目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報
第1話



 ――助けて!


 頭のなかで、声が響いた。

 声のするほうへ向かうと、彼女がいた。

 人形のように美しい容姿をした彼女は、私に言った。

 もう一度、『助けて』と。

 彼女はもう、じぶんを愛せなくなってしまっていたのだ。

 同じく孤独を抱えていた私は、彼女と、人生を交換した。

 もう一度、生きるために。

 だけど……今思えば、あの叫びは彼女のものではなく、私のものだったのかもしれない。



 ***



 ――ぴちょん。

 鼻先にひんやりとした冷たさを感じて目を覚ます。

 目を覚ました瞬間、私は見えないなにかに追われるように飛び起きた。

「やばっ! 仕事――」

 急いで時間を確認しようと、いつものように視線を流す。

 ――あれ?

 時計があるはずの壁が、おかしい。

「ここ……どこ?」

 声を発して、また違和感を感じる。

 反射的に喉を押さえた。

 ――なにこれ。私の声じゃない?

 よく見たら、部屋も知らない。

 暗くて、どこからか冷たい風が入ってくる。石でできた壁に、鉄の――。

「……なに、これ。檻?」

 すうっと、恐怖が胸に落ちる。

「えっ……ちょっと待って」

 私はベッドに座っている。服は、着ている。赤と黒のシックなドレス。豪奢だけれど、ちょっと派手。肌の露出もちょっと多い。

 ――ぴちょん。

 水音がした。目を向けると、水たまりがある。雨漏りのようだ。

 私はおそるおそる、そこへ足を向けた。

 水たまりを覗き込んで、固まる。

 水たまりに映ったのは、まるでビスクドールのような少女。

 艶のある桃色の髪に、薄暗い牢獄のなかでも煌めく銀眼。高く通った鼻筋と、ふっくらと形のいい唇。

 水溜まりの向こうには、びっくりするくらい美しい、私好みの少女がいる。

「……っ」

 だれ、と呟こうとして、言葉を呑み込む。

 違う。私はこの子を知っている。

 この子の名前は、

「ローズマリー……」

 そう。この少女の名前は、ローズマリー・ベリーズ。

 リカール王国第一王子の元婚約者で、現在死刑執行を待つ大罪人だ。

 でも、私は知っている。

 彼女の過去を。

 彼女の絶望を。

 なにより彼女が、無実であることを。

 だから私は、彼女と人生を交換したのだ。

 彼女を生かすために。



 ***



 ――百瀬さん、この報告書も頼んでいいかな?

 分かりました。明日までで大丈夫ですか?

 ――うん、助かるよ。


 ――モモ先輩、これ、私どうしても分かんなくって……。

 あぁ、これね、難しいよね。いいよいいよ、私がやっておくから。


 ――百瀬、これ間違ってるからやり直し。今日中に修正して直して。先方には会議の時間も変わるって伝えておけよ。

 はい……すみません。すぐ直します。


 ――おい、百瀬!

 はい!


 ――あの、百瀬さん……。

 はい。


 ――モモ先輩〜。

 はい……。


 現代にいた頃、私は、いわゆるブラック企業と呼ばれる会社で働いていた。

 私が働いていたのは、広報部。

 会社自体が中途半端な規模であるがゆえ、ひとりに対する割り当てが多く、そのぶんさまざまな仕事をこなさねばならなかった。

 毎日朝から深夜まで書類に埋もれて、へろへろになって家に帰っても、シャワーを浴びて寝るだけ。

目を閉じたら、あっという間に朝が来る。

 入社した頃は、先輩に言われた仕事をこなしていればよかった。けれど、二年目からはそうはいかない。ちゃんとじぶんで考えて、じぶんの仕事をしないといけない。後輩も入ってくるから、フォローもしないといけない。

 幸い、後輩は素直ないい子で、分からないことがあったらすぐに聞いてくれる。だからフォローもしやすい。

 けれどその代わり、できないと諦めるのも早かった。

 上司から下ってくる仕事、同僚に手伝ってほしいと頼まれた仕事、後輩のフォロー。

 仕事が倍以上に増えた。

 仕方ない。仕事だから。

 私がやらなきゃ、だれもやってくれないのだから。

 そう思って踏ん張った。毎日、毎日。


 ――百瀬さん、なんか最近元気ないけど、大丈夫? 仕事詰め込みすぎなんじゃない?

 大丈夫、大丈夫! これくらい、なんてことありませんよ! それにほら、こういうのってヒロイン体質って言いません? 私、ヒロインだからこういうの頑張れちゃうんですよ!

 ――百瀬さんの妄想癖は相変わらずだなぁ。でも、元気そうで安心したよ。なんかあったら言ってね。

 ……はい!


 時折、優しいひとは声をかけてくれたけれど、笑顔でなんでもないと返した。そう返すしかなかった。

 だって、弱音なんて吐いたら、どこで上司の耳に入るか分からない。下手をして異動させられたら、たまらない。それに、一度弱音を吐いてしまったら、もう立ち上がれる気がしなかった。

 だから、言いたいことは呑み込んで笑った。笑い続けた。

 でも、本当は。

 ぜんぜん、大丈夫じゃなかった。助けてって叫びたかった。

 周りはみんなおしゃれをして、ステキな恋人がいて、早いひとは結婚したりしているのに。

 私は、美容室に行く時間も、安月給だからお金の余裕もなくて、ひたすら仕事の毎日。

 働いても働いても、終わりが見えない。それが私の心を容赦なくすり減らしていく……。


 あるとき、後輩が仕事で大きな失敗をした。

 何度も教えた仕事で、私が言ったとおりにやっていれば問題なくできたはずだった。後輩とはいえ、入社して半年以上経つ。こんなこともできなかったら、この先仕事をなにも任せられなくなる。

 だから、軽く注意した。本当に軽くだ。

 ……でも、それがまずかった。

 翌日、後輩は仕事に来なかった。

 なんの連絡もない。無断欠勤だ。電話も通じず、心配していたら上司から呼び出された。そしてなぜか、私が注意された。


 ――百瀬さん。彼女が、あなたからパワハラを受けたと言っているんだが。

 ……は?


 困惑した。言葉の理解ができなかった。


 ――もう、あなたの顔を見るのが怖くて、出社したくないと言っているそうだ。百瀬さん、後輩にはもう少し優しくしてやってくれないか。

 でも……私、これまでずっと彼女のフォローをしてきて……例の資料だって、私、何度も教えてたし、ずっと代わってやってきて……。


 なんで、私が怒られてるの? なんで。


 ――それなら、今回もあなたが作ればよかったじゃないか。なんで任せたんだ。

 なんで……?


 返す言葉もなかった。

 いつまでも私がやっていては、彼女のためにならないと思っただけなのに。彼女に、しっかり成長してほしいと思っただけなのに。

 ……それに。私だってじぶんのことでいっぱいいっぱいだった。

 ……それなのに。


 私が悪いの……?


 ――とにかく、今の子は軟弱なんだから頼むよ。

 ……はい。すみませんでした。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?