雅親と暮らすようになって恋の生活が整った。
朝六時ぴったりに雅親は起きてくる。最初のころは気付いていなくて朝食に呼ばれて七時に起きていたが、気付いてからは雅親が起きてくるのをリビングで待つようになった。
恋が貸してもらっている部屋は、雅親と天音が溺愛している末っ子の充希が暮らしていた部屋だ。部屋はそのままにされていて、そこを荒らさないようにしながら、恋はその部屋のベッドで寝起きしている。
タイマーを五時四十分にかけて、起きて洗面を済ませてリビングで待っていると、六時に雅親が起きてくる。洗面を済ませてリビングにマットを敷いてストレッチをするときに、恋も一緒にするようにした。
これまでは仕事で忙