――助けて!
頭のなかで、声が響いた。
声のするほうへ向かうと、彼女がいた。
人形のように美しい容姿をした彼女は、私に言った。
もう一度、『助けて』と。
彼女はもう、じぶんを愛せなくなってしまっていたのだ。
同じく孤独を抱えていた私は、彼女と、人生を交換した。
もう一度、生きるために。
だけど……今思えば、あの叫びは彼女のものではなく、私のものだったのかもしれない。
***
――ぴちょん。
鼻先にひんやりとした冷たさを感じて目を覚ます。
目を覚ました瞬間、私は見えないなにかに追われるように飛び起きた。
「やばっ! 仕事――」
急いで時間を確認しようと、いつものように視線を流す。
――あれ?
時計があるはずの壁が、おかしい。
「ここ……どこ?」
声を発して、また違和感を感じる。
反射的に喉を押さえた。
――なにこれ。私の声じゃない?
よく見たら、部屋も知らない。
暗くて、どこからか冷たい風が入ってくる。石でできた壁に、鉄の――。
「……なに、これ。檻?」
すうっと、恐怖が胸に落ちる。
「えっ……ちょっと待って」
私はベッドに座っている。服は、着ている。赤と黒のシックなドレス。豪奢だけれど、ちょっと派手。肌の露出もちょっと多い。
――ぴちょん。
水音がした。目を向けると、水たまりがある。雨漏りのようだ。
私はおそるおそる、そこへ足を向けた。
水たまりを覗き込んで、固まる。
水たまりに映ったのは、まるでビスクドールのような少女。
艶のある桃色の髪に、薄暗い牢獄のなかでも煌めく銀眼。高く通った鼻筋と、ふっくらと形のいい唇。
水溜まりの向こうには、びっくりするくらい美しい、私好みの少女がいる。
「……っ」
だれ、と呟こうとして、言葉を呑み込む。
違う。私はこの子を知っている。
この子の名前は、
「ローズマリー……」
そう。この少女の名前は、ローズマリー・ベリーズ。
リカール王国第一王子の元婚約者で、現在死刑執行を待つ大罪人だ。
でも、私は知っている。
彼女の過去を。
彼女の絶望を。
なにより彼女が、無実であることを。
だから私は、彼女と人生を交換したのだ。
彼女を生かすために。
***
――百瀬さん、この報告書も頼んでいいかな?
分かりました。明日までで大丈夫ですか?
――うん、助かるよ。
――モモ先輩、これ、私どうしても分かんなくって……。
あぁ、これね、難しいよね。いいよいいよ、私がやっておくから。
――百瀬、これ間違ってるからやり直し。今日中に修正して直して。先方には会議の時間も変わるって伝えておけよ。
はい……すみません。すぐ直します。
――おい、百瀬!
はい!
――あの、百瀬さん……。
はい。
――モモ先輩〜。
はい……。
現代にいた頃、私は、いわゆるブラック企業と呼ばれる会社で働いていた。
私が働いていたのは、広報部。
会社自体が中途半端な規模であるがゆえ、ひとりに対する割り当てが多く、そのぶんさまざまな仕事をこなさねばならなかった。
毎日朝から深夜まで書類に埋もれて、へろへろになって家に帰っても、シャワーを浴びて寝るだけ。
目を閉じたら、あっという間に朝が来る。
入社した頃は、先輩に言われた仕事をこなしていればよかった。けれど、二年目からはそうはいかない。ちゃんとじぶんで考えて、じぶんの仕事をしないといけない。後輩も入ってくるから、フォローもしないといけない。
幸い、後輩は素直ないい子で、分からないことがあったらすぐに聞いてくれる。だからフォローもしやすい。
けれどその代わり、できないと諦めるのも早かった。
上司から下ってくる仕事、同僚に手伝ってほしいと頼まれた仕事、後輩のフォロー。
仕事が倍以上に増えた。
仕方ない。仕事だから。
私がやらなきゃ、だれもやってくれないのだから。
そう思って踏ん張った。毎日、毎日。
――百瀬さん、なんか最近元気ないけど、大丈夫? 仕事詰め込みすぎなんじゃない?
大丈夫、大丈夫! これくらい、なんてことありませんよ! それにほら、こういうのってヒロイン体質って言いません? 私、ヒロインだからこういうの頑張れちゃうんですよ!
――百瀬さんの妄想癖は相変わらずだなぁ。でも、元気そうで安心したよ。なんかあったら言ってね。
……はい!
時折、優しいひとは声をかけてくれたけれど、笑顔でなんでもないと返した。そう返すしかなかった。
だって、弱音なんて吐いたら、どこで上司の耳に入るか分からない。下手をして異動させられたら、たまらない。それに、一度弱音を吐いてしまったら、もう立ち上がれる気がしなかった。
だから、言いたいことは呑み込んで笑った。笑い続けた。
でも、本当は。
ぜんぜん、大丈夫じゃなかった。助けてって叫びたかった。
周りはみんなおしゃれをして、ステキな恋人がいて、早いひとは結婚したりしているのに。
私は、美容室に行く時間も、安月給だからお金の余裕もなくて、ひたすら仕事の毎日。
働いても働いても、終わりが見えない。それが私の心を容赦なくすり減らしていく……。
あるとき、後輩が仕事で大きな失敗をした。
何度も教えた仕事で、私が言ったとおりにやっていれば問題なくできたはずだった。後輩とはいえ、入社して半年以上経つ。こんなこともできなかったら、この先仕事をなにも任せられなくなる。
だから、軽く注意した。本当に軽くだ。
……でも、それがまずかった。
翌日、後輩は仕事に来なかった。
なんの連絡もない。無断欠勤だ。電話も通じず、心配していたら上司から呼び出された。そしてなぜか、私が注意された。
――百瀬さん。彼女が、あなたからパワハラを受けたと言っているんだが。
……は?
困惑した。言葉の理解ができなかった。
――もう、あなたの顔を見るのが怖くて、出社したくないと言っているそうだ。百瀬さん、後輩にはもう少し優しくしてやってくれないか。
でも……私、これまでずっと彼女のフォローをしてきて……例の資料だって、私、何度も教えてたし、ずっと代わってやってきて……。
なんで、私が怒られてるの? なんで。
――それなら、今回もあなたが作ればよかったじゃないか。なんで任せたんだ。
なんで……?
返す言葉もなかった。
いつまでも私がやっていては、彼女のためにならないと思っただけなのに。彼女に、しっかり成長してほしいと思っただけなのに。
……それに。私だってじぶんのことでいっぱいいっぱいだった。
……それなのに。
私が悪いの……?
――とにかく、今の子は軟弱なんだから頼むよ。
……はい。すみませんでした。