それからは、上司だけでなく後輩にまで気を遣うようになった。
後輩に仕事を任せるより、じぶんでやったほうが気も遣わずに済むし、早いと気付いてからは少し楽になったけれど、そのぶんさらにタスクが増えた。
身体は疲れ切っているはずなのに、眠れなくなった。
睡眠薬を飲んでも、眠れずただぼーっとするだけで朝が来た。
コピー機の機械音や上司の声が耳から離れなくなった。
そんな日々が数ヶ月続いて、ある日、洗濯物を干していたら、どこからか声が聴こえた。
――助けて!
「……え?」
振り向いても、だれもいない。
直後、喉が詰まったような感覚になって、咳き込んだ。
反射的に手で口を押さえる。しばらくして咳がおさまって、手のひらに違和感を感じて見ると、赤黒いものがべっとりと付いていた。
「なに……これ」
血だ。
私は、吐血していた。
その直後、私は意識を失った。
***
――助けて!
緊迫した声に、私はハッと目を覚ます。
いつものように飛び起きて時計を探すが、見渡す限り、視界は白いまま。
不思議に思って瞬きを繰り返していると、次第に意識がはっきりしてきた。
私はどうしてか、家具がひとつもない、窓すらない四面真っ白な空間に転がっていた。
――なに、ここ……?
困惑していると、視界の端にちらりと赤いなにかが映った。
反射的に目で追うと、そこにいたのは――。
「こんにちは」
そこには赤と黒の高級そうなドレスを着た、見知らぬ女性が立っていた。
桃色の髪に銀眼の、ハッとするほど美しい女性だ。
「あなたは……」
じぶんが発した声が、どこか遠くに感じる。戸惑っていると、女性がにこりと笑った。
「私はローズマリー・ベリーズ。公爵令嬢よ」
「ローズマリー……? って、外人さん?」
それに、公爵って。つまりローズマリーは、お嬢さまということなのだろうか?
まだぼんやりする頭でぐるぐる考える。と、ローズマリーが私のかたわらにしゃがみ込んで、視線を合わせてきた。
「ねぇ、あなたの名前を教えて?」
ローズマリーに訊ねられ、私はハッと背筋を伸ばす。
名前、なんだっけ、と一瞬考える。
「私は……えっと、百瀬、ことりです」
しどろもどろになりながらも名乗ると、ローズマリーはふっと微笑んだ。
「ことり。はじめまして。さっそくだけどあなた、私と取引しましょ?」
「取引?」
「えぇ。あのね、簡潔に今の状況を説明するけど、私とあなたは今、ぜったい絶命の状態なのね。あなたは過労で、このままだともうじき死ぬでしょう」
「過労……」
「記憶、あるでしょ?」
そういえば、そうだった。
私は、さっきまで家で洗濯物を干していたはず。そこで咳き込んで……。
記憶を辿りながら、手のひらへ視線をやる。手のひらには、赤黒いシミがあった。
吐血したときのものだろう。
そういえば、過労で血を吐くなんて知らなかった。過労死したひとは、みんな血を吐いて死んでいったのだろうか。しかし、今はぜんぜん、身体のどこもなんともない。不思議だ。死の間際とは、こんなものなのだろうか?
「ね? 思い出した?」
小さく頷き、目を伏せる。
「……そう。私、死ぬの」
身に覚えがあり過ぎてなのか、心が疲弊し過ぎてなのか。もはや驚くことすらできない。
ぼんやりしていると、視線を感じた。顔を上げると、ローズマリーがじっと私を見ていた。私は首を傾げる。
「……ねぇ、ことり。ひとつ聞かせて。あなた、このまま死にたい?」
「…………」
答えられなかった。分からないのだ。
今、身体も心もすごく落ち着いているから。これが死というものなら、このままでいたいという気もする。
だって、こんなに身体が軽いのはいつぶりか分からないから。
「私は、死にたくないわ」
ぼんやりする頭で考えていると、ローズマリーがはっきりとした声で言った。
顔を上げる。
「私は、無実の罪で死ぬのはごめんだわ」
えっ、と、思わず声が漏れる。
「……あなた、罪人なの?」
訊ねると、ローズマリーがムッとした顔をする。
「無実って言ってるでしょうが」
パッと口を押さえた。
「……あ、ごめんなさい。じゃあ、あなたはなにも悪くないのに罪を着せられてるってこと?」
言い直すと、ローズマリーは頷いた。
「そうよ。私はだれかに陥れられたのよ」
ローズマリーは美しい顔を歪めて、小さく舌打ちをした。
こんなに可愛らしい女性でも舌打ちとかするんだな、なんて思っていると、ローズマリーがふと真剣な顔を私に向けた。
「それに、あなたにも死んでほしくない」
「えっ……?」
「あなたが眠ってるあいだ、少しばかり記憶を覗かせてもらったわ。だから言うのだけど、私、あなたのこと好きよ。優し過ぎてちょっといらいらするところはあるけど、でも好き。努力家なところは私に似てるし。それに、いちばん気に入ったのはね――罪を被らなかったところよ」
「……罪……?」
ローズマリーがなんのことを言っているのか分からず、私は首を捻った。
「あなた、部下のミスをフォローすることはしても、ぜったいに被らなかったでしょ。それはえらいと思うわ」
ローズマリーは優しい顔で私を見ている。
「えらい……?」
ローズマリーの顔を見た瞬間、頬をあたたかいなにかがつたった。慌てて手を持っていく。それは、私の目から落ちた涙だった。私は、泣いていた。
「えらいわ。だってそこ、結構間違いがちなところじゃない? ミスを代わりに被ってやれば、手っ取り早く後輩の信頼も得られるし、じぶんと関係が築けている上司なら、多少のことなら軽く謝れば済んでしまうもの。でも、あなたはそれをしなかった。面倒でも、後輩を注意して正しいやりかたを教えて、上司への報告もきちんとさせていた。すごいわ。そういうのは、忙しいときほど、できないことだから」
びっくりした。
こんなお嬢さまに、そんなことを言われるだなんて。
「……そんなこと……ない……だってそれ、上司に怒られたし……」
呆然と呟く。だって、上司には、あなたがやればなんの問題もなかったのにと言われた。あなたが間違ってると言われた。だから、私は、間違ったのだと、ずっと思っていた。
そう思ってローズマリーを見ると、彼女はあまりに優しい顔で、私を見ていた。
唇を引き結ぶ。
「私……は……間違ってなかったのかな……?」
絞り出すように呟いた私に、ローズマリーははっきりとした声で言う。
「間違ってないわ。あなたはなにひとつ間違ってない」
――間違ってない。
私は、間違ってない。
「ふっ……」
ずっと堪えていた涙が、堰を切ったようにあふれ出す。
「ずっとひとりで抱えて、踏ん張って……辛かったね」
ローズマリーは、ぽろぽろと泣き始めた私を優しく抱き締めた。
だれも言ってくれなかった言葉をようやくもらえて、ローズマリーに肯定されて、私はさらに号泣する。
子どものようにしゃくり上げながら、どこにこんな力があったんだろうと思うくらいに、泣いた。