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5.夜の仕事

 夜に手紙を書かない方がいい。

 そんなことわざがあったのは英語圏だっただろうか。

 何故か夜の文章は感情的になってしまうことが多いので、雅親は夕食後には文章を書かない。その代わりに文章の見直しや戻ってきた校正のチェックをする時間にしている。

 恋が来てからはプリントアウトした文章をリビングに持ってきて読んでいると、興味深そうにそれを覗き込んでくる。


「まだ未発表の作品なので読まないでください」

「読んで感想を言ったりしたら嬉しくない?」

「仕事で書いてるものは社外秘です」


 そう言えば諦めるのだが恋は何かしたくてたまらない様子だった。

 恋にできることを考えてみて、雅親は本になった自分の小説を恋に渡してみる。


「読んでくれますか?」

「朗読してってこと?」

「はい。プロにそんなことお願いするのは失礼でしょうか?」

「全然! 喜んで読むよ」


 低すぎず高すぎず、心地よい恋の声が雅親の文章をなぞっていく。この本は重版するのでもう一度見直さなければいけないところだった。

 滑らかな恋の朗読を聞いていても、気になるところはある。そこにチェックをして、もう一度見直す気でいると、恋の朗読が止まった。


「この主人公はどうして優しい恋人と別れてしまうんだろう」

「それは読んだ方に任せています。あなたはどう思いますか?」

「このままでは恋人に負担が大きいから、かな?」


 献身的に尽くしてくれる恋人との別れを選んだ主人公の気持ちを考える恋の答えはそれだった。

 書いたときに雅親は答えを持っていたはずなのだが、それは続きを読んでいけば分かることだから語る必要はない。


「よければ最後まで読んでみてください」


 朗読はもういいですから。


 そう言って雅親は着替えを持ってバスルームに入った。

 早起きの雅親は眠るのが早い。毎日完璧に同じ時間に眠れるわけではないが、ベッドに入る時間は同じにしている。

 シャワーを浴びてバスルームを出ると恋が電話をしているのが耳に入ってきた。


「もうそろそろ演技がしたい。僕、それ以外に取り得がないんだよ」


 マネージャーの天音に向けた電話だろうか。

 謹慎してから一週間と少し。恋はずっと我慢してきたことになる。

 二十代半ばの若い男性がやることもなくマンションの一室に閉じ込められているとなるとストレスもたまるだろう。


 そろそろ恋はこの部屋を出て行くころなのかもしれない。

 そう思いながら雅親は自分の部屋に戻った。


 部屋で今日の仕事を最後まで終わらせて、ベッドに入る。

 灯りを消すと眠りはほどなく訪れた。


 小さいころのことを雅親は鮮明に覚えているタイプだった。

 初めて姉のことを「あまね」と呼んだ日、姉は笑顔で雅親の顔面を握って訂正させた。


「お姉ちゃんよ?」

「おねえたん」


 恐ろしさに雅親はあれ以来姉のことを呼び捨てにしていない。

 弟の充希は喋り始めたころから姉をしっかりと「おねえたん」と呼んでいる。いや、「おねえたま」だったかもしれない。

 保育園に雅親は三歳から入園したのだが、そのときに寂しくて怖かったが、泣かなかった。泣かなかったことを両親に言ったらとても褒められた。褒めてほしかったわけではなくて、雅親は泣くのは恥ずかしいことだと思っていたのだ。


 両親が亡くなったときにも雅親は泣かなかった。喪主として十八歳だった姉が葬式を取り仕切ったのは、若くして息子と娘を亡くした祖父母がそれにとても耐えられなかったからだった。

 姉も涙を一度も見せなかった。


「私がやる。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんはそばにいて、私が間違ってないか見てて」

「そんなことを天音にやらせられないよ」

「私たちがやるよ」

「いいの。これも社会勉強よ。私はこれから社会にでなきゃいけないんだからね」


 泣き崩れている祖父母はそれでも姉の代わりに喪主を務めようとしたが、姉は立派に喪主を務めた。その隣で雅親は生まれたばかりの充希を抱いて座っていた。


 葬式の最中充希が泣いたらおむつを替えて、ミルクもあげて、可愛がった充希は兄と姉にべったりの末っ子に育ってしまった。


 そのくせ、一時間以上かかるが通おうと思えばこのマンションから通える大学に進学して、一人暮らしがどうしてもしたいと言って一人暮らしを始めてしまった。


「俺がいつまでもいたら、雅親も姉さんも、安心できないでしょ? 俺は一人で暮らせることを示すよ」


 立派に育った充希が家を出るときには雅親は寂しさを覚えた。


 恋がマンションに飛び込んできて面倒を見ることになったとき、雅親は充希のことを考えたのかもしれない。手のかかる恋は小さいころの充希のようだった。

 家事も雅親にまかせっきりで、勉強も雅親が教えた。

 その充希が『竜田揚げってどうやって作る?』とか、『親子丼の三つ葉っていらないよね?』とか普通に家事をして暮らしている様子をメッセージで送ってくるのだから、育ったものである。


 それならば恋も育ててやらねばいけないのではないだろうか。

 目が覚めたら、雅親の中でそういう結論が出ていた。


「おはようございます。今日も早いですね」

「まさくんに合わせて起きてること、気が付いた?」

「そうだったんですね」


 同居をしてから数日間は恋は朝食ができて雅親が部屋に声を掛けるまで出てこなかった。それが最近は雅親が起きて洗面を済ませるとリビングで待っている。

 ストレッチをして、筋トレに入ろうとする恋を、雅親はキッチンに呼んでみた。


「ここにキッチンペーパーがあります。それを二十センチくらい切り取ってください」

「この紙、キッチンペーパーっていうの? 二十センチってどれくらい?」

「そのくらいです。箱の端に刃物が付いているので気を付けて。下に下げると切れます」


 ぎこちなくキッチンペーパーを切った恋に続いて、蕩けるチーズを渡す。


「これをキッチンペーパーの上に乗せてください」

「まさくんがやった方が早くない?」

「早いとか効率的だとかいうことは、教える際には考えないものです」


 納得したのかしないのか、キッチンペーパーの上に蕩けるチーズを乗せた恋に、それの端を持って落とさないように電子レンジに入れさせる。


「電子レンジで一分加熱して、その後は様子を見ながら数十秒ずつ加熱して行ってみてください」

「電子レンジってどうやって加熱するの?」

「このボタンで『電子レンジ』を選んで、ここに分数と秒数を選べるボタンがあります」


 言われた通りにしていく恋は電子レンジに張り付いて中身を見ている。

 固形だったチーズが蕩けて一緒になっていく様子をじっと見つめている。


「溶けて乾いてきた」

「そろそろよさそうですね。キッチンペーパーから落とさないように取り出してください」

「分かった!」


 いいお返事でキッチンペーパーを取り出した恋に、続いて皿を出すように言って、出来上がった蕩けて固まったチーズを二つの皿に取り分けさせる。

 パリパリのお煎餅のようになったチーズは、ぱきんと割れて皿の上に置かれた。


 朝食はパンと目玉焼きとパリパリチーズとカップスープ。

 チーズを齧って恋が目を丸くしている。


「美味しい。ぱりぱりしてる。これ、僕が作ったんだよね?」

「そうですよ。美味しいですね」

「まさくんにも美味しいって褒められた!」


 無邪気に喜ぶ恋に、雅親は聞いてみたいことがあった。


「もしかして、お母様が『逆島あい』だから、芸名がその名前になったのですか?」

「そうだよ。母は女の子が欲しかったらしいけど、一度しか出産はしないって決めてて、僕が男だったけど、つける芸名は決めてた」


 母が愛、息子が恋。

 二人合わせて「恋愛」だなんて、すぐに想像できるが簡単に付けられる芸名ではない。


「お母様に愛されていたんですね」

「それはそうだと思う。でも、このスキャンダルでものすごく呆れられたみたい。僕、年が母より上の女性と不倫しちゃったから、『マザコン』とか言われてるらしいよ」


 そもそも初恋から母より年上だったんだけどね。


 語る恋に、雅親は小説家としてその恋の初恋の話には少し興味があった。


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