雅親が料理の作り方を教えてくれた。
電子レンジも使えない恋を、雅親は馬鹿にしたりしない。丁寧に一つ一つ説明して、雅親は恋に電子レンジの使い方と蕩けるチーズを使ったパリパリチーズの作り方を教えてしまった。
これまで付き合った彼女で恋に家事を教えようとしたものはいなかったわけではない。それでも、恋があまりにできないので、諦めて自分でやるか別れてしまった。
そんな風に恋の前を通り過ぎた女性たちと雅親は違った。
雅親に初恋の話をすると、思わぬ反応が返ってきて恋はその話をすることになった。
「うちの両親は家事をする時間をお金で買うひとたちで、物心ついたときには家にハウスキーパーの城島さんってひとがいたんだ。掃除をしてくれて、洗濯をしてくれて、料理を作って冷蔵庫に入れて行ってくれるひと。三歳くらいのころかな、僕はそのひとに告白した」
じょーじまたんが、すちでつ!
「そのひとは笑って、『私も坊ちゃんのことが大好きですよ』って言ってくれたから、両想いなんだと思ったけど、違ってた」
「三歳児に告白されて、恋愛かと思う大人はいないですよね。いたら異常です」
「城島さんは優しかったけど、僕の気持ちは届かなかった」
「その方はお幾つだったのですか?」
「僕が生まれたころに五十歳くらいだったんじゃないかな」
城島の年はよく知らないが、どうしてもとお願いして誕生日を教えてもらって、忙しい習い事の合間に紙とセロテープで花を作ってプレゼントした。自分のために尽くしてくれる城島が恋は大好きだった。
年上の有名女優は年代は恋が知り合った頃の城島に近かったが、中身は全然違った。努力と医療の賜物なのだろう、いつまでも美しく若々しく、グラマラスで男性を誘う体付きをしていて、恋がそれに溺れなかったと言ったら噓になる。
料理や家事はハウスキーパーに任せていたが、コンサートや美術館や博物館で選ぶ演目や展示の趣味はよく、恋も一流の俳優になるのならばこれくらいの勉強はしておかねばならないと思わされた。
演技をすること以外興味のなかった恋に新しい世界を見せてくれるひとではあったが、演技をすること以外に興味がなかったがゆえに恋はそのひとが結婚していると知らなかった。
「まさくんは、あのひとのこと聞いてこないんだね」
「あのひと、ですか?」
「僕とスキャンダルになったひとのこと」
そのせいで雅親には迷惑をかけているという自覚はあるが、雅親はその件に関して追及してこないし、責めたこともない。その件に関しては恋は雅親に完全に守られていた。
「聞く必要がないです。それより、三歳のあなたが好きだったひとの話の方が気になります」
「どうして?」
「ひとの好みを決める脳の部位は三歳程度で発達すると言われています。幼稚園や保育園の先生が初恋だったひとが多いのはそのせいです。あなたが三歳でハウスキーパーさんに初恋をしたのは、脳の発達上当然のことなのです」
「そうなの……。そんなに年上のひとを好きになるのはおかしいってずっと言われてた」
「本棚に発達心理学の本もありますよ。読んでみてはどうですか?」
初恋のひとが五十代のハウスキーパーだったことを伝えたら、今までの彼女は恋を笑ってきた。こういう風に説明されると、ハウスキーパーの城島を好きになったことも否定されないのだと理解して、恋は思わず雅親の手を握っていた。
「まさくんってすごいよね。僕が何を聞いても丁寧に説明してくれる」
「手を放してください」
「嫌だった?」
「他人に触れられるのは好きではありません」
それでいて手に触れると嫌がるのだ。嫌がっても乱暴に振り払ったりしないで放すのを待っていてくれるのは雅親のいいところだとは思うが。
「まさくんのおかげで、僕は卵かけご飯とパリパリチーズと、二つも料理ができるようになった。これからも教えてくれる?」
「あなたに覚える気があるのでしたら」
問いかけると雅親は淡々と答えてくれた。
午前中、雅親はスーパーに買い物に行った後、仕事に入らなかった。
小麦粉と何かを混ぜて水を少しずつ入れて捏ねている。
「それは何?」
「肉まんの生地です」
「え!? 肉まんって作れるの!?」
驚いてしまう恋に雅親は静かに答える。
「薄力粉とドライイーストと砂糖とごま油と塩とぬるま湯で生地を作って、豚肉と玉ねぎと、後は好きな具材で餡を作ります」
「ハクリキコ? ドライイースト?」
説明されても呪文のようで意味の分からない恋に、雅親が生地を捏ねながら説明してくれる。
「薄力粉は小麦粉の種類です。小麦粉には大きく、薄力粉と中力粉と強力粉があって、タンパク質の含有量で分けられています。肉まんの場合には薄力粉を使うひとと、薄力粉と強力粉を混ぜて使うひとがいますが、私は薄力粉派です」
「小麦粉に種類があったんだ」
「ドライイーストは生イーストを熱処理して加工したもので、予備発酵なしに使える酵母です。酵母とは、生地を発酵……膨らませるために使います」
「どうやって膨らませるの?」
「酵母菌が生地の中で呼吸をすると生地が膨らみます。生地に砂糖を入れるのは酵母菌の餌にするためだと言われています」
ものを知らないだけで恋は愚かなわけではない。一応、芸術系の大学を卒業しているし、ある程度の知識はある。賢くないと俳優なんてできないという母に従って、舞台やドラマや映画の仕事を受けながらも、恋は高校にも大学にも通った。
それでも、発達心理学は学んだことがなかったし、料理も未体験だった。
「イーストがあるから生地は膨らんでふわふわになるの?」
「そういうことですね」
捏ね終わった生地をボウルに入れて濡れ布巾をかけた雅親が、手を洗って残った短時間でも仕事をしに部屋に入るのを恋は見送った。
その日の昼食は蒸したての肉まんだった。
中に筍がごろごろ入っていて、その触感が美味しくて恋は大喜びした。
「これ美味しいよ、まさくん」
「手間はかかりますけど、買うより作った方が美味しいので」
「今まで食べた肉まんの中で一番美味しいかもしれない」
「それは、出来立てだからですね。蒸したての肉まんは美味しいのです」
まさくんが作ったから。
そう言いたかったのに、あっさりとそれは遮られてしまった。
お腹いっぱいになるまで肉まんを食べて、恋は午後はストレッチとラジオ体操を挟みつつ、発達心理学の本を読んだ。難しかったが、子どもの発達がこんな風に進んでいくのかという発見があった。
有名女優は恋に新しい世界を開こうとしてくれたのかもしれない。
しかし、それは恋を無理やりに連れ回してこじ開けるようにして世界を見せようとしていた。
雅親は違う。
恋が必要な分だけ新しい知識をくれて、恋が求めていないものは無理やりに押し付けることがない。
「今日の紅茶はなにかな」
昼食後に仕事に部屋に入った雅親は、一時四十五分にはリビングに出てきてくれるはずだ。
そのときに紅茶を入れてくれる。
マスカットダージリンは覚えた。
ダージリンという種類の茶葉が、紅茶の中でも発酵が浅くて、味わいはウーロン茶に近いこともその後で自分で調べて学んだ。
雅親は何もかもを教えるのではなくて、恋が自主的に学ぶ余地も残しておいてくれる。
今日は発達心理学の本を読みつつ、酵母についても調べてみよう。肉まんのレシピも調べてみたい。目の前で魔法のように作り上げられてしまったが、レシピを見て復習したら、少しは恋も雅親を手伝えるようになるのではないだろうか。
一時四十五分に雅親は紅茶を入れて、二時四十五分にコーヒーを入れて、三時四十五分にラジオ体操をして、四時四十五分に仕事を終えてキッチンに立つ。
四十五分ごとにリビングに出てきてくれるので、演技ができないのは退屈だったが、恋は雅親の仕事中も寂しくはなかった。
十五分の休憩ですることも決まっているので、それを期待して待っていられる。ラジオ体操をするときには一緒にすると決めている。
一時四十五分の紅茶を恋は楽しみにしていた。