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29.二杯目の紅茶

 新刊が発売された日、雅親は恋と一緒に書店に行っていた。

 恋がどうしてもというので手を繋ぐ。繋いだ手の温度にまだ慣れはしなかったけれど、不快ではないとは思っていた。

 季節は秋から冬に移り変わろうとしている。薄いジャケット越しに冷たい風が入ってきていた。

 長身で体格がよくて髪が長い恋はどうしても目立ってしまう。帽子を被って、そこに髪を入れてサングラスもかけていたが、道行くひとが振り返っているのが分かる。


「あれ、逆島恋じゃない?」

「てことは、隣りにいるのは笠井雅親?」


 メディアに顔出しをしていないので目立つのは本意ではないが、雅親の地味な顔などひとに紛れてすぐに忘れられてしまうだろうと思っていた。耳に入ってくる声に、恋が振り返って唇に人差し指を当てる。

 今日はプライベートだから騒がないでほしいという意味だろう。

 それを見たひとたちは静かに頷き、恋と雅親を写真に撮ったり、それ以上追いかけてきたりはしなかった。


 一番近所の書店に雅親が行けば、店員が顔を出してくれる。

 雅親にとってこの書店はデビューのときにも本が本当に並んでいるか見に来た書店である。

 書店員は雅親のことを覚えていた。


「笠井先生ですよね? 新刊、平積みになってますよ」


 言われて連れてこられた先には、新刊が山積みになって置いてある。

 ポップも手作りで新刊の内容に合うようにしてあった。


「笠井先生がデビューのときに書いてくださったサインも飾ってあります。近々笠井先生特集をするつもりだったんですよ」

「ありがとうございます。ポップまで手作りしていただいて。とても嬉しいです。特集のときにはまた伺います」

「あのポップは私が作らせてもらいました。笠井先生の今後のご活躍も応援しています」


 丁寧に頭を下げられて雅親の方も頭を下げる。

 手を繋いでいる恋が雅親を引き寄せたような気がした。


「どうかしましたか?」

「仲がいいんで、ちょっと妬けた」

「そんな関係じゃないですよ」

「分かってるけど、僕より昔の雅親さんを知ってた」


 拗ねているのだと分かると、雅親は恋にゆっくりと言い聞かせるように語る。


「この書店にはデビューのときにも、本当に本が並んでいるか見に来たんですよ。そのときに、どうしても平積みにされてる本と写真が撮りたくて、書店員の方に、『自分が笠井雅親です』と言って、写真を撮ってもらったんです。そのときにサインをしました」

「雅親さんのサイン、初めて見た」

「サインとかしてないですからね。ただ、自分の名前を書くことしかできなかったですよ」


 丁寧で几帳面な字で「笠井雅親」と読みやすく書かれている色紙は、雅親がサインをした最初で最後のものではないだろうか。サインというものがなくて、ただ名前を書くしかできなかったので、基本サインをお願いされても断っていたし、これならば誰が書いても同じとしか思われなかっただろう。


