雅親はフルーツサンドが大好物というわけでもないようだった。充希が好きだから差し入れに選んだというのは雅親らしいが、雅親の好きなものは何なのだろう。
初日の舞台が無事に終わったところで、控室で着替えをして、化粧も落として、マネージャーの天音に車に乗せてもらうと、恋は天音に聞いていた。
「雅親さんの好きなものって何? 嫌いなものは?」
「それを聞いてどうするつもりかによりますね」
「参考にするつもり」
正直に答えると天音は信号で車を停めて、恋の方に向き直ってはっきりと言った。
「あなたが弟のことを好きになるのは勝手だけど、応えるとは思わない方がいいですよ。私にはあの子が恋愛をしたいと思っているとは思えない」
真剣な天音の表情と言葉に、これは姉として雅親を心から思ってのことなのだと理解する。
恋は雅親を好きだが、応えてもらえるとは確かに思えなかった。雅親は恋を好きになるというよりも、恋愛をするとは思えなかったのだ。
「好きなものと嫌いなものくらい教えてもらえないの?」
「弟は好きなものも嫌いなものも公表してないし、顔出しもしてない。あの子が誰にも教えたくないと思ってるなら、私があなたに教えるのは余計なお世話だし、私はあなたがあの子に近付くのはあまり快く思ってないとお伝えしておきます」
最初から歓迎されるとは思ってはいなかったが、ここまではっきり拒絶されると恋でも傷付かないことはない。雅親の姉である天音に完全に拒否されたのは、ショックではないとはいえなかった。
「僕は真剣だから」
「真剣だからってなんでも思う通りに行くと考えるような年じゃないでしょう」
それだけ言って、天音は車を発進させた。
車の後部座席で恋は黙って雅親のことを考えていた。
翌日の早朝に天音からの電話で恋は目を覚ました。
天音は恋に早口で告げた。
『メッセージで送信したURLを確認してください』
メッセージを開いて送られていたURLを開いて確認すると、恋の不倫を騒ぎ立てた雑誌が記事を書いていた。
『笠井雅親と逆島恋の濃厚な同棲生活』
見出しからして品がない。
中身は不倫スキャンダル中に恋が雅親の部屋に逃げ込んだこと、そこで雅親と関係を持ったこと、それで雅親が原作の舞台の役をもらったことが書かれていた。
「根も葉もない大嘘だ」
『分かってるけど、舞台二日目だし、イメージダウンになることは確かです』
「天音さん、僕、声明文を書くから、事務所を通して発表して」
『これから二日目の舞台があるんですよ?』
「舞台には間に合わせる! これは僕だけを侮辱したものではないんだ。雅親さんまで巻き込んでしまってる」
絶対に雅親の名誉は守られなければいけない。
恋はタブレット端末にキーボードを繋いで声明文を素早く書き始めていた。
「今日の劇場へはタクシーで行く。天音さんは、声明文の方をお願い」
『分かりました』
書き終えた声明文を送って、恋はタクシーで劇場まで行った。劇場の前では記者が集まっていて、写真を撮られるのを我慢しながら劇場に入る。
劇場では明日香や監督や演出や脚本のひとたちが恋を待っていた。
「この記事の内容は本当ですか?」
「スキャンダルから逃れるために、笠井先生のマンションにいたことは確かです。でも、僕は笠井先生に役をもらう約束なんてしてないし、オーディションに笠井先生が全く関係していなかったのは、監督たちもご存じでしょう?」
それに声明文がすぐに出ます。
恋が言うよりも早く、事務所からの声明文を明日香が気付いて開いていた。
『今回の舞台について、皆様をお騒がせしていることについて申し訳なく思っています。私が自分の部屋で暮らすことができなくて、一時的に私のマネージャーの弟である笠井雅親先生のお宅で暮らしていたのは真実です。しかし、笠井先生は仕事とプライベートを混同なさるような方ではありません。そして、私と笠井先生の間に関係があったというのは、全くの事実無根です。舞台の関係者はご存じだと思いますが、笠井先生は舞台のオーディションに全く関わりは持っていません。私は笠井先生を作家として尊敬し、その作品の素晴らしさを知って、このオーディションに臨みました。笠井先生は私の役には全く関わっていません。世間の皆様がこの件に関してどういう感想を抱くかは私には分かりませんが、事実ではないことを書く雑誌と私の言葉と、どちらが信頼のおけるものかというのはよく考えてほしいと思っています』
署名をして送った声明は、確かに天音の手で事務所から発表されたようだ。
明日香が宥めるように恋の肩を叩く。
「逆島さんのこと誰も疑ったりしない。大丈夫ですよ」
「ありがとう、明日香さん」
監督も演出も脚本のひとも、声明文を読んで納得してくれたようだ。
舞台二日目も問題なく執り行われた。
雑誌に書かれてしまったせいで、雅親には迷惑をかけたかもしれない。
それだけが心配だったが、雅親に連絡を取りたくても恋は雅親の連絡先を知らなかった。
一緒に暮らしていたときは必要なかったから聞かなかったし、雅親のマンションを出たときには連絡先のことはすっかりと忘れていた。
SNSをやっていない雅親に、恋が連絡を取ることは難しい。
姉の天音に連絡先を聞けばいいのだろうが、天音が恋と雅親の関係を歓迎していないとなるとそれも難しくなる。
「笠井先生は大丈夫かな……」
「逆島さん、自分のSNSで自分は大丈夫だっていうのを発信したら?」
「それ、笠井先生と関係なくない?」
「逆島さんが心配してるなら、笠井先生も心配してると思う」
そう言われるとそうかもしれないと思ってくる。
雑誌に書かれたことは置いておいて、明日香と衣装を着て写した写真をSNSに投稿して、『舞台二日目、気合入ってます!』とコメントを添えておいた。
投稿するとすぐに大量に返信が来る。
『めちゃくちゃな雑誌の内容なんて気にしないで、頑張ってください』
『恋様のこと信じてます』
『舞台二日目、見に行きます! とっても楽しみ!』
ファンの反応はほとんどが好意的なものだった。
雅親と恋愛関係になってもファンは変わらないでいてくれるだろうか。
多少の不安はあるが、まずは雅親に伝えなくてはどうしようもない。
それには千秋楽まで舞台を駆け抜けなければいけない。
二日目の舞台も無事終わって、天音の車で帰っていると、天音が恋にスマートフォンを投げるように渡してきた。受け取って画面を見ると、雅親とのメッセージのやり取りだと分かる。
『彼は大丈夫ですか?』
短い一文だが、雅親が恋を気にしてくれているのが分かった。
「天音さん、これ……」
「早く返してください」
「は、はい」
詳しく聞こうとする前にスマートフォンを返すように言われて、恋は天音にスマートフォンを渡す。
「あなたが弟と恋愛をしたいと思うなら、二度と弟が原作の作品には出られないかもしれないと考えてもらわないといけなくなります」
「雅親さんは、仕事に私情を持ち込むひとじゃないよ」
「分かってるけど、世間はそう思わないってことです」
「それはちゃんと説明する」
「説明しても理解してくれないひとだっている。今回のことは、ちゃんと自分で騒ぎを治めるだけのことができてよかったとは思うけど、笠井雅親と恋愛をするっていうことは、今後もずっとこういうスキャンダルに弟を巻き込み続けるってことなんですよ? 弟は顔出しもしてないっていうのに」
姉としての感情と、恋のマネージャーとしての感情が混ざる天音に、恋は少しだけ考える。
役のために雅親を利用していると思われるのは本意ではないし、恋の雅親に対する感情はそんなに簡単なものではない。
「天音さん、僕、雅親さんのこと、本当に大事にする。真剣に考えてる」
「そういう問題じゃないんです」
本当に天音の言うように雅親は恋愛をしたくないと思っているのだろうか。
恋は全く勝ち目がない勝負をしようとしているのだろうか。
「決めるのは雅親さんだよ」
もし雅親が恋を選んでくれたら、恋は雅親を大事に愛するつもりがある。
逆に恋を選ばなくても、雅親のことはずっと諦めきれない相手だと思う。
雅親との生活が恋は忘れられない。
雅親が教えてくれたことが恋にはしっかりと根付いている。
「雅親さんに、『迷惑をかけてごめんなさい』って伝えてくれる?」
「そう言ってたってメッセージを返します」
恋の言葉に、天音は振り向かずに答えた。