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22.恋の告白

 鰻を店で食べるか、雅親の家で食べるか、選択を迫られた恋は答えた。


「雅親さんの家で食べたい。また記者に書かれたら、面倒なことになる」

「分かりました」


 タクシーの中で出前の電話をして、雅親はタクシーを自分のマンションの前で止めさせた。

 帽子を被っても、サングラスをしても、恋はどうしても目立ってしまう。

 長い黒髪と高い背、それに鍛え上げた体付きが目を引くのだ。

 雅親は雑誌記者に顔を知られていないはずだが、どこで流出するとも限らない。雅親が目立たない平穏な生活を好んでいると分かっているからこそ、恋は自分も目立つようなことは避けたかった。


 一緒に暮らしていたときには、雅親が食事の準備をしてくれる代わりに、恋は食費は全部出していた。演技ばかりで遊ぶ暇もなかった恋には、かなりの貯金がある。それを使い切るのは相当贅沢してもかなりの時間がかかるだろう。

 鰻の代金も恋が払うつもりでいたが、出前で来た重箱を雅親は恋に運ばせた。


「食卓に置いてください」

「分かったよ」


 運んでいる間に、雅親に支払いを済まされてしまって、恋はしまったと思った。ここは格好良く恋が支払うべきだったのに。


「雅親さん、鰻の代金……」

「千秋楽のお祝いです。おかげさまで、誰一人欠けることなく、千秋楽まで舞台が続けられました。あなたの演技も素晴らしかったですよ」

「ありがとうございます……」


 そう言われてしまうと鰻を奢られるしかなくなる。


「温かいうちに食べましょう」


 冷蔵庫から恋の好きだと言った銘柄のビールを取り出し、自分にはコーラを出して、雅親がグラスを渡してくれる。グラスも冷蔵庫で冷やされていたようで白くなって手にひんやりと心地いい。


 ビールを飲みながら食べる鰻は、外側はパリッと焼かれて、中はふっくらとしてとても美味しい。鰻のたれが絶品でそれをご飯にかけるだけでも、ご飯が進みそうな勢いである。

 マチネとソワレの二回公演で、休憩時間に弁当を半分くらい詰め込んだだけだったので、恋はものすごくお腹が空いていた。初めに半分くらい一気に食べてしまってから、雅親のお重を見て、少しずつしか減っていないのに気付いて恋は箸を止めた。


「雅親さんって、鰻、好き?」

「はい、まぁ」


 珍しく雅親が断言しないで曖昧な返事をしている。

 これはもしかして鰻が好きなのではなかったのではないか。

 自分ばかりが美味しく好物を食べさせてもらって、雅親には我慢させてしまったのではないかと気付くと、恥ずかしさで恋は浮かれていた気持ちがしぼんでいく。


「ごめん、僕に合わせてくれたんだよね? 無理して食べることないから」

「嫌いというわけではないので平気です」

「それって、好きっていうわけでもないってことだよね?」

「気付かれないと思ったのですが、あなた、意外と鋭いですね」


 ため息をついた雅親に、恋はこんなはずではなかったのにと後悔する。

 雅親と楽しく食卓を囲んで、その後に告白を考えていたのに、雅親に気を遣わせてしまった。


「雑誌で見ました。あなたが鰻が好きなことと、鰻に関する家族との思い出の記事。それで、鰻を食べさせたいと思ったのは私なので、私のことは気にせずに楽しんでください」

「気にするよ。無理して食べてない?」

「小さいころに食べて以来だったので、こんな味だったかと思い出してます」


 鰻とご飯を口に入れてしっかりと噛み締めて飲み込む雅親が、コーラを飲んで口を開いた。


「私も小さいころに両親と鰻を食べに行ったことがあるんですよ。両親との小旅行で、三月で、ひな祭りの雛飾りを見に行って」

「雅親さんもそこに行ったの? 僕が行ったのもそこだよ」

「雛飾りは綺麗でいい思い出として残っているんですが、鰻は食べるまでにものすごく並んで、それで食べたときには疲れ切っていて、いい思い出にならなかったのかもしれません」

