「私……私、毎朝、死にたかった。電車に飛び込む夢とか、ベランダから飛び降りる夢とか、毎日のように見て……」
いつか本当に、そうなってしまうんじゃないかと思った。いや、むしろ、そうしろとだれかに言われているような気さえしていた。
「あなたは真面目だから、目の前にある選択肢が見えなくなってしまったのね」
「せん……たくし……?」
滲む視界でローズマリーを見上げる。ローズマリーは私の目元に溜まった涙を優しく拭いながら、言った。
「あなたには、いくつも選択肢があったはずよ。たとえばそうね、転職するとか病院に行くとか。あとは友だちに相談するとか……ほかにもいろいろあったはず。でも、あなたは日々を生きることに精一杯で、そのどれもを見逃して、捨ててしまってたのよ」
……そうだ。
私はただ、あの会社を辞めればよかったのだ。べつに、あの会社にこだわっていたわけではなかったのだから。
頭では分かっていた。
「転職……は、少し考えた」
でも、どうしても行動できなかったのだ。
「どうしてしなかったの?」
ローズマリーが問う。
「だって……」
再就職のリスクや面倒を考えると、とてもそんな選択をする気にはなれなかった。
……それに。
「私……ただでさえ会社には迷惑をかけてましたし……こんな忙しい時期に辞めたいなんて、そんなわがまま言えなくて……」
いちばんは、上司に言い出す勇気がなかったのだ。
逃げるのかと思われるかもしれない。責められるかもしれない。そう思うと、怖くて。
俯くと、ローズマリーは呆れたように笑いながらも、優しい声で言う。
「まったく、おバカさんね……。そんなこと言ってたら、いつになっても辞められないじゃない」
「そう……だよね」
「でも、あなたは真面目だから、途中で放り投げることができなかったのね」
私は首を振る。
「違います……私は臆病だっただけ」
俯きかけた私を、ローズマリーのまっすぐな銀眼が貫く。
「そんなことない。あなたは優しくて誠実で、責任感があるから、上司の期待に応えたくて、部下を見捨てられなかったのよ」
唇の隙間から、ふっと息が漏れた。
「そんな……こと」
ローズマリーの言葉に、また涙があふれ出す。
泣き出した私を、ローズマリーは今度はさっきより強く抱き締めた。その腕のあたたかさに、私はさらに涙腺を緩ませる。
分かってもらえるなんて思わなかったのに……。
「でもね、ことり。それでも、死んだらダメなのよ。死んでしまったら、すべて終わっちゃうんだもの」
「うん……っ」
そうだ。死んだらなにもかも終わってしまう。消えてしまう。
「でも、立派。私にはぜったいできないから」
「ううっ……ローズマリー……っ!」
ローズマリーは笑いながら、私が泣き止むまでずっと抱きしめてくれていた。
***
しばらくして泣き止むと、 ローズマリーはあらためて言った。
「……それで、さっきの質問に戻るのだけど」
「死にたいか、ってことよね」
私は頷いて、ローズマリーへ告げる。
「私……死にたくない」
今ならはっきりとそう思える。
こんなことで死にたくない。私は、もっと生きたい。
強い口調で答えると、ローズマリーは笑った。
「そう来なくっちゃね」
しかし、そうは言うものの、不安はまだある。私は周囲を見渡した。
「……でも、ここはどこ? 私たち、こんな変な場所にいるってことは、もう死んじゃったってことじゃないの?」
「んーそれなんだけどね。私たちはお互い死にかけてはいるけれど、厳密に言えばまだ死んでないと思うの。だってほら、あれを見て」
ローズマリーが、不意に私の背後を指さした。彼女の袖のフリルが優雅に揺れる。
「あれ……?」
振り向くと、それまでなにもなかった白い壁に、ぬっと扉が現れた。
「わっ!?」
桃色の扉と、赤色の扉だ。
桃色の扉の中央には、『百瀬ことり』というプレートが、赤色の扉には『ローズマリー・ベリーズ』というプレートがそれぞれかけられている。
「なに……あれ?」
扉を見つめたまま首を傾げると、ローズマリーが言った。
「あの扉を進むと、たぶん、私たちはそれぞれの世界に戻れるんだと思うわ。でも、どっちがどっちに戻るかが明暗を分けるのだと思う」
「どっちがって、どういうこと? 私がローズマリーの扉をくぐることはできないでしょ?」
私は百瀬ことりの扉、ローズマリーはローズマリーの扉をくぐって元の世界に戻る。それしか道はないだろうと思っていると、ローズマリーは首を振った。
「ううん、きっとできる」
と、ローズマリーは桃色のほうの扉を見て言った。
「じぶんの世界にそのまま戻ってしまったら、私たちはおそらく、そろって死亡エンド。なんとなく分かるでしょ? あなたも私も、限界を越えて今ここにいるのだから、戻ったところで意味ないって」
少し考えてから、私は頷く。
「……たしかに、私も今戻ったところで、ちゃんと頭を切り替えられるかって言われたら、自信がないかも」
また、恐怖に呑まれてしまうかもしれない。いや、きっと呑まれる。
「でしょ? 私もそう。決まってしまった判決を覆す自信はない。だからね、ことり。私たち、人生を交換しましょ」
「……はっ?」
素っ頓狂な声が出る。一瞬、理解ができなかった。
人生を、交換?
「ど、どういうこと?」
「そのままの意味よ。私とあなたの人生を交換するの。あなたはローズマリーとして、私はことりとして生まれ変わるの」
「……私が、ローズマリーとして……? そんなこと、できるの?」
「できる。というか、私たちが生き抜くには、たぶんもうそれしか方法はない。お互いがお互いを生かすために生きるのよ」
ふと、ローズマリーの言葉を思い出す。
「…………そういえば、さっき、ローズマリーは無実って言ってたけど」
私の直接的な質問に、ローズマリーは目を伏せた。
「ご、ごめん……」
思い出したくないことを思い出させてしまったかもしれない。
「いいのよ。……そう、私は罪人。今の私に待ってるのは死だけ」
「……それって、」
死刑、ということだろうか?
一瞬、彼女の眉が苦しげに寄せられたのを、私は見逃さない。
「……ねぇ、聞いてもいいかな。ローズマリーは、なにがあったの?」
おそるおそる訊ねると、ローズマリーは少し戸惑うように視線を泳がせてから、私を見た。
「……私の話を、聞いてくれるの?」
大きく頷く。
「当たり前でしょ! だってあなたは、初めて私の話を聞いてくれた恩人だもの。あなたの話も、聞かせて」
ローズマリーはわずかに目元を赤くして、こくりと頷いた。