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21.千秋楽

 ゲネプロと舞台初日と千秋楽に雅親は劇場に足を運ぶことに決めていた。

 週に一回休みを挟みつつ、一か月半の長い公演となったのでどのように舞台が変わっていくかを見たい気持ちはあった。

 舞台二日目に、恋の不倫スキャンダルを書き立てた雑誌がまた記事を出していた。

 その記事に関しては、編集から雅親に連絡があった。


『笠井雅親と逆島恋の濃厚な同棲生活』


 どこで情報が漏れたのか分からないが、記者も恋を必死に探していたのだろう。

 恋を見つけたが、男性の部屋に避難しているので記事にならないと思ったのが、その男性が笠井雅親だったと分かって、この舞台に合わせて記事を出してきたのか。


『笠井先生は顔出しもしていませんし、このような記事になるいわれはありません。そうですよね?』

「その通りです」


 記事には下世話なことに、恋が雅親と関係を持って役を手に入れたとか、二人は恋人関係に違いないとか書かれているが、そんな事実は全くない。

 否定する雅親に、編集がため息をついている。


『出版社から声明を出します。笠井先生は俳優のオーディションに全く関わっていないし、偶然逆島恋さんのマネージャーが姉だったから避難先として受け入れただけという文章でよろしいでしょうか?』

「それ、私が書いてもいいですか?」

『笠井先生のお手を煩わせるのは申し訳ないですが、そうなさりたいなら、なさってください』


 編集は立場として雅親を守ってくれようとしているが、これに関する声明は自分で出さなければいけないような気がする。それだけ雅親はこの件に怒りを感じていたのかもしれない。

 自分の中でも怒りなど忘れていた気がする。そんな感情があっただなんて知らなかった。


 雅親は出版社から発表する声明を自分の手で書いた。


『舞台の件で雑誌社より発表された記事について、皆様にお伝えしたいことがあってこの場を借りて書かせていただいています。私の姉は逆島恋さんのマネージャーです。姉に頼まれて逆島恋さんが身動きの取れない時期に私の部屋で暮らしていたのは確かです。しかし、私と逆島恋さんは記事に書かれているような関係ではなく、また、私は今回の舞台の配役について全く関与していません。事実と反することを書かれた記事には出版社を通して措置を取らせていただきます。この度は皆様にご心配をおかけして本当に申し訳ありませんでした』


 最後は謝っているものの、一貫して事実ではないということは言っているし、記事に関しては措置を取らせてもらうという雅親の声明を、編集と出版社のお偉いさんがチェックして発表するころには、恋の声明も出ていた。


『今回の舞台について、皆様をお騒がせしていることについて申し訳なく思っています。私が自分の部屋で暮らすことができなくて、一時的に私のマネージャーの弟である笠井雅親先生のお宅で暮らしていたのは真実です。しかし、笠井先生は仕事とプライベートを混同なさるような方ではありません。そして、私と笠井先生の間に関係があったというのは、全くの事実無根です。舞台の関係者はご存じだと思いますが、笠井先生は舞台のオーディションに全く関わりは持っていません。私は笠井先生を作家として尊敬し、その作品の素晴らしさを知って、このオーディションに臨みました。笠井先生は私の役には全く関わっていません。世間の皆様がこの件に関してどういう感想を抱くかは私には分かりませんが、事実ではないことを書く雑誌と私の言葉と、どちらが信頼のおけるものかというのはよく考えてほしいと思っています』


 長く言葉を尽くした声明に、雅親は恋の怒りのようなものを感じていた。

 恋と過ごした期間は雑誌で書かれたようなものではなかったし、雅親がオーディションに全く関わっていないという事実は曲げられない。

 幸い、声明に対するネット上の反応も温かいもので、雅親も安心していた。


 千秋楽の日、雅親は何か買っていくか迷って、結局何も買わなかった。

 花束もお菓子も、もらっても恋は困ってしまうだろう。

 劇場宛てには初日に花を送っているし、その花は劇場に飾られているはずだった。


 千秋楽の芝居も恋は変わりなく声も凛と美しく響いていた。

 相手役の明日香は、かなり疲れが見えて、声も掠れがちになっていたが。それでも必死に恋の演技について行こうとしていた。


 二時間半の公演のほとんどを、恋と明日香の二人が演技をして歌う。

 それが週に一回休みはあるとはいえ、一か月半続いたのだ。それは疲れもするだろう。

 疲れを見せない恋の方が異常なのだと分かっていたが、これがプロ意識なのかと雅親は感心してしまった。


 神としての恋が霧散して消えた後、恋の歌声が劇場中に響き渡る。

 その歌声の中、少女役である明日香は崩れた蔵の中で、一人だけ無事で、立ち上がり、駆けだす。


『もうあの方はいない。でも咲く花に、吹く風に、広がる空に、あの方を感じる!』


 逃げて他の町に行った少女は青年に助けられ、ゆっくりと愛を育み、二人は夫婦となる。

 幕が下りると、観客が立ち上がって拍手をしていた。

 雅親も立ち上がって拍手をした。


 カーテンコールで恋と明日香が歌う。

 二人の歌声の中でまた幕が下りて、スタンディングオベーションが巻き起こる。

 何度ものカーテンコールを受けて、最終的には恋が挨拶をした。


「この度は、私たちの舞台にお越しくださってありがとうございます。皆様の応援がありましたからこそ、千秋楽まで駆け抜けることができました。舞台が始まったころには皆様をお騒がせしてしまったこともありました。それでも、私たちは最高の舞台を皆様にお見せするために努力してきました。それが今日という日を迎えられて、本当にありがたく思っております。皆様、本当にありがとうございました」


 恋の声に合わせてキャスト全員が深々と礼をする。

 幕が下りきるまでずっと手を振って、幕が下がってくると、手を下にやって手を振り続ける恋と明日香に、惜しみない拍手が送られた。


 劇場が明るくなって、公演が終わったというアナウンスが流れても、雅親はしばらく席に座って動かなかった。公演の余韻に浸りたいのもあったし、前の方の席なので後ろの客が出ないと出られないという理由もあった。


 じっくりと時間をかけて劇場から出ると、雅親は控室に向かう。

 雅親の顔を見たスタッフが、雅親を劇場裏の控室の方に通してくれた。


 控室は恋や明日香は一人ずつ使うようになっていて、他のキャストは一緒に使っているようだった。

 恋の控室をノックすると、汗だくで化粧を落としている途中の恋が顔を出す。


「とりあえず、中に入って」

「遠慮します」

「え? なんで?」

「化粧を落として着替える姿を見ているわけにはいかないでしょう」


 男性同士だとしても、化粧を落として着替える姿をじっくりと見ているわけにはいかない。雅親がそう言えば恋は納得したのか、控室に戻る。


「急いで終わらせるから。何か食べに行こう」


 バタバタと控室の中で急いでいる音が響いて、着替えた恋が出てくると、雅親は一応確認する。


「打ち上げとか、反省会とかはいいんですか?」

「それは後日やろうってはなしになってる。今日は明日香さんも疲れてるし、解散していいって言われたよ」

「分かりました。鰻食べに行きましょう。奢ります」

「え? いいの?」

「お好きでしょう、鰻?」

「好きだけど……雅親さんが僕の好みを知っててくれるだなんて思わなかった」


 感激している恋に雅親は自分が鰻を好まないことは伝えないことにした。

 鰻は好きではないが、食べられないわけではない。


「天音さん、お疲れ様。僕、雅親さんと帰るから」

「お疲れ様。まさくん、気を付けてね」

「姉さん、お疲れ様」


 恋を送るために待っていた天音に挨拶をすると、真剣な眼差しで言われた。

 何を気を付けるのか分からないが、夜道は気を付けなければいけないだろう。それに記者にも警戒しなければ。


 タクシーを呼んだ恋に、雅親は一緒にタクシーに乗り込んだ。


「鰻、出前を取って家で食べますか? それとも、店で食べますか?」


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