「帰ったら僕の本にもサインして」

「それは、嫌ですね」

「してくれないの!? こんなにもファンだし、僕は雅親さんの恋人でしょう?」

「それとこれとは別です。私のサインなんて、名前を書いてるだけですよ」

「それでも構わないから、サインして!」


 強引な恋に雅親は押し切られそうだった。


 恋は雅親の新刊を買って、部屋に帰った。恋が休みをもらっているので、雅親もその日は仕事をしないと決めていた。


「お昼ご飯、いつものでいいですか?」

「いいよ。僕が準備してもいい?」

「それじゃお願いします」


 お湯を沸かしてタイマーをかけて恋が温泉卵を作って、麵も茹でていく。冷水で麺を絞めて、お皿の上に置くと、納豆と温泉卵と梅干しを置いて、作り上げる。


「すっかり覚えましたね」

「これはできるようになったよ。教えてくれる雅親さんのおかげだね」

「パスタソースも作れるようになりましょうかね」

「うん、教えてね」


 昼食を食べて、恋は雅親に買った本を差し出してきた。


「サイン、してよ」

「だから、サインはしない主義なんです」

「お願い! 一生大事にするから!」


 名前を書いただけでサインと言えるのだろうか。

 もっとサインとは凝ったものを言うのではないだろうか。

 躊躇う雅親に恋は本とマジックを押し付けてしまった。渋々マジックの蓋を取って「笠井雅親」と丁寧で几帳面な字で書くと、恋が言う。


「僕の名前も書いて」

「馨さんへって書けばいいんですか?」

「うん! お願いします!」


 「馨さんへ」と付け加えると、受け取った恋はそのページをじっくりと見て、指で字をなぞり、うっとりとしていた。

 ただ名前を普通に書いただけなのに、そんなに感動されるとは思わなくて、雅親は驚くと共に若干引いてしまった。


「それでいいんですか?」

「これがいいんだよ。嬉しい! ありがとう、雅親さん!」


 抱き着かれそうになって雅親は身構える。本を持ったまま抱き着いてきた恋は、本が当たって硬いやら、力を入れていないときの筋肉は柔らかいやら、訳が分からなくなる。

 今はまだ恋の体に自主的に触れたいとは思わないのだが、そのうちに思うようになるのだろうか。

 抱き締められて嫌な気持ちはしなくなっているので、雅親は抵抗することもなくなっていた。


「紅茶が飲みたいな。紅茶の入れ方も覚えたいけど……」

「紅茶の入れ方も教えましょうか? 私がいないときに自由に飲めるでしょう」

「お願いします」


 頭を下げる恋に雅親は電気ポットからアクリルの透明なティーポットにお湯を注ぐ。

 そのティーポットはバットで殴っても割れないという触れ込み付きのもので、洗うときに前のティーポットを割った雅親が、今度は割れないものをと探して買ったのだった。


「お湯は電気ポットで九十八度に保温されるように設定していますから、そこから使ってください。お湯をティーポットに注いで、揺らして全面を温めたらお湯を捨てます」

「電気ポットのお湯が少なくなってたら?」

「足したら自動的に沸騰するようになっています」


 目の前で実演しながら教えていると、恋は食い入るように雅親の手先を見ている。

 続いて茶葉をティースプーン二杯分入れる。


「茶葉をティースプーンで山盛り二杯分入れてください。それからお湯を入れて、蓋をして、タイマーで三分間待って出すだけです」


 教えると、恋がタイマーのセットはしてくれた。

 三分間、ゆっくり待っていると、部屋に紅茶の香りが広がる。


「ライムの匂い。これはブリティッシュ・クーラーだね」

「そうですね。夏は終わりましたが、まだ飲み切っていなかったのでこれにしました」

「僕、この紅茶好きだな」


 話しているうちに三分が過ぎて、恋がマグカップに紅茶を注ぐ。


「紅茶の濃さが均等になるように交互に注いでください」

「あれ? このティーポットって紅茶がマグカップ二杯分入るようになってるの?」

「そうなんです」


 答えた雅親に恋が紅茶を入れ終えて目を丸くしている。


「もしかして、雅親さんは僕のために紅茶を一杯残しておいてくれたんじゃなくて、元から二杯入るものだったの!?」

「そうですね」

「うわー、ちょっとショックかも。僕のためだと思っていたのに」


 紅茶を入れ終えたティーポットを洗う恋の隣りに立って、雅親はふと真面目な顔になった。


「ずっと探していたのかもしれません。紅茶の二杯目を飲んでくれるひとを」


 それが、あなただった。


 そう言えば恋の表情がみるみる明るくなる。


「雅親さんは僕と出会う運命だったってこと?」

「運命論は信じませんが、出会ったときから、馨さんは私の紅茶を喜んでくれていたし、残さずに飲んでくれていた。それが私は嬉しかったのだと思います」


 雅親の言葉に恋が頬を赤くしているのが分かる。

 演技のときにも頬を紅潮させることができるのが逆島恋という男性だったが、雅親にはこれが演技ではないとはっきり分かっていた。

 恋は本当に雅親の言葉に顔を赤くして照れつつ喜んでくれているのだ。


 こういう穏やかな日がずっと続くのならば、恋との暮らしも悪くはないと雅親は思っていた。


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