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第二章 その2

 第二章 その2


 金曜日の四時間目が終了し、クラス全員教科書やノートを鞄につめて帰宅の準備をしていた。


「今日は私、家庭教師の日だから早く帰るね」


 花蓮がそう言って、教室からさらりと立ち去る。


「すごいよね、シングルマザー家庭なのに家庭教師って」

「カテキョってあれなんだろ? 土屋つちやさん家の姉ちゃんなんだろ?」


 朝妃は土屋麻衣子の姿を思い出す。メガネをかけていて前髪が長い地味なお姉さんだが、東京大学出身らしい。しかし卒業後にそのまま東京で就職せず地元に帰ってきたので皆、不思議がっていた。


「花蓮が受けるのってそんな難しい学校なの?」


 菜子が大きな黒目をパチパチさせている。


「偏差値七十だってさ」


 愛奈未の答えにええっと声をあげる菜子。


「でも、モデルになりたいのにそんなエリート校に行ってどうする気なんだろ?」

「確かにな」


 翠は今日もワックスで固めた髪の毛を気にしているのか指で触っている。


「なんか、花蓮ってなんでもできてすごいけど、あんな冷血だったらモデルなんてできるのかな?」

「冷血って」

「だって、ほら。無表情だし何考えているのかわかんないじゃん。モデルっていったらもっとニコニコしていないといけないんじゃないのかな。本当はただ東京に行きたいだけの口実だったりして」

「あー、もしかしたらね」


 菜子の言葉に意外にも愛奈未が賛同する。


「こないだだってさ。ほら、モクレンを植樹するって先生が言った時も、一人だけ受験だからって。なんかノリも悪いし、私、正直言ってクラスの人数が多かったら花蓮とは仲良くしていなかったな」


 朝妃は花蓮の悪口を言う菜子に向かって何か言いかけようとしたところで固まってしまった。教室の入口のところに花蓮が立っていたのを発見したからだ。


「花蓮……!」


 そこにいた全員が花蓮の姿に慌てる。


「忘れ物……したから」


 そう言って花蓮は無表情のまま教室に入り、自分の机から一冊の教科書を取り出して鞄にしまい、立ち去ろうとした。


「あの、花蓮っ……」


 朝妃が呼びかけたが花蓮は振り向くことなく教室から去ってしまった。


「あーあ。お前が余計なこと言うから」


 翠が大きなため息をついた。


「だって本当のことだもん」


 子どものように口を尖らせる菜子。


「まぁ、菜子の言っていることもわからなくないけど。花蓮はマイペースだからね」


 愛奈未も翠に続いて大きなため息をついた。追いかけた方がいいだろうか。朝妃は迷ったが、こういう時は真っ先に柊慈が動くはずだ。しかし今日の柊慈は珍しく動かなかった。


「月曜日に謝ろうぜ」


 そう言って花蓮を除く五人は家路についた。


 朝妃と菜子は家の方向が同じなので、途中まで二人で一緒に帰る。いつもなら他愛もない話をするのだが、この日は何を話せばいいのかわからず、朝妃はただ黙って歩いていた。


「朝妃、怒っている?」


 無言で歩く朝妃の後ろから菜子がそっと声をかける。


「え、怒ってなんていないよ」

「でも、何もしゃべらないから」

「ああ、ごめん」


 その後、朝妃は先ほどの菜子の発言について少し反発しようかと口を開きかけたのだが先に菜子が言葉を発した。


「ね、朝妃。花蓮のことだけど」


 菜子が急に小声になった。


「何?」

「花蓮って恋人がいるみたい。知っている?」


 恋人。と言われてもピンとこない。


「ごめん全然わかんない」

「もー、朝妃は色恋関係の話に興味なさすぎー」


 菜子の言う通り、朝妃は恋愛には全く興味がなかった。が、なんだかバカにされているような気もする。菜子はたまにこういうところがある。


「で、誰なの?」

「え?」


 キョトンとする菜子。


「花蓮の恋人って」

「誰だと思う?」


 誰だろう。と考えるが全く思い浮かばない。


「全然わからないや」

「じゃあヒント。年上の人!」


 里峰小、中学校では自分たちが最高学年なので、学校外の人が何人か頭に浮かんだが、おじさんばかりだった。


「えーと……。コンビニでバイトしている佐藤さんとか」


 佐藤さんはコンビニでもう何年もバイトしているお兄さんだ。年齢は二十代後半くらいに見えるが、定職につかずにずっとバイトばかりしているので、父親がカンカンに怒っているらしい。と朝妃は母から聞いた。


「ぶぶー。花蓮に佐藤さんって。似合わないよね」


 確かに佐藤さんは身長が低くて、明らかに花蓮より小さい。失礼だが容姿もイマイチである。

 すると、菜子が朝妃の耳元で

「山口先生」と囁いた。

 朝妃は驚いて立ち止まる。


「えっ……嘘」


 菜子も立ち止まって小悪魔的な笑顔を見せる。


「それがね。一週間前に見ちゃったんだ。二人が一緒にいるところ」

「生徒と先生としてではなくて?」

「うん、夜の八時くらいかな。回覧板を届けるために歩いていたら、田んぼの真ん中の道に車が一台停まっていて。見覚えのある車だったから、もしかして山口先生かなってそっと中を覗いたら……」

「覗いたら?」


 菜子がさらに声のトーンを落として


「山口先生と花蓮がキスしてた」


 と囁く。

 朝妃は驚いた。二人がそんな関係だったとは。


「ビックリ……」

「でしょ」

「菜子、でもそれ他の人にあんまり言わない方がいいよ」

「どうして?」


 まるで五歳児のように素直に質問を投げかける彼女は天真爛漫だな、と朝妃は思う。


「もし、先生が中学生に手を出したのがバレたら山口先生は解雇されると思うよ」

 朝妃がそう言うと、菜子は両手をポンと叩いて、「そっか!」と納得したようだった。


「そうだね。それはよくないね。じゃあ私と朝妃だけの秘密でお願いね」

「うん、わかった」


 ちょうど菜子と別れる交差点に差し掛かったので、朝妃は結局話そうとしていた言葉を呑み込んでしまった。



 二月十六日。この日は土曜日で学校の授業はない。

 朝妃は昨日のことが気になって仕方がなかった。電話をしてみようか。でも電話をして何を話せばいいのだろう。誤解だ。と言ったところで、菜子が花蓮の悪口を言っていたことは事実だ。菜子に悪気はなかったんだよ。って言ってみてもいまいち説得力がない。


 スマホを手に持って、花蓮の番号を表示してみるが、通話ボタンを押す勇気がなかった。それにまだ朝の八時である。電話をかけるには早いかな。そう思い、朝妃はいつものようにミステリー小説を読み始めた。あっという間に時間が過ぎて、探偵もどきの主人公が密室殺人の謎を解いたところでスマホが鳴り始めた。ディスプレイには団野柊慈の文字。


「はい」

「あ、ごめん。多分読書中だったよね」

「うん、なんで分かるの」

「朝妃の休日は、朝食、読書、昼食、読書、夕食、読書、就寝だろ」

「あ、惜しい、夕食の後にお風呂が抜けている」


 朝妃がそう返事すると電話の向こうで柊慈が笑っている。


「ところで、何の用事?」

「ああ、悪いんだけど勉強わからないところがあって教えて欲しいんだ。成績学年トップの朝妃ちゃん」

「学年トップって、六人だけど。あれ、柊慈この間自分は天才だから大丈夫って言ってたよね?」


 いまのところ、成績の順位は朝妃、花蓮、愛菜未、翠、菜子、柊慈の順となっている。


「いや、それがオレの勘違いだったみたいで、天才ではなかったみたい」


 朝妃も思わず笑う。


「いいよ、いまから柊慈の家に行ったらいいの?」

「ああ。あと三時くらいから他のメンバーも呼んで卒業旅行の打ち合わせをしようと思っているんだけど」

「受験が終わってからでいいんじゃない?」

「それがそういう訳にもいかないんだ。だってオレと花蓮の受験が終わったらもう三月間近じゃん。三月の中旬から下旬に旅行に行くとしたら、ちょうど春休みの時期だから宿の予約がいっぱいで取れない可能性がある」


 なるほど。と朝妃は返す。


「確かに、宿とか予約が必要なところは最低限決めておかないとダメかもね」

「だろ」

「じゃあ、昼ご飯食べ終わったら向かうね」


 そう言って朝妃は電話を切った。


 窓の外を見ると雪がちらついている。朝妃はセーターの上からダウンコートを着て、マフラーを巻き、手袋もつけた。


 柊慈の家はこの間行った田中さんの家からさらに坂を上ったところにある。

 最近、新しい高速道路を作るための工事が行われていて柊慈の家の裏手あたりには工事中のフェンスが立ち並び、十二月ごろまでは重機やトラックが忙しく出入りしていた。しかし、最近は豪雪のため建設会社も工事を中断せざるを得ないのかとても静かだ。


 朝妃は自宅を出て、除雪車が通った後の道を歩いていく。朝から降っていた雪が丁度やんだので、玄関前の雪かきに追われる人々の姿を目にする。


「こんにちは」

「お、朝妃ちゃん、お出かけかい?」

「はい、友達の家までちょっと」

「気いつけてな」

「ありがとうございます」


 同じようなやり取りを何回か繰り返す。人口が七百人のこの町では殆どの人が顔見知りだ。高齢者しかいない家庭の雪かきは近所の人が手伝ったり、助け合いながら生きているのだ。


 坂道をのぼっていくと貫太の家の前で、例のもずくが吠えていた。


「もずく、私だよ」


 もずくは私の顔を覚えているのか否か、尻尾を振りながらワンワン吠えまくる。


「こら、もずく! うるさいよ!」


 窓を開けて貫太が顔を出す。


「あ、貫太ちゃん」

「朝妃姉ちゃん! どうしたの?」

「いまから柊慈の家に行くの」

「そうなんだ。しゅうじ兄ちゃんさいきん遊んでくれないんだ」


 そう言って貫太が頬をふくらませた。


「柊慈兄ちゃんはもうすぐ受験だからね。勉強が忙しいの」

「ふーん、中学生ってたいへんなんだね」

「そうだよー。貫太ちゃん、宿題やった?」

「あ、忘れてた。いまからやる」


 そう言って貫太は手を振って窓を閉めた。朝妃は再び坂道を歩き出す。

 貫太の家から三百メートルほど坂を上ったところに団野家はある。朝妃はいつものように、門を入って離れの扉をノックする。


「よう、手土産は?」

「手土産は雪かな」


 そう言って朝妃は差し出された手のひらに雪を乗せる。


「冷てえ。雪はいらん。お菓子がいい」

「あんたが呼んだんでしょ」

「はいはい。ではどうぞ」


 朝妃が団野家を訪れるのはこれで何度目だろうか。何かあるとだいたい皆が団野家の離れに集まる。六畳の和室が二つ並んでいる離れは、柊慈の秘密基地のように扱われている。部屋の片隅には漫画本が積まれており、小さめのテレビとゲーム機が何台か並んでいる。そして、部屋の奥には弓道の弓が立てかけてある。

 柊慈の祖父は弓道の全国大会に出場するほどの腕前で、彼は幼い頃から祖父の指導の元、弓道をたしなんでいる。この町には弓道場がないため、車で二時間かけて魚沼の市内にある高校の弓道場の一部を借りて練習を行っているが、いまは受験のため、練習は休んでいる。


「それで、どの問題がわからないの?」

「ああ、これこれ。この図形問題がさっぱりわからなくて」


 柊慈は数学のテキストと問題集を机に広げているが、机の上は乱雑としており、勉強と関係がないであろう雑誌や、お菓子の袋が置かれている。


「まずは勉強する環境を整えないと集中できないでしょ」


 朝妃は、雑誌を片付け、お菓子の袋を棚の上へと上げた。


「つまり、点Bから点Cまでこうやって線を伸ばすと……ここに三角形ができるでしょ」


 朝妃の解説にうんうんと頷く柊慈。


「やっぱ朝妃は賢いなぁ。説明がわかりやすい」

「私より花蓮の方が賢いんじゃないかな。柊慈もある意味賢いと思うし」

「ある意味?」

「うん、なんていうかふざけている時はふざけているけど、みんなをまとめるリーダーっていうか。柊慈がいないと多分私たち六人はこんなに仲良くなれなかったよ」

 褒められた柊慈はまんざらでもなさそうに、鼻をかいた。


「花蓮……。やっぱり電話とかした方がいいかな?」


 朝妃は昨日のことを思い出す。


「あー、それなんだけど。実は今日、花蓮は呼んでないんだ」

「えっ……」

「だってほら、あれはどちらかというと、花蓮と菜子の問題だろう。菜子が謝る気がなければオレたちがどうのこうのできる問題じゃない」


 柊慈の言う通りだ。確かに自分や柊慈がフォローをしても、菜子と花蓮が仲直りをしない限り、関係はギスギスしたままになるであろう。


「というか、菜子を説得するために今日ここに呼んだってのもある」


 なるほど。さすがは柊慈だ。クラスの中で何か問題が発生した時は柊慈が中心になって解決してきた。


 小学六年の頃、愛奈未が大切に使っていた消しゴムを借りた翠がうっかり無くしてしまったことがある。その消しゴムは愛奈未が当時大好きだった近所のお兄さんからもらったものらしく、愛奈未が激怒した。


「とにかく探してっ! 見つかるまで翠は家に帰らないで!」


 憤慨する愛奈未をなだめながら、六人全員で必死に消しゴムを探すと、なんとゴミ箱の中から消しゴムが見つかって、再び愛奈未は怒りだした。


「ねぇどういうこと⁉ なんで私の消しゴムがゴミ箱から見つかるの⁉」


 愛奈未は翠に詰め寄るが、翠は心当たりがないらしくあまりの険相にオロオロする始末。

 そこで助け船を出したのが柊慈だった。


「なぁ愛奈未。この消しゴムあげるから許してやって?」


 柊慈が取り出したのは、紫色のねり消しだった。


「ブドウの香りがするんだけど、ほら嗅いでみて」


 そう言って柊慈は愛奈未の鼻元にねり消しを差し出す。


「あ、いい香り」

「だろう。これ愛奈未にあげるよ」

「えっ、いいの⁉」


 たかがねり消しだが、この田舎にはまともな文房具店がない。町にたった一軒あるコンビニにシンプルな文房具が売っているだけで、可愛らしいシールや鉛筆、消しゴムなどは市街地まで出ないと買うことができないのだ。


「ありがとう!」


 さっきまでの怒りはどこへ行ったのやら。愛奈未は上機嫌でねり消しの匂いを嗅いでいる。

 こうやって、柊慈がいつも何らかの形で助けてくれるから、六人はうまくやってこれたのだ。そしてきっと今回も丸く収まる。朝妃はそう信じきっていた。


「朝妃ちゃん、よかったらおやつにこれ食べて」


 離れの扉から顔を出したのは柊慈の母だった。手にした皿には山のようなドーナツが乗っている。


「わあ、おばさんのドーナツ美味しいんですよね。ありがとうございます」

「そんなに食べたら太るぞ」

「何言っているの。こちらこそバカ息子に勉強を教えてくれてありがとう」

「バカ息子で悪うございました」

「もう、ちょっとは朝妃ちゃんを見習って勉強しなさい。朝妃ちゃんたくさん食べてね」


 柊慈の母がにこりと笑うのを見て朝妃はふと、柊慈の母親に雰囲気が似ている結花ゆいかのことを思い出す。今日も彼女は家の中で過ごしているのだろうか。 


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