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第35話 溺れるサラ

「おーい、川上から魚を追い立ててくれ」

「はーい。サラもこれ持って」


 ハンナは長い棒をサラに渡すと、自分の棒を持って川に飛び込んだ。

 大きな音を立てて水しぶきが舞い散り、太陽の光をまき散らし、七色の橋を作っていた。

 可愛いハンナが作った風景だからか、今の自分が幸せだからか分からないが、珍しくもないそんな風景をサラは美しく、愛おしく感じていた。


「サラ、何やってるの、早くおいでよ」


 ハンナは川のなかで、棒を振り回りながらサラを呼ぶ。

 サラは棒を持ったまま、どうしようかと迷っていた。サラはせいぜい足首くらい浸かって涼むつもりだったので、エリオットやハンナのように川に入るつもりで来ていない。

 しかし、笑顔のハンナには逆らえない。

 ハンナは意を決して川に入る。

 水の冷たさと、砂の感触が足から伝わってくる。

 川の流れに足を取られて転ばないように、ゆっくりとハンナがいるところに歩いて行く。

 ハンナは川にぷかぷか浮かびながらサラに笑いかける。


「気持ちいいね」

「そうね。それで私はどうしたら良いの?」

「棒で水を叩いて、魚をパパの方においこんで」

「わかったわ」


 サラはハンナに倣って、水面を叩き始める。なるべく派手に、なるべく音を立てて川を下る。

 サラ達の騒ぎに時折、水面を跳ねる魚。

 大漁の予感がする。

 サラは魚料理に心躍らせて棒を大きく振りかぶると、足を滑らせた。

(しまった!)

 大きな音を立てて、サラは川に背中から倒れこんだ。

(あ、まずい。服が水を吸って重くて立ち上がれない。そもそも、私泳げないんだった。ああ、水面に向かって泡が泳いでいく……綺麗だな)

 サラはその泡が自分の口から出ていると気づかないまま、意識を失った。


~*~*~


 サラは生まれたての妹、アリスを抱っこしていた。

 目の前にはお父様とお母様が立っている。両親だと分かるのに、顔が陰になって表情が見えない。見えなくてもわかる。

 出来の悪い部下を見る目をしている。

 お父様は言った。

「サラよ。ファーメン家の長女として、ファーメン家に利益をもたらす人間になりなさい」

「はい、お父様」


 お母様は言った。

「サラ、あなたはファーメン家の長女として、アリスをしっかりと育てるのよ」

「はい、お母様」


 サラの一番古い記憶。

 そして王都にいた時に、繰り返し見ていた夢。

(私はファーメン家のために存在する。ファーメン家のためにアリスを最高の淑女として育て、好きでもないジェラール王子の元に嫁ぐはずだった。でも、ジェラール王子との婚約は破棄され、王都を追放され、アリスとも離されてしまった。ずっとファーメン家のため、だれかのために生きていた。それ自体は別に苦ではなかった。だから人のためでなく、ただの私として一人生きた短い間は楽しくもあり、淋しくもあった。二人が来たときは嬉しかった。だれかに求められることの喜び。だれかに必要とされたい、名前を呼ばれたい)


「……ラ、サ……」


 小さなあの子の泣き声が聞こえる。

(泣かないで)


「サラ、目をさ……して……」

(私、寝坊したのかしら。早く起きないと……)

「目を覚まして、サラ!」


 ハンナの声にサラは目を開いた。

 エリオットのどアップがそこにあった。悲しみと苦痛と焦りを三日間煮込んだような顔をしている。

 そして、その唇はサラの唇に重なっていた。

 それは柔らかく、荒々しく、そして力強かった。

 エリオットは目が覚めたサラに抱きついた。


「サラ……目が覚めて良かった」

「エリオット……」

「サラーーーーー!!」


 涙でぐちゃぐちゃのハンナがサラに抱きついてきた。

 代わりにサラから離れたエリオットがサラに聞く。


「大丈夫か?」

「私……」

「川でおぼれたんだよ」

「……そうなのね。ごめんなさい」

「いや、謝るのは俺の方だ。すまない」


 そう言ってエリオットは頭を下げた。

 身体も髪も顔もぐちゃぐちゃに濡れたハンナの頭を撫でながら、サラは身体を起こした。


「エリオットが謝る必要はないわ。泳げないことを言わなかった私が悪いし、そもそもエリオットは助けてくれたのでしょう。ありがとう」

「いや、おぼれている人を助けることは、俺にとって当たり前だ」

「あなたにとって当たり前でも、私にはそうではないのよ。だから、エリオットが謝る必要なんてないのよ」

「いや、そう言うわけにはいかない。俺は取り返しのつかないことをしたのだからな」

「取り返しのつかないこと?」


 サラはハンナを抱っこしたまま立ち上がり、首をかしげる。

 先ほどまで溺れていた後遺症も無い様子で、エリオットはホッとした。

 泣きじゃくるハンナを抱っこして、黒く短い髪は濡れ、その唇も艶やかに光っている。

 その唇を見ながら、エリオットは下を向いた。


「すまない、非常時とはいえ、女性の唇を……」

「なんだ、そんな……え、それって」

「そうだ。俺は君にキスをした」

「……」


 溺れたサラを助けるために、エリオットは救命活動、つまりマウスツーマウスの人工呼吸をしたのだった。

 二人の微妙な空気を感じたハンナはすでに泣き止み、二人の顔を交互に見ていると、サラに優しく降ろされた。

 すると、サラは両手で顔を隠しながら、家に向かって走り始めた。


「はずかしい~~~~~~~~!!」

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