわからないけど宅急便の人みたいだった。太ももに三つのホクロがあった。
その証言を元に警察が描いた似顔絵がマスコミによって公開された。しかし有力な手掛かりが得られないまま、もうあれから六年の時が流れている。
朝妃は柊慈の母にそっと尋ねた。
「あの……。結花さんはどうしていますか?」
朝妃の質問に、いままで笑っていた柊慈の母の顔が若干ひきつる。
「心配してくれてありがとう。相変わらず、トイレとお風呂以外はずっと部屋に籠っているんだよ。困ったね」
朝妃は、そうですか。と返事をしてそれ以上は何も聞かなかった。黙って皿に盛られたドーナツを一つ手にとる。
「朝妃……。オレが新潟市内に行った後、母ちゃんや姉ちゃんのこと、よろしく頼むな」
柊慈は、表情一つ変えない。そのことが逆に朝妃の心を痛めた。
「うん、分かった」
三時前になって、翠がやって来た。
「ういーっす。コンビニでお菓子買ってきたぞ」
翠は大きなビニール袋からお菓子を次々と取り出す。
「さすが。翠ちゃんは気が利くねえ」
柊慈はそう言いながら翠が取り出したお菓子の封を早速開けている。
そこへ愛奈未もやって来た。
「ハロー」
「お、愛奈未」
「ね、卒業旅行はやっぱり南国だよね」
「まだ全員集まってないぞ。気が早いな」
その時、柊慈のスマホが鳴った。
「ん、何何? 菜子だ。一時間ほど遅れるってさ。ゆき婆のお薬をもらいに薬局に行くんだと」
ゆき婆とは菜子の家のとなりに住んでいる九十歳のおばあちゃんだが、一人暮らしのため、買い物やその他、病院の付き添いなどはいつも相模原家の人間が行っていた。
「それは仕方ないね。……で、花蓮は?」
少し気まずそうに尋ねる愛奈未。
「ごめん、実は今日は呼んでないんだ。花蓮に謝るように菜子を説得しようと思ってたから」
それを聞いた愛奈未は畳の上にゆっくりと腰かけた。
「私も、悪いことしちゃったな」
「でもさ、花蓮なしで卒業旅行の話を進めていいの?」
翠がポテトチップスの袋を開けながら尋ねる。
「もちろん花蓮の意見も聞きたいところだけど、まずは仲直りが優先だろ」
「え、じゃあ今日は卒業旅行の打ち合わせじゃないの?」
「もちろん、ある程度の候補は決めておきたいところだけど、とにかく菜子が来るのを待とう」
柊慈の言葉に皆が頷く。それから、お菓子を食べながらテレビゲームをしていたが、四時になっても菜子は現れない。
「おっそいなー」
「電話してみる?」
「って言ってたら電話かかってきた」
柊慈が電話に出る。
「え、うん、うん。わかった。じゃあ待っているから」
「どうだった?」
「あ、なんかゆき婆がさらに買い物を頼んだらしくて、さらに三十分ほど遅れるって」
「えー。相模原家は菜子以外、今日は不在なのかな」
愛奈未がチョコレートの包みを開ける。
「ああ、なんか両親は街の方に買い出しに出かけているって」
「そっか、じゃあ仕方ないね」
そうやって、うだうだしながら四人が待っているとようやく四時半を過ぎた頃に菜子がやって来た。
「お待たせしました~」
「おつかれさん」
菜子も加わり、畳六畳二間の人口密度が増す。
「菜子、早速で悪いんだけど、花蓮に謝ってほしい」
柊慈がそう言うと、菜子は下を向いた。
「うん、それは分かっている。月曜日にはちゃんと謝ろうって思っている」
「それならいいんだけど」
それから五人は、卒業旅行の行き先候補を次々と挙げていく。中学生なのであまり遠いところには行けない。沖縄に行きたいとかグアムに行きたいという、南国案は結局のところ実現しなさそうだ。
「じゃあ、いまのところ第一候補は東京シズニーランド、第二候補が横浜、第三候補は軽井沢でいいか?」
外はすっかり暗くなり、古い木造づくりの離れではいくら石油ストーブを炊いていても、隙間風が入ってくる。
「じゃあそろそろお開きにしましょうか」
愛奈未が立ち上がった瞬間だった。
ガラガラと離れの引き戸を誰かが開けた。……その瞬間五人は息をのむ。
「か、花蓮⁉」
呼んだはずのない花蓮がしばらく五人の前で立ち尽くした後、無言のまま扉を閉めて走り去っていく。
「花蓮、待って!」
朝妃がそう叫んだのと同時に柊慈が外へと飛び出す。
「えっ、なんで花蓮が?」
「まずいね。誤解されたかな」
オロオロしている菜子のとなりで真剣な顔つきで愛奈未が扉の方を見つめている。
「翠」
「ああ、オレたちも行こう。きっと花蓮はオレたちが彼女を仲間外れにして集まっていると誤解した」
朝妃と翠が大急ぎでダウンコートを着用し、外へと飛び出ると、既にそこに人影はなかった。
「くそ、どっちへ行ったんだ?」
朝妃はキョロキョロと地面を見渡すが、手がかりとなる足跡が残っていない。というのも柊慈の家の前は綺麗に除雪されていて、茶色くなった雑草がむき出しの状態であった。
「塩化ナトリウム」
「え?」
朝妃の言葉に振り向く翠。
「除雪剤がまいてあるんだ。そういえばここへ来たときもあまり意識していなかったけど、雪がなかった」
「ああ、そういえば」
塩化ナトリウムは雪国では頻繁に使用する除雪剤である。塩化カルシウムより持続性があり、一度まくとしばらくの間、雪が積もらない。
「二人の足跡がわからないね」
「ああ、とはいっても坂をのぼりはしないんじゃないか。だってこの上はもう山しかないし。普通に考えたら坂を下っていったんだろ」
「そうだね。私たちも下りよう」
いくら雪国育ちとはいえ、坂道を一気に駆け下りると転倒しかねない。朝妃と翠は足元に注意しながら坂道を下りていく。街灯の本数が少ないため、薄暗くて、視界が悪い。
その時だった。
「キキーッ、ドガガガ」
車のブレーキ音と何かが激突したような、擦れたような音がした。