「そっか……。僕のときは両親は馴染の店に予約していたっぽかったもんな」


 雅親の口から亡くなった両親の話を聞くのは初めてかもしれない。

 身を乗り出すと、雅親はそれ以上は話さず黙って食べ始めた。


 食べ終わってお重とグラスを洗って拭いて片付けると、恋は雅親の手を取った。手を握られて雅親は不思議そうに恋を見上げている。


「雅親さんに聞いてほしかった。この公演中は、僕は役が憑りついてるような状態で、本当の自分じゃない感じがしてたから、言えなかったんだけど」

「はい、何でしょう」

「僕は、雅親さんのことが……」


 そこまで言って、恋は耳が熱くなるのを感じていた。続きを言おうとしても、陸に打ち上げられた魚のように口を開閉するだけでうまく言葉が出てこない。


 好きと言って縋って、涙でも見せれば雅親は恋に絆されてくれる。

 恋はそれを完璧にできる気でいたのだ。


 どんな長台詞でも間違えずに言う自信があった。

 どんなときであろうとも、演技ならば泣ける自信があった。


 それなのに、今、それができない。


「雅親さんのことが……す……」


 「好き」の二文字が口から出てこない。

 顔は真っ赤で、相当みっともない姿になっているだろう。

 涙だって簡単に出せると思ったのに、全然出てくる気配がない。


 恋は違う意味で泣きたかった。


 完璧な告白の前に、雅親に気を遣わせる夕食を取ってしまったし、今度こそ挽回しようと思ったのに、それができない。


「あの、手を放してもらってもいいですか?」

「待って! お願い! ちゃんと言うから!」

「何を言うんですか?」

「だから、僕が……」


 雅親さんのことが好き。


 その言葉がどうしても出てこない。

 告白とはこんなに難しいものだっただろうか。

 よく考えてみれば、恋と遊んだ相手はみんな相手の方から来ていたし、恋はその相手に本気になることなどなかった。

 本気になるとこんなにも言葉が出なくなってしまうものなのだろうか。


 以前に手を握ろうとしたときには露骨に避けられてしまった雅親が、手を握らせてくれている。それも、そろそろ放してほしいと思っているようだが、今はまだ何とか手を握っている。

 雅親に「好き」と伝えるためだけに舞台のオーディションから本番の一か月半駆け抜けてきた。

 それなのに、いざ告白しようとすると、言葉が出てこない。


「もうこんな時間ですし、タクシーを呼んだ方がいいのではないですか?」


 遠回しに「帰れ」と言われている気がして、恋は焦る。

 まだ言いたいことが言えていない。


「す、す……好き」

「え?」

「雅親さんが、す、好き」


 必死に絞り出した声は震えているし、顔は真っ赤だし、格好良さの欠片もない。

 色素の薄い目を瞬かせていた雅親が、ゆっくりと首を傾げる。


「鰻がそんなに美味しかったんですか?」

「ちがーう! 雅親さんが、す、す、好き、なんだよ!」


 またうまく言えていない。

 台詞で噛むこともまれにはあるが、こんな風にみっともなく告白するだなんて恋は全く予想していなかった。

 雅親が口元に手をやっている。

 どうしたのかと顔を覗き込むと、雅親が笑っている。


「舞台の上ではあれだけ堂々としてたのに、今のあなた、別人ですよ」

「雅親さん、笑った!」

「私も笑うことくらいありますよ」


 表情の薄い雅親は笑うイメージがあまりない。恋は雅親の笑顔を見たのは初めてだった。


「あの、返事……」

「嫌いな相手の好きなものを調べるほど私は暇ではありません」

「それじゃ、好き?」

「嫌いじゃないから好きと考えるのはちょっと短絡的ですね」

「それなら、どっち!?」


 混乱する恋に雅親が笑いながら答える。


「あなたが演技ができないくらい本気なのは伝わってきました。とりあえず、お友達から、ですかね」

「それって遠回しにお断りしてない?」

「私にしてはいい返事だと思うのですが」


 雅親はそう言っているが、お友達からと言えば告白の断りの常套句だ。

 振られたかもしれないと思うと、自然と涙が滲んでくる。


「本当に、雅親さんが好きなんだ。雅親さんを作家としても尊敬してるし、説明を惜しまないところがとか、僕が『逆島恋』だと特別扱いしないところとか……」

「あなたは私に本名を教えてきました。だから、『逆島恋』ではなく、一人の人間として接してほしいのかと思っていました」

「そう……そういうところ。好き」


 やっと言えるようになったら、「好き」という言葉を繰り返すしかなくなる。

 器用に何でもできると自負していただけに、格好悪い告白しかできなかったことを悔いる恋に、雅親が呼びかける。


「とりあえずは、お友達で。よろしくお願いします、馨さん」

「僕の名前、呼んでくれた!?」


 ずっと「あなた」と呼び続けて、一度も「恋」とも呼ばなかった雅親が、恋のことを本名の「馨さん」と呼んでいる。

 勢い余って、抱き締めてしまったら、胸を押されて嫌がられたので、恋はすぐに雅親を解放した。


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