第二章
「こちらに置いておきますね」
千夏は常連客のおばあさんのカゴをサッカー台に運ぶ。
「あーかんべね(あーすまないね)。いやぁ歳をとるとなんぎー(困ったもんだ)、いつもあんがとね」
そう言いながらゆっくりとした動作でサッカー台へ向かうおばあさんを見送り、次の客の商品をバーコードに通していく。
「二千三百八十円になります」
また常連客のおじいさんが、財布をゆっくりと開けて小銭を探している。
「いやー。えらい目が悪くなったぜね小銭もよう見えんわい」
昼時のスーパーは人もまばらで、次に待っている人もいないため、千夏は小銭を探すおじいさんの動きにも特にイライラすることはなかった。
こういうところが田舎のいいところだ。と千夏は思う。
東京に住んでいる時は常に
群馬県の山奥で産まれた千夏は、鉄道も走っていないような田舎で生活していたが、二十六の誕生日を迎えた頃、偶然知り合った
東京での慣れない生活に最初は戸惑っていたが、数年後には子宝にも恵まれ、千夏は幸せな日々を送っていた。
浩輔は上京した当時、弁護士事務所の助手として働いていたが、やがて独立して自分の事務所を開設した。経済的にも何ひとつ問題のない生活を送っていた千夏であったが、ふとした時に故郷の風景を思い出し、ホームシックになることがあった。
久々に故郷の景色が見たいと思っていた千夏は、花蓮の幼稚園が夏休みの間に実家に帰省しようと大きな鞄に荷物を詰め込んでいた。しかし、そんな時にタイミング悪くスマホが鳴った。兄からの電話は珍しく、何の要件かと電話に出ると、父が倒れたとの知らせだった。
大急ぎで花蓮と共に実家に帰った千夏が目にしたのは既に息を引き取った父の姿であった。
千夏は中学生の頃に母も亡くしており、こんなに早く親に先立たれると思っておらず、しばらく呆然としてしまった。父の葬儀を終えて、住む人を失った家をどうするか考えなくてはならなかったが、千夏の兄と弟が父亡き後の手続きについて揉め始めた。多額の遺産があるとかそういう類ではなく、どちらかというと、築五十年近い木造住宅と購入してから十二年を経過している車の後処理、そして、家の中に残された家具や家電をどうするかという話であった。
瓦屋根は一部剥がれており、水場付近の柱や床は腐っている。畳は陽に焼けて黄色く変色しているし、とても売りに出せるような家ではなかった。
解体費用や、車の引き取り、そして大型家具などの処理費用を誰が負担するのかという話で揉める兄と弟の声が千夏の耳にぼんやりと聞こえてくる。
「おい、千夏! 聞いているのか⁉」
兄の声にはっとする千夏。
「ああ、ごめん。ちょっとまだ頭が混乱していて」
「もう三十路だろう。しっかりしてくれよ」
五歳の花蓮は隣の家のおばあちゃんが面倒をみてくれている。
「姉さんの旦那は弁護士だろう。金銭的には余裕があるんじゃないか?」
弟がそう言いだしたので、千夏は少し戸惑いながら「そうね……」と答えた。
「じゃあ、千夏がこの家の解体費用など全部負担してくれるか?」
兄も弟も遠慮という言葉を知らないのか。胸のあたりがムカムカしたが、余計な言い争いはしたくなかった。
「ええ。わかったわ」
千夏の返事にほっとした様子の兄と弟は仕事が忙しいからと、そそくさと自分の住む地域へと帰っていった。
懐かしい家財道具や父の衣類、食器などを眺めていると涙が出そうになった。
しかし、千夏にも東京の家がある。いっそのこと、この家に家族全員で引っ越そうという考えが頭をよぎったが、浩輔がせっかく自身の弁護士事務所を開所したところでそれは無理だ、仕方ないと諦めて、遺品整理の業者へと電話をかけた。
すべてを片付けて、久しぶりに東京に帰ると、八月も後半だというのにうだるような暑さで千夏は思わず眩暈を覚えた。群馬も大概気温が高いところではあるが、千夏の実家は標高五百メートルほどの山の中にあるので、涼しく感じたものだ。
この頃、浩輔は忙しくて、家に帰らずに事務所で寝泊まりをすることが増えていた。
「なぁ、花蓮に弟か妹を作ってやらないか」
そう提案したのは、久々に日が暮れる前に帰宅した浩輔だった。
「えっ……」
「花蓮も一人っ子じゃ寂しいんじゃないか」
そうして、数か月後に千夏は妊娠した。しかし花蓮の時よりひどい
「ごめん、今日も動けないから早く帰ってきて花蓮にご飯を食べさせてあげてくれないかしら……」
浩輔に電話でそう話すが、「うーん、仕事が片付かないと帰れないな」「ごめん、早く帰れないや」などの返事で次第に千夏はストレスを感じるようになる。
妊娠五ヶ月を過ぎても悪阻の症状はおさまらず、常に吐き気に襲われながら必死で花蓮の面倒をみていた。それでもお腹の中の我が子と会える日をいまかいまかと楽しみにしていた千夏を悲劇が襲う。
「心臓が止まっています」
いつも通っている産婦人科でそう医師に告げられた千夏は最初、何を言っているのか理解できなかった。
「えっ……?」
「残念ですが、お子さんの心臓が止まっています」
頭が真っ白になった千夏はぼんやりとしながら、医師の説明を聞いていた。
気が付くと手元には手術の同意書。一粒、二粒とこぼれ落ちる涙をおさえることができず、千夏は赤子の摘出手術を行うことになった。
しばらく魂が抜けたような千夏だったが、そんな彼女を心配そうに見つめる一人の少女がいた。花蓮だった。
「お母さん、悲しいの?」
お腹の子のことばかり考えていて、花蓮に構ってあげられていなかったことに気付いた千夏はぎゅっと花蓮を抱きしめた。
「ごめんね。お母さんしっかりするからね」
千夏は花蓮を連れて旅に出ることにした。旦那ももちろん誘ったのだが、仕事が忙しいとのことで母子二人の旅となった。行き先は北海道。季節は六月で爽やかな風が吹く広大な大地に千夏の心は和んだ。
しばらくは平和な生活が続いていた。しかし、花蓮が小学三年生になったばかりの春。事態は急展開する。
今日も浩輔は仕事が立て込んでいて、事務所で泊まるとの連絡がスマホに入っていた。こんな日に限って、千夏は張り切って手作りのローストチキンとサラダ、グラタンを準備していたので、メッセージを読んで落胆してしまう。
「あーあ、勿体ないな」
「お母さん、それお弁当にしたら?」
隣にいた花蓮の提案に千夏は頷いた。そうか、その手がある。
千夏は丹精込めて作った料理を丁寧にお弁当箱に詰めていく。たまにはドッキリでお弁当を持って行ってみようと思い、花蓮と一緒に浩輔の経営する弁護士事務所へ向かった。
電車で八駅のところにある浩輔の事務所はテナントビルの二階にある。足音を立てないように花蓮と二人でそうっと事務所の扉へ近づき、花蓮が思い切りドアを開けた。
「お父さーん! お弁当持ってき……」
千夏の前に立っていた花蓮が言葉を詰まらせる。部屋の左側に置かれた応接用ソファーの上に下半身裸の浩輔と見知らぬ女が淫らな姿で体を重ね合わせていた。
「お父さん、何してるの?」
九歳の誕生日を間近に控えた花蓮はその光景の意味が分からず、素直に質問した。しかし、千夏は体を巡る血が一瞬すべて停止してしまったかのように、その場から動くことができなかった。
「花蓮⁉ 千夏……」
しまったと言わんばかりに慌てて女から離れる浩輔。
「お父さん、お尻丸見えだよ」
花蓮の言葉にあたふたしながら下着を履く浩輔。その様子をまるで陳腐なサーカス団の演技を見るかのようにただ見つめる千夏。女の方も慌ててシャツを羽織った。
「な、なんだ、突然来るから驚いたじゃないか」
明らかにいつもより早口の浩輔は動揺している。千夏は何か言わなきゃと思いながらも声が出ず、ドアのところで立ち尽くしていた。
「お父さんにお弁当を持ってきたんだよ」
大人たちの不穏な空気を読むことができない花蓮が無邪気にお弁当の包みを浩輔に手渡す。
「ああ、ありがとう。わざわざ持ってきてくれたんだね」
浩輔はワイシャツを羽織って、ズボンを履いてベルトを締める。女は慌てて、鞄をつかみ、「じゃあ私はこれで」と千夏の横をすり抜けようとした。
「どこへ行くんですか……?」
やっと振り絞って出した言葉はそれだった。しかし、女は千夏の質問に答えることはなく、ドアから出て階段を下りていってしまった。
花蓮は無表情のまま夫を見つめる母と、視点をあちこち変えながら頭を掻いている父の様子を不思議そうに眺めていた。
「お母さん、どうしたの?」
花蓮の言葉に我に返った千夏は
「ああ、ごめんね。知らない人がいたから驚いちゃった。さあ、お弁当も渡したから帰りましょう」
と強引に花蓮の手を引いて事務所を後にした。
離婚が成立したのは八月のことだった。
弁護士の浩輔は離婚関連の仕事をよく請け負っていたため、皮肉にも慰謝料や親権、財産分与などの手続きは実にスムーズだった。東京都内に約五千万円のマンションを購入しており、当然の如くそのマンションも、浩輔は千夏と花蓮に引き渡して自分が出ていくつもりだった。しかし、千夏は拒否した。
まだ小学生の花蓮と二人、養育費は十分に貰えるとしても、物価の高い東京で満足に暮らしていくことができるだろうか。
いっそのこと群馬の故郷へ帰ろうかとも思った。しかし、実家は既に解体されて更地になっているし、下手に実家近くの家に引っ越そうものなら、昔からの知り合いにヒソヒソと「出戻り」や「浮気が原因らしいわよ」みたいなことを言われるのが嫌だった。そこで、千夏は思い切って新潟に引っ越すことにした。
地方の過疎化を防ぐために若い人の移住を勧めている仲介会社がある。その会社に手配してもらった家は、田舎には珍しい鉄筋コンクリート造りのこぢんまりした家だった。中古物件だが、格安の二百万円という値段で我が家を手に入れた千夏は花蓮と共に新潟に移り住んだ。
春の雪解けと共に顔を出すふきのとうやオオバギボウシ、五月から六月にかけては広大な田んぼに一斉に田植えが行われ、それまで黒茶色だった絨毯に、まるで緑の模様が刺繍されたかのように景色が変わる。夏には伸びた稲が青々と輝き、季節を彩る。川辺にはコウノトリやサギが優雅に羽を広げ、山にはカッコウの声が響く。ツクツクボウシの声が聞こえなくなる頃には成長した稲穂が風にゆるやかに揺れ、やがて稲刈りが終わると山の方から次第に赤にオレンジ、黄色と木々が色づく。そして十一月の末ごろから次第に降り始めた雪が大地を覆い、白銀の世界へと変化していく。四季折々の姿を見せる新潟の里山は、田舎生まれの千夏の心を和ませた。
引っ越しについても離婚についても花蓮は何も言わなかった。だが、娘なりに何か感じているのだろうか、あの日以来、花蓮は口数が減ってしまい何を考えているのかわからなくなってしまった。
娘には悪いことをした。といまでも千夏は思う。そんな千夏の心境をよそに花蓮はぐんぐんと身長が伸び、町の人が思わず吐息を漏らすほど美しく成長した。
その美しい娘が中学一年の時、突然
「お母さん。モデルになるにはどうしたらいいの?」
と尋ねてきた。どうやら本屋で購入したファッション雑誌を読んで、モデルに憧れを抱いたらしい。
「モデルかぁ。花蓮にはピッタリの職業ね。でもこの田舎じゃちょっと……。もう少し都会に行かないとなれないかな」
千夏はモデルになるための経緯など全く分からなかった。ただ、可愛い子は道を歩いているとスカウトされたりするみたいだが、いま住んでいる町を歩いていたとしても誰もスカウトする人はいないであろうことだけは分かる。
「じゃあ、東京に行ったらいいのかな?」
東京。というワードに思わず浩輔の顔を思い出して吐き気がしてしまう。千夏は東京が決して嫌いな訳ではない。しかし、幼い頃から田舎暮らしだった千夏にとって、コンクリートとアスファルトで固められた世界は息が詰まるものだった。
「東京……。もしかして花蓮はお父さんの子になりたかった?」
親の都合で父と離れ離れになり、シングルマザー家庭で生活するようになったこと。勝手に田舎に引っ越したことに千夏は責任を感じていた。
「違う、お父さんは関係ないよ。だって浮気してたんでしょ。お母さんのこと苦しめた男なんて興味ないよ」
身長はいつの間にか百六十を過ぎ、胸は膨らみ、子どもだと思っていた花蓮はいつの間にか大人になっていた。浮気なんて言葉を娘の口から聞くと思っていなかった千夏は衝撃を受けた。
「ね、高校は東京の高校に行ってもいい?」
NOとは言えなかった。親の都合で彼女の人生の目標を潰す訳にはいかない。
千夏はしばらくお客が途切れている間、昔のことを思い出していたが、陽が傾きかけてまた人が増えてきた。
「いらっしゃいませ」
手早くバーコードをスキャンしていく。千夏がこのスーパーでレジ打ちのパートを始めたのは一年前のことだ。娘が東京に進学するとなると、家賃や食費、光熱費など仕送りをしてあげないといけない。それにしても東京と地方のこの物価の差は一体何なのだろうか。東京では月十万以上支払っても小さなアパートしか借りられないことも多いが、地方では十万も支払えば豪邸に住むことができる。
時計の針が四時半をさした。あと三十分で勤務時間が終わる。今日の晩御飯は何にしようか。そう考えながら、千夏は目の前のレジカゴに積まれた商品のバーコードをスキャンしていった。