目次
ブックマーク
応援する
5
コメント
シェア
通報
第2話

 それからは、上司だけでなく後輩にまで気を遣うようになった。

 後輩に仕事を任せるより、じぶんでやったほうが気も遣わずに済むし、早いと気付いてからは少し楽になったけれど、そのぶんさらにタスクが増えた。

 身体は疲れ切っているはずなのに、眠れなくなった。

 睡眠薬を飲んでも、眠れずただぼーっとするだけで朝が来た。

 コピー機の機械音や上司の声が耳から離れなくなった。

 そんな日々が数ヶ月続いて、ある日、洗濯物を干していたら、どこからか声が聴こえた。


 ――助けて!


「……え?」

 振り向いても、だれもいない。

 直後、喉が詰まったような感覚になって、咳き込んだ。

 反射的に手で口を押さえる。しばらくして咳がおさまって、手のひらに違和感を感じて見ると、赤黒いものがべっとりと付いていた。

「なに……これ」

 血だ。

 私は、吐血していた。

 その直後、私は意識を失った。



 ***



 ――助けて!


 緊迫した声に、私はハッと目を覚ます。

 いつものように飛び起きて時計を探すが、見渡す限り、視界は白いまま。

 不思議に思って瞬きを繰り返していると、次第に意識がはっきりしてきた。

 私はどうしてか、家具がひとつもない、窓すらない四面真っ白な空間に転がっていた。

 ――なに、ここ……?

 困惑していると、視界の端にちらりと赤いなにかが映った。

 反射的に目で追うと、そこにいたのは――。

「こんにちは」

 そこには赤と黒の高級そうなドレスを着た、見知らぬ女性が立っていた。

 桃色の髪に銀眼の、ハッとするほど美しい女性だ。

「あなたは……」

 じぶんが発した声が、どこか遠くに感じる。戸惑っていると、女性がにこりと笑った。

「私はローズマリー・ベリーズ。公爵令嬢よ」

「ローズマリー……? って、外人さん?」

 それに、公爵って。つまりローズマリーは、お嬢さまということなのだろうか?

 まだぼんやりする頭でぐるぐる考える。と、ローズマリーが私のかたわらにしゃがみ込んで、視線を合わせてきた。

「ねぇ、あなたの名前を教えて?」

 ローズマリーに訊ねられ、私はハッと背筋を伸ばす。

 名前、なんだっけ、と一瞬考える。

「私は……えっと、百瀬、ことりです」

 しどろもどろになりながらも名乗ると、ローズマリーはふっと微笑んだ。

「ことり。はじめまして。さっそくだけどあなた、私と取引しましょ?」

「取引?」

「えぇ。あのね、簡潔に今の状況を説明するけど、私とあなたは今、ぜったい絶命の状態なのね。あなたは過労で、このままだともうじき死ぬでしょう」

「過労……」

「記憶、あるでしょ?」

 そういえば、そうだった。

 私は、さっきまで家で洗濯物を干していたはず。そこで咳き込んで……。

 記憶を辿りながら、手のひらへ視線をやる。手のひらには、赤黒いシミがあった。

 吐血したときのものだろう。

そういえば、過労で血を吐くなんて知らなかった。過労死したひとは、みんな血を吐いて死んでいったのだろうか。しかし、今はぜんぜん、身体のどこもなんともない。不思議だ。死の間際とは、こんなものなのだろうか?

「ね? 思い出した?」

 小さく頷き、目を伏せる。

「……そう。私、死ぬの」

 身に覚えがあり過ぎてなのか、心が疲弊し過ぎてなのか。もはや驚くことすらできない。

 ぼんやりしていると、視線を感じた。顔を上げると、ローズマリーがじっと私を見ていた。私は首を傾げる。

「……ねぇ、ことり。ひとつ聞かせて。あなた、このまま死にたい?」

「…………」

 答えられなかった。分からないのだ。

 今、身体も心もすごく落ち着いているから。これが死というものなら、このままでいたいという気もする。

 だって、こんなに身体が軽いのはいつぶりか分からないから。

「私は、死にたくないわ」

 ぼんやりする頭で考えていると、ローズマリーがはっきりとした声で言った。

 顔を上げる。

「私は、無実の罪で死ぬのはごめんだわ」

 えっ、と、思わず声が漏れる。

「……あなた、罪人なの?」

 訊ねると、ローズマリーがムッとした顔をする。

「無実って言ってるでしょうが」

 パッと口を押さえた。

「……あ、ごめんなさい。じゃあ、あなたはなにも悪くないのに罪を着せられてるってこと?」

 言い直すと、ローズマリーは頷いた。

「そうよ。私はだれかに陥れられたのよ」

 ローズマリーは美しい顔を歪めて、小さく舌打ちをした。

 こんなに可愛らしい女性でも舌打ちとかするんだな、なんて思っていると、ローズマリーがふと真剣な顔を私に向けた。

「それに、あなたにも死んでほしくない」

「えっ……?」

「あなたが眠ってるあいだ、少しばかり記憶を覗かせてもらったわ。だから言うのだけど、私、あなたのこと好きよ。優し過ぎてちょっといらいらするところはあるけど、でも好き。努力家なところは私に似てるし。それに、いちばん気に入ったのはね――罪を被らなかったところよ」

「……罪……?」

 ローズマリーがなんのことを言っているのか分からず、私は首を捻った。

「あなた、部下のミスをフォローすることはしても、ぜったいに被らなかったでしょ。それはえらいと思うわ」

 ローズマリーは優しい顔で私を見ている。

「えらい……?」

 ローズマリーの顔を見た瞬間、頬をあたたかいなにかがつたった。慌てて手を持っていく。それは、私の目から落ちた涙だった。私は、泣いていた。

「えらいわ。だってそこ、結構間違いがちなところじゃない? ミスを代わりに被ってやれば、手っ取り早く後輩の信頼も得られるし、じぶんと関係が築けている上司なら、多少のことなら軽く謝れば済んでしまうもの。でも、あなたはそれをしなかった。面倒でも、後輩を注意して正しいやりかたを教えて、上司への報告もきちんとさせていた。すごいわ。そういうのは、忙しいときほど、できないことだから」

 びっくりした。

 こんなお嬢さまに、そんなことを言われるだなんて。

「……そんなこと……ない……だってそれ、上司に怒られたし……」

 呆然と呟く。だって、上司には、あなたがやればなんの問題もなかったのにと言われた。あなたが間違ってると言われた。だから、私は、間違ったのだと、ずっと思っていた。

 そう思ってローズマリーを見ると、彼女はあまりに優しい顔で、私を見ていた。

 唇を引き結ぶ。

「私……は……間違ってなかったのかな……?」

 絞り出すように呟いた私に、ローズマリーははっきりとした声で言う。

「間違ってないわ。あなたはなにひとつ間違ってない」

 ――間違ってない。

 私は、間違ってない。

「ふっ……」

 ずっと堪えていた涙が、堰を切ったようにあふれ出す。

「ずっとひとりで抱えて、踏ん張って……辛かったね」

 ローズマリーは、ぽろぽろと泣き始めた私を優しく抱き締めた。

 だれも言ってくれなかった言葉をようやくもらえて、ローズマリーに肯定されて、私はさらに号泣する。

 子どものようにしゃくり上げながら、どこにこんな力があったんだろうと思うくらいに、泣いた。


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?