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第3話

「私……私、毎朝、死にたかった。電車に飛び込む夢とか、ベランダから飛び降りる夢とか、毎日のように見て……」

 いつか本当に、そうなってしまうんじゃないかと思った。いや、むしろ、そうしろとだれかに言われているような気さえしていた。

「あなたは真面目だから、目の前にある選択肢が見えなくなってしまったのね」

「せん……たくし……?」

 滲む視界でローズマリーを見上げる。ローズマリーは私の目元に溜まった涙を優しく拭いながら、言った。

「あなたには、いくつも選択肢があったはずよ。たとえばそうね、転職するとか病院に行くとか。あとは友だちに相談するとか……ほかにもいろいろあったはず。でも、あなたは日々を生きることに精一杯で、そのどれもを見逃して、捨ててしまってたのよ」

 ……そうだ。

 私はただ、あの会社を辞めればよかったのだ。べつに、あの会社にこだわっていたわけではなかったのだから。

 頭では分かっていた。

「転職……は、少し考えた」

 でも、どうしても行動できなかったのだ。

「どうしてしなかったの?」

 ローズマリーが問う。

「だって……」

 再就職のリスクや面倒を考えると、とてもそんな選択をする気にはなれなかった。

 ……それに。

「私……ただでさえ会社には迷惑をかけてましたし……こんな忙しい時期に辞めたいなんて、そんなわがまま言えなくて……」

 いちばんは、上司に言い出す勇気がなかったのだ。

 逃げるのかと思われるかもしれない。責められるかもしれない。そう思うと、怖くて。

 俯くと、ローズマリーは呆れたように笑いながらも、優しい声で言う。

「まったく、おバカさんね……。そんなこと言ってたら、いつになっても辞められないじゃない」

「そう……だよね」

「でも、あなたは真面目だから、途中で放り投げることができなかったのね」

 私は首を振る。

「違います……私は臆病だっただけ」

 俯きかけた私を、ローズマリーのまっすぐな銀眼が貫く。

「そんなことない。あなたは優しくて誠実で、責任感があるから、上司の期待に応えたくて、部下を見捨てられなかったのよ」

 唇の隙間から、ふっと息が漏れた。

「そんな……こと」

 ローズマリーの言葉に、また涙があふれ出す。

 泣き出した私を、ローズマリーは今度はさっきより強く抱き締めた。その腕のあたたかさに、私はさらに涙腺を緩ませる。

 分かってもらえるなんて思わなかったのに……。

「でもね、ことり。それでも、死んだらダメなのよ。死んでしまったら、すべて終わっちゃうんだもの」

「うん……っ」

 そうだ。死んだらなにもかも終わってしまう。消えてしまう。

「でも、立派。私にはぜったいできないから」

「ううっ……ローズマリー……っ!」

 ローズマリーは笑いながら、私が泣き止むまでずっと抱きしめてくれていた。



 ***



 しばらくして泣き止むと、 ローズマリーはあらためて言った。

「……それで、さっきの質問に戻るのだけど」

「死にたいか、ってことよね」

 私は頷いて、ローズマリーへ告げる。

「私……死にたくない」

 今ならはっきりとそう思える。

 こんなことで死にたくない。私は、もっと生きたい。

 強い口調で答えると、ローズマリーは笑った。

「そう来なくっちゃね」

 しかし、そうは言うものの、不安はまだある。私は周囲を見渡した。

「……でも、ここはどこ? 私たち、こんな変な場所にいるってことは、もう死んじゃったってことじゃないの?」

「んーそれなんだけどね。私たちはお互い死にかけてはいるけれど、厳密に言えばまだ死んでないと思うの。だってほら、あれを見て」

 ローズマリーが、不意に私の背後を指さした。彼女の袖のフリルが優雅に揺れる。

「あれ……?」

 振り向くと、それまでなにもなかった白い壁に、ぬっと扉が現れた。

「わっ!?」

 桃色の扉と、赤色の扉だ。

 桃色の扉の中央には、『百瀬ことり』というプレートが、赤色の扉には『ローズマリー・ベリーズ』というプレートがそれぞれかけられている。

「なに……あれ?」

 扉を見つめたまま首を傾げると、ローズマリーが言った。

「あの扉を進むと、たぶん、私たちはそれぞれの世界に戻れるんだと思うわ。でも、どっちがどっちに戻るかが明暗を分けるのだと思う」

「どっちがって、どういうこと? 私がローズマリーの扉をくぐることはできないでしょ?」

 私は百瀬ことりの扉、ローズマリーはローズマリーの扉をくぐって元の世界に戻る。それしか道はないだろうと思っていると、ローズマリーは首を振った。

「ううん、きっとできる」

 と、ローズマリーは桃色のほうの扉を見て言った。

「じぶんの世界にそのまま戻ってしまったら、私たちはおそらく、そろって死亡エンド。なんとなく分かるでしょ? あなたも私も、限界を越えて今ここにいるのだから、戻ったところで意味ないって」

 少し考えてから、私は頷く。

「……たしかに、私も今戻ったところで、ちゃんと頭を切り替えられるかって言われたら、自信がないかも」

 また、恐怖に呑まれてしまうかもしれない。いや、きっと呑まれる。

「でしょ? 私もそう。決まってしまった判決を覆す自信はない。だからね、ことり。私たち、人生を交換しましょ」

「……はっ?」

素っ頓狂な声が出る。一瞬、理解ができなかった。

 人生を、交換?

「ど、どういうこと?」

「そのままの意味よ。私とあなたの人生を交換するの。あなたはローズマリーとして、私はことりとして生まれ変わるの」

「……私が、ローズマリーとして……? そんなこと、できるの?」

「できる。というか、私たちが生き抜くには、たぶんもうそれしか方法はない。お互いがお互いを生かすために生きるのよ」

 ふと、ローズマリーの言葉を思い出す。

「…………そういえば、さっき、ローズマリーは無実って言ってたけど」

 私の直接的な質問に、ローズマリーは目を伏せた。

「ご、ごめん……」

 思い出したくないことを思い出させてしまったかもしれない。

「いいのよ。……そう、私は罪人。今の私に待ってるのは死だけ」

「……それって、」

 死刑、ということだろうか?

 一瞬、彼女の眉が苦しげに寄せられたのを、私は見逃さない。

「……ねぇ、聞いてもいいかな。ローズマリーは、なにがあったの?」

 おそるおそる訊ねると、ローズマリーは少し戸惑うように視線を泳がせてから、私を見た。

「……私の話を、聞いてくれるの?」

 大きく頷く。

「当たり前でしょ! だってあなたは、初めて私の話を聞いてくれた恩人だもの。あなたの話も、聞かせて」

 ローズマリーはわずかに目元を赤くして、こくりと頷いた。

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