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10.雅親の部屋

 充希に会って、雅親の小さなころの話を聞くと、恋は自分がどれだけ甘やかされていたのかを思い知る。雅親は恋にも子ども時代などなかったと言ってくれるが、恋は演技の仕事は楽しんでやっていたし、家庭のことや他人の面倒まで見ることはなかった。

 それに対して雅親は幼いころから充希の世話をして、家事全般を請け負って、頑張ってきたのが分かる。

 十歳の子どもにできたことが恋にはできない。

 それが恥ずかしいような申し訳ないような気持になって、これまで演技に必要なこと以外はいらないと思っていた自分を反省して、恋は雅親に家事を習おうと心に決めていた。


 三時からの仕事に部屋にこもらずに恋と話をしてくれた雅親は、三時四十五分になると恋と一緒にラジオ体操をしてから部屋に仕事に戻って行った。

 それから四十五分間、恋は米のとぎ方についてスマートフォンで調べていた。


 米は正確に測るところから始めなければいけない。

 米を計量器に入れて軽くゆすって、上をヘラのようなもので平らにすると書いてある。

 米を測ったら、手早くすすぎを行わなければいけない。

 米を入れたボウルに水を一気に入れて、米を全部浸して、軽くかき混ぜたら素早く水を捨てるのだ。

 米は水に浸した瞬間、給水可能な量の六十%も水分を吸っているという。これに米のぬかの匂いを吸収している水を吸わせないようにさせるためには、これまでの動作を十秒程度で行わなければいけない。

 すすぎが終わったら、水がほとんどない状態で米をといで、すすいで、もう一度といで、すすいで、それで完了とある。

 予習しておけば恋も雅親を困らせることはないだろう。


 ついでに肉まんの作り方を調べてみたが、レシピが色々ありすぎて雅親がやっていたのがどれなのか全然分からない。本棚にレシピ本もあったので、それを見てみるが、量が多すぎてどれに肉まんの作り方が書いてあるか分からない。

 考えているうちに時間は過ぎていて、四時四十五分になって雅親が部屋から出てきた。


「まさくん、僕、米のとぎ方を予習しておいたよ」

「それじゃ、やってみてくれますか」


 米櫃まで雅親が案内してくれて、ネットで書かれていた通りに米を正確に測るところから始める。

 米をといでいると、斜め後ろから雅親がチェックしてくれているのが分かる。

 そのまなざしが優しいような気がして、恋は期待してしまう。


 雅親にとって恋はどんな存在なのだろう。

 雅親と恋愛をすると恋は想像してみる。


 恋愛ができるだろうか。


 雅親にキスができるか。

 考えてみると、できる気がする。

 雅親を抱けるだろうか。

 伏せた睫毛が色素が薄くて意外と長いとか、シャツから見える首筋が男性のものだが意外と白いとか見てみると、抱けるような気がしてくる。


 恋は雅親と恋愛ができる気がする。


 それならば、雅親はどうなのだろう。


 雅親は付き合ったひとがいるのだろうか。

 そのひとのことを抱いたのだろうか。

 そのひととキスをしたのだろうか。


 考えているとあらぬ方向に思考が飛びそうになって恋は米とぎに集中した。


「炊飯器の使い方を教えますね」


 米とぎが終わってボウルから炊飯器の内釜に米を入れて水を入れると、内釜を炊飯器にセットする。その状態で蓋を閉じて、蓋にあるボタンを雅親が説明してくれる。


「炊飯器のお米のボタンがあるので、『白米』を選んでください」

「これは『白米』か。他のは?」

「無洗米は洗わなくてもいいお米です。玄米は稲からもみ殻だけを取り除いた状態のもので、ぬかや胚芽はそのままに残っているものを指します。炊き込みご飯は、白米に炊き込みご飯になる具材を入れたものを指します」


 説明を聞きながら「白米」を選ぶと、続いて「コース」というボタンを示される。


「この『コース』というボタンで、『極上』を選んでください」

「他のは?」

「『普通』とか『もちもち』とか『すしめし』とか『快速』とかありますが、気にしなくていいです。『極上』が一番美味しく炊けるので」

「美味しいならそれが一番だね」


 納得して「極上」を選んで、恋はスタートボタンを押した。

 残り時間は五十分になっている。夕飯は毎日午後六時だから、今からだったら十分間に合う時間だった。


「今日の晩御飯は?」

「竜田揚げにしようと思って仕込んでます」

「竜田揚げ?」

「味付きの唐揚げのようなものです。今は唐揚げも下味を付けたものが多いですが、昔は下味を付けないで作っていたそうです。それに、衣が小麦粉か片栗粉かの違いもありますね」


 説明しながら雅親がビニール袋に入っている鶏肉を冷蔵庫から取り出す。ビニール袋の中には茶色い汁が入っているようだ。

 その鶏肉に衣を付けて揚げて、皿の上に盛り、キャベツを千切りにしてトマトときゅうりも添える。手際のよい雅親に見とれている恋は、ふと疑問に思った。


「それはキャベツだよね?」

「そうです」

「レタスとキャベツってどうやって見分けるの?」


 実のところ恋はレタスとキャベツの違いが分かっていなかった。


「キャベツはアブラナ科でレタスはキク科です。キャベツの方が肉厚で火を通して食べることも多く、レタスは薄く火を通さずに食べることが多いです。でも、キャベツも千切りにして生で食べたり、レタスもスープに入れたりすることがあります」

「どうやって見分ければ?」

「キャベツの方が葉が一枚一枚分厚くなっていて、色が薄いです。レタスの方が葉が薄く、色は濃いです」


 キャベツとレタスの見分けも付かないのかとか、雅親は笑ったりしない。

 キャベツはアブラナ科でレタスはキク科だとか、恋は初めて知ったし、レタスとキャベツの違いも教えてもらった。

 雅親のいいところは説明を惜しまないところだと思う。

 雅親のおかげで恋は賢くなれる気がするのだ。


「キャベツの千切り、僕にもできるかな?」

「千切り専用のピーラーがあります」

「ピーラー?」


 よく分からなかったので聞き返すと、雅親は大きな金属の刃物のついた棒が左右に広がったようなものを見せてくれた。それでキャベツを削ると、千切りになっていく。


「弟が手伝いたいと言ったときに買ったものですが、役に立ちましたね」

「僕、まさくんの役に立ってる?」

「自分で作った料理は味わいが違うと思いますよ」


 竜田揚げとキャベツの千切りときゅうりとトマトとみそ汁に、恋がといだお米が炊き上がる。

 晩御飯を食べながら恋はご機嫌だった。

 黙々と食べる雅親の唇の動きが気になったりするのは、気のせいだと思いたかった。


 夕食後に恋は雅親にお願いしてみた。


「まさくんの部屋に入ってもいい? まさくんの小説がどんな環境で書かれているか知りたいんだ」


 それまで恋が雅親のテリトリーを侵したことはない。雅親の部屋は大事な雅親の居場所だと分かっているから、入らずにいた。

 そこに入りたいと思ったのは、雅親の心に恋という存在を置いてほしいと思うようになったからかもしれない。


「何もない部屋ですけど、入りたいならどうぞ」


 招かれて恋は雅親の部屋に入る。

 雅親の部屋は本棚と立派な机と立派な革張りの椅子、それにクローゼットとベッドがあるだけだった。

 恋が借りている充希の部屋とは全然違う。

 充希の部屋はなぜか自立式のハンモックが置いてあったし、机の上も整頓されておらず、アニメのフィギュアなんかが飾ってあった気がする。

 クローゼットの中身は確認していないが、ぬいぐるみを飾る棚があったり、床の上に雑誌が積み上げられていたりした。


「この椅子と机、立派だね」

「私の父の形見です。父は仕事で使うものにはお金をかけていたようなので」


 形見と言われると気軽には触れなくなってしまう。

 十歳で両親を失った雅親はこの机と椅子をもらって、小説家として仕事をしている。

 ベッドに目をやるとやましいことを考えそうだったので恋はお礼を言って雅親の部屋から出た。


 部屋に戻ってベッドに倒れ込むと、自分と違う匂いがする。それは雅親のものとも違っていた。

 雅親の部屋に充ちていたのは雅親の匂いだった気がする。


「僕はまさくんと恋愛をしたいのかな?」


 一人ごちる恋に答えるものはいない。

 失恋をしたすぐだから寂しいだけかもしれない。

 そもそもあれはこいだったのか。


 もう分らなくなって、恋は布団を抱き締めて目を閉じた。


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