――ローズマリーは、リカール王国と呼ばれる国の郊外に暮らしていた。
ローズマリーはもともと、父であるアルベール・ベリーズ公爵がいたずらに遊んだ平民との間に生まれた子であった。
アルベールはローズマリーや母親をかえりみることはなく、そのためローズマリーは、生まれた頃は街で母親とふたりで平民として生活していたという。
「生活は苦しかったけれど、お母さまは優しかったし、バイト先もいいひとたちで、幸せに暮らしてた」
ローズマリーは懐かしそうに呟いたあと、ふっと表情を暗くした。
「……でも、十四歳のときに、私の人生は変わった」
「十四歳のとき……?」
ごくりと私は息を呑んだ。
「そう。私とお母さまのところへ、アルベールの使者がやってきたのよ。正妻とのあいだに子どもができなかったアルベールが、私を公爵家の養子にするためにね」
「えっ! 今まで放ったらかしにしていたくせに?」
ローズマリーが頷く。
「そうよ。私は、もちろん拒んだ。私が生まれてからあのひとは一度もお母さまに会いに来なかったし、父だなんて思っていなかったから。なにより、お母さまと離れたくなかったしね」
ホッとしてローズマリーを見るが、彼女の顔には翳が落ちたままだった。
「でも、許されなかった。最初から私に、拒否権なんてなかったの」
「え……どういうこと?」
「アルベールはね、私が養子にならないと言ったら、お母さまと私が働いていたお店を潰したの」
息を呑む。
ローズマリーは悔しげに拳を握った。
「アルベールは私たちが孤立するように、わざと私たちの名前を出して店を潰した。おかげで私とお母さまは職を失っただけじゃなくて、住む場所も失って、さらに街中からのきらわれ者。疫病神だって、石を投げられたりもしたわ」
「なにそれ、ひどい……!」
想像しただけで、拳が震える。
「……ね。ひどいよね。だからぜったい負けるもんかって思ったんだけど。でも結局、権力には歯が立たなかった。最終的にどうしようもなくなってしまってね……。だから、お母さまに新しく住む場所と仕事を与えることを条件に、私は養子になることを選んだのよ」
しかし、公爵令嬢になったローズマリーを待っていたのは、さらなる不幸だった。
もともと、ローズマリーは不義の子である。
義母はローズマリーを鬱陶しがり、使用人たちも偏見の目で見たという。
「義母は……私にはきつかったけど、使用人たちには優しいっていう、ちょっと珍しい性格のひとだった。だからね、使用人たちはみーんな義母の味方。さんざんいじめられたわ。……でも、それでも踏ん張った。ひとりで街で暮らすお母さまのために」
ローズマリーは、使用人以下の扱いを受けながらも、耐え続けた。耐えて耐えて、日々勉強に励んだ。
母親が自慢できるような令嬢になるために。
「でも……公爵家に入って一年くらい経ったとき……お母さまが亡くなったって知ったの」
「えっ!?」
「お母さまはね、私が養子になってすぐ、死んでたのよ。アルベールはそれをずっと隠してた」
ローズマリーの母親は、ひとり暮らしを初めてすぐ、原因不明の病にかかり、死んでしまったという。
「もう一度お母さまと暮らすことを夢見て頑張っていたのに、それはもう叶わない。……そう思ったら、私はもう、頑張れなくなってしまったの。だから私は、早く実家を出たい一心でロドルフ・リカール王子と婚約した」
ロドルフ王子とは、夜会で何度か顔を合わせたことがあったらしい。
「ロドルフ王子に特別な感情は抱いていなかったけれど、聡明で優しいひとだったから、このひとなら幸せになれるかもって、ちょっと思ったんだけどね……」
ローズマリーは一度言葉を切った。
「信じた私がおろかだったわ」
その横顔に、悲しみの色はない。声には、冷たさすら感じられた。
なんとなく気持ちは分かる。
一度にいろんなことが起こりすぎて、悲しみすら感じられなくなってしまったのだろう。私のように。
「婚約してすぐ、私はロドルフ王子の好意で公爵家を出ることができた。結婚前だからさすがに王宮で暮らすことはできなかったのだけど、王宮のすぐ近くに家を与えられてね。でも、その家に移り住んですぐよ。突然、私たちの前にシスティーナが現れた。そして、彼女が現れた途端、未知の病が国中に大流行したの」
突然降って湧いた流行病に、国中は大混乱した。未知の病に怯える国民を安心させるため、ロドルフは国の代表として流行病が流行している街へ赴くことになった。
しかしその道中、自らも病に感染してしまったのである。
病に罹患したロドルフ王子を助けたのは、聖女として付き添っていたシスティーナ・ブラシェールだった。
「聖女の力に助けられた国民や王子は、あっという間にシスティーナにぞっこん。で、用済みの私はあっさり婚約破棄されたってわけよ」
ローズマリーは、唯一味方になってくれていたロドルフ王子も失い、再び公爵家へ戻されることになってしまった。
「そのあとは地獄だったわ。周囲はさんざんな噂を流してくれてね……。私が養子だってこと、公爵の不貞で生まれた子どもだってこと、しまいにはお母さまが病で亡くなった頃まで遡って、今流行している病はお母さまが広めたんじゃないかとか」
「ひどい! そんなわけないのに……」
憤慨する私に、ローズマリーは苦笑する。
しかし、どこか乾いたローズマリーの笑みに、怒りは感じられない。
その表情に、私は胸がぎゅっと苦しくなる。ローズマリーはもう、感情がなくなってしまっているのかもしれない。
「……それでまぁ、私は完全に国中からきらわれた悪女になって。でも、本当に最悪だったのは、ロドルフから婚約破棄を突きつけられたあとだったわね。システィーナの毒殺未遂騒ぎが起こって、私は最重要容疑者ってことで拘束されてしまったの」
「はぁ!? どうしてそこでローズマリーが疑われるのよ!?」
「私の部屋から、毒が見つかったのよ。もちろん、私は身に覚えがなかったし、裁判でもそう言った。でも、国中のきらわれ者である私の話なんて、だれも信じてくれなくてね……結局、判決は覆らずに私は毒殺未遂犯にされちゃったってわけ」
「なんで……!? ローズマリーはなにひとつ悪いことなんてしてないじゃない! 街を引っ掻き回したのは公爵だし、ロドルフ王子だって婚約破棄をするにしても、まずふたりきりで話す場を設けるべきだったわ!」
ぷんすかしていると、ローズマリーが不意にぷっと笑った。
「……なに笑ってるの……?」
「いや、ごめんなさい。だってなんか私たち、似てるなって」
「似てる?」
「うん。……私ね、もうダメだった。じぶんのために荒ぶることができなくなってた。どんな罵声を浴びせられても、どんなことを言われても、ちっとも腹が立たなくなってしまったのよ。もう心が擦り減って限界を超えてしまったのね。……でもね、不思議なことに、あなたのためなら怒ることができたの。私の心は既に死んでると思ってたのに……私の心はちゃんと生きてた。それは、あなたもじゃない?」
ローズマリーが私に微笑みかける。
「……そう、いえば」
言われてみれば、そうだ。
私も、じぶんの話のときは感情が平坦になってしまっていたけれど、ローズマリーのためなら怒れた。
「……ローズマリー。私、やるわ。あなたのために、あなたを自由にする」
ローズマリーも頷く。
「……私も、あなたに幸せになってほしい」
お互い、がっちりと手を組む。交渉が成立した。
「扉を抜けたあとは、あなたの決めたことに異議はないわ。私の命は、あなたにあげる」
「うん、私も。私が生きることでローズマリーが生きられるなら、ローズマリーの無実を晴らせるなら、私、生きるよ」
ローズマリーが私として生きてくれてると思うだけで、知らない土地でも頑張れる気がする。
「それじゃお互い、生まれ変わった気分でこの地獄から脱却しましょう」
こうして私たちは力強く握手をしてから、それぞれ私が赤色の扉の前へ、ローズマリーが桃色の扉の前へと進んだ。
目の前の扉を見る。
扉には、『ローズマリー・ベリーズ』とある。
ふう、と息を吐く。
この扉の先には、私の知らない世界がある。ローズマリーが地獄だと言った世界が。
彼女の状況は、最悪だ。
私に生き抜くことができるだろうか。
……分からない。
けれど、このままじぶんに戻って死ぬよりは、極小の可能性にかけて、足掻くのも悪くはない。
じぶんのためには生きられなくても、彼女のためなら、今ならなんだってできる気がする。
私は覚悟を決めて、ドアノブを回した。