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第一章 その2

第一章 その2


 章学館高校に合格した四人はほっと胸をなでおろした。

 この頃、中学校の授業は午前中のみで、午後は各々受験勉強や中学の復習、また高校の予習など自由に時間が使えるようになっていた。


 朝妃は、午前の授業を終えて家に帰り、章学館高校のパンフレットに目を通していた。可愛らしいエンジ色のリボンとチェックのスカート。グレイのブレザーを着用した生徒たちが写っている。

 里峰中学校は昔からセーラー服で、男子は詰襟の学生服なので、おしゃれな制服に袖を通すのが楽しみで、鼻歌を歌いながらパンフレットを眺めていた。


「朝妃、ちょっといい?」


 一階から母の呼ぶ声が聞こえた。


「はあい」


 パンフレットを机に置き、階段を下りていくとそこには大きな紙袋を抱えた母が立っている。


「何それ?」

「悪いんだけど、これを三丁目の田中さんに届けて欲しいのよ」

「ええっ、なんで」

「ほら、今日はよしおじちゃんに車を貸しているから」


 朝妃の家には車が二台あるが、一台は父が仕事の通勤に使用中、もう一台は朝妃の叔父にあたる芳浩よしひろが使っていた。


「それ、一体中に何が入っているの?」

「スーツよ。田中さんが明日、親戚の結婚式に出席する予定なんだけど、着る予定だったスーツをうっかり汚してしまったそうで、急遽私が貸すことになったのよ」


 朝妃の母、朋子ともこは町にある介護施設で働いており、田中さんはその施設の同僚である。


「なんで私が。お母さんが行ったらいいじゃん」

「受験も終わったんだし、学校も昼までなんだからちょっとは手伝ってよ」


 三丁目は山の中腹である。この町は平地から山の中腹にかけて家が点在している人口が七百人ほどの静かな町だ。過疎が進んで、その七百人のうち約半数が六十代以上といういまの日本を象徴するかのような超高齢化地帯である。


「運動不足解消に行ってらっしゃい」


 そう言って、朋子は朝妃に紙袋を押し付けた。仕方がないとため息をついた朝妃は自室に戻ってダウンコートを着こみ、マフラーを巻く。雪道用のブーツを履いて外に出ると、外は相変わらずの曇り空だった。


「確かに卒業旅行は南国がいいかも……」


 思わず独り言を呟いてしまうほど、新潟の冬は太陽とは縁遠い。

 甲信越地方の天気予報では、山梨や長野県南部の方は晴れているのに、北の地域に上がれば上がるほど、雪マークや曇りのマークが並ぶ。


 自宅を出発して十分ほど歩いたところから山の中腹に向かって坂道が続いている。アスファルトの道の両側には、除雪された雪が壁のように立ち塞がり、圧迫感を感じずにはいられない。


 こういった田舎の地域では基本的に車が必須アイテムとなる。都会に住んでいる人は一生運転免許を取らずに、電車やバスなどの交通機関を利用しながら生活する人もいるという話を聞いて、幼い頃の朝妃はまるでおとぎ話を聞いているかのような気持ちだった。


 坂道を十分ほど登ったところに、目的地の田中家がある。インターホンを押すと、すぐに応答があった。


「はい」

「あ、すみません榎本です。母に頼まれて、スーツを持ってきたのですが」

「あっ、朝妃ちゃん⁉ 悪いわねぇ。すぐ行くわ」


 インターホンが切れると、玄関ドアから田中さんが出てきた。


「ありがとう! ごめんねー。私の方から伺おうと思ってたん……きゃっ!」


 田中さんが玄関から門に通じる道の途中で滑って転ぶ。どしんと尻もちをついた田中さんに思わず駆け寄る。


「大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫。やっぱりサンダルじゃダメね」


 田中さんは雪に全く対応していない普通のつっかけを履いていた。雪国あるあるで、家から出てポストに新聞を取りに行く際や、ほんのちょっと外に出る時にわざわざ靴を履くのが面倒くさくて、草履やつっかけを履いて出ると、滑って転んでしまう。大概の家は玄関の前の雪かきをしているが、それでも路面は凍結している。相変わらずだなと思いながら朝妃は田中さんの体を起こす。


「ありがとう、私ったらドジね」


 田中さんとは町で毎年開催される夏祭りや、地元の餅つきイベントなどで顔を合わせる。おっちょこちょいで、よく忘れ物をしたり何かにつまずいたりするが、そんな姿が可愛らしいとも感じてしまう。


「寒かったでしょう、良かったら中に入って暖かいものでも飲んでいって」

「あ、いえ。これを届けに来ただけなので」

「そんな遠慮せずにさあさあ」


 田中さんは半ば強引に朝妃の背中を押し、家の中に招き入れた。


「では、少しだけ……。お邪魔します」


 五十代の夫婦二人で生活する田中家は決して広くはないが、暖房がよく効いていて暖かい。朝妃が居間の炬燵に腰を下ろすと、猫が寄ってきた。


「えーと……ミケちゃんでしたっけ?」


 夏祭りで飼い猫の話をしていた田中さんの言葉を記憶の中から手繰り寄せる。


「そうそうよく覚えているわね。ミケ猫のミケよ。そのまんまでしょ」


 ミケ猫のミケは人見知りをしない性格のようで、朝妃の膝の上に乗ってきた。


「あらまぁ、ミケ。お客さんの膝に突然乗ったら失礼でしょ」


 田中さんの言葉に全く動じる様子のないミケは朝妃の膝の上が気に入ったのか離れようとはしない。


「大丈夫です。猫は好きなので」


 朝妃がミケの首のあたりを撫でると気持ちよさそうな顔をする。


「はい、これ。ホットレモン」


 田中さんが湯気の立ったマグカップを炬燵の上に置いた。


「ありがとうございます」


 ホットレモンを口に含むと冷え切った体に染み渡り、ぽかぽかとしてくる。


「あと、頂きもので悪いんだけど、これも食べる?」


 田中さんは最中もなかと書かれた袋を朝妃の前に差し出す。


「頂きます」

「あっ、しまった。最中だったらホットレモンより緑茶の方がいいわよね。もうなんで私ってこんなボケているのかしら」


 田中さんは慌てて、食器棚から急須を取り出した。


「お気遣いなく」


 ホットレモンと最中の小豆は確かにベストマッチとは言い難いが、それでも酸味と甘みが口の中で混ざり合って満たされた気分になった。


「あ、そうそう、朝妃ちゃん高校合格したんだってね。おめでとう」

「ありがとうございます」


 全く、昨日が合格発表だったのにもう知っているのかと朝妃は少し呆れた。田舎というのは噂が浸透するのが早い。何でそんなことを知っているのかと思うようなことを、農協のおじいちゃんが知っていたり、町中に一軒しかないスーパーの従業員の方が知っていたりする。これでもし、受験に落ちたりしたら、あっという間に「〇〇が受験に落ちたらしいわよ」なんて噂話が町中を駆け抜けていく。

 合格して良かった。朝妃は、マグカップに残ったホットレモンを流し込みながらそう思った。


「おーい、おーい、もずく!」


 窓の外から子どもの声がして、朝妃はそちらを向いた。


「あら、隣の貫太かんたちゃんかしら」

「おーい、もずく‼」

「貫太ちゃんですね」

「もずくって確か犬よね?」


 朝妃と田中さんは靴を履いて玄関から外に出る。すると小学一年の貫太が坂道をウロウロしながら大きな声で愛犬の名前を連呼していた。小、中合わせても五十人を下回る里峰小、中学校では体育祭や文化祭が合同で行われるため、全員が顔見知りだ。


「貫太ちゃん」


 朝妃の声に真っ赤なほっぺの貫太が振り返る。


「あ、朝妃姉ちゃん」

「どうしたの、もずく、どっか行っちゃったの?」


 もずくとは、貫太が飼っている柴犬の名前だ。貫太はもずくが大好物で、自分の飼い犬に、体に良い海藻の名前をつけたと学校で話していた。


「うん、散歩してたんだけど、ひもが切れちゃって……。どっか行っちゃった」


 貫太の右手には青色のちぎれたリードが握られている。


「どっちの方角に行ったかわかる?」

「えっと、山の方に行っちゃった」


 貫太の答えに朝妃は嫌な予感がした。里の方に下りたのならともかく山の中腹より先は家などの建造物がない雑木林だ。山の中で遭難してしまうと探す手立てを失ってしまう。


「あらら、それは大変。もずくちゃーん」


 田中さんも大きな声で呼び始めた。朝妃は地面をよく観察する。きっと足跡が残っているはずだ。田中さんの家の周りや貫太の家の周りを歩いていると、家の裏手から雑木林の方に向かって小さな足跡が続いているのを発見した。


「貫太ちゃん。多分もずくはこっちに行ったよ」


 朝妃の指さす方向が雑木林だったので、貫太は困った顔をしている。


「どうしよう、お母さんが山の方は行っちゃダメだっていつも言ってる」


 確かに山に入ると迷うかもしれないし、熊は冬眠中とはいえ、どんな野生動物に出くわすかもわからない。


「待ってて。お姉ちゃんが足跡を追ってみるから、貫太ちゃんはお家に戻っておいて。もしかしたら、もずくちゃんが帰ってくるかもしれないでしょ」


 朝妃は、雪深い雑木林の中へと入っていく。「朝妃ちゃん、無理しちゃダメよ」という田中さんの声が背中の方から聞こえてきたが、うかうかしていると陽が落ちて真っ暗になってしまう。


 朝妃は生まれた時からこの町で暮らしている。幼い頃から山や田んぼなど自然の中を駆け回っていたので、ある程度、地形は理解している。


 雑木林にはブナやナラの木がある程度の距離を保って生えている。この辺りは人間の手によって管理されているので、木々が密集して生えている場所ではない。しかしもっと奥の方まで行くと管理が行き届いていないので、木がびっしりと生えているはずだ。もずくの足跡はくっきりと残っているが途中で別の動物の足跡も朝妃の目に入りこんできた。これは……シカだ。冬眠しないシカは草食動物とはいえ力は強く、特に雄は立派な角を持っている。遭遇すると大概は逃げてしまうが、何年か前に山に山菜採りに入ったおばあさんを攻撃したことがあった。これ以上の捜索は不可能かと、諦めて引き返そうとした朝妃は奇妙なものを発見する。


「何これ……」


 一本のブナの木に無数の穴が開いており、その周りに白い粉のようなものがびっしりとへばりついている。近づいてみると、穴の辺りはどうやら焦げているようだ。


 誰かのイタズラであろうか。しかし、こんな山奥で誰が何のために。

 その時だった。


「ワンッ」


 かすかに犬の鳴き声が聞こえたのでその方角に顔を向ける。


「もずくー!」


 力いっぱい叫んでみる。


「ワンワンッ」


 先ほどより鳴き声が近くなった。目を凝らして辺りを見渡すと、遠くに一匹の柴犬がいた。


「もずくちゃん! 貫太ちゃんが待っているよ。お家へお帰り」


 朝妃が貫太に借りたおもちゃを取り出し、もずくにアピールする。すると、もずくが近づいてきた。

 犬は非常に嗅覚が優れているので飼い主の貫太の匂いのするものがあれば近づいてきてくれるんじゃないか。そう目論もくろんだ朝妃は自分の方へ走ってくるもずくを捕まえようとスタンバイするが、もずくは途中で方向を急に変えて走り去っていく。


「えっ、私のおもちゃに反応したんじゃないの⁉」


 慌ててもずくの去っていく方向を確認すると、どうやら民家のある方へと向かっているようで、ほっとした朝妃は来た道を引き返していく。とにかくこれ以上山奥へ入っていかれると、一般人にはもう入り込めない領域だ。


 結局、朝妃が田中さんの家の前に帰って来ると、そこには貫太ともずくの姿があった。


「朝妃姉ちゃん、ありがとう! もずく帰ってきたよ!」


 嬉しそうな貫太と尻尾がちぎれそうなほど振るもずくの姿を見ると、急に力が抜けてしまった。


「まぁ、朝妃ちゃん、疲れたでしょうに」


 田中さんがヨロヨロしている朝妃を支えた。それにしても先ほど見たブナの木は一体何だったのだろうか。朝妃の脳裏をかすめたその疑問も、雪道を必死に歩いた疲れに吹き飛ばされて、やがて忘れてしまった。


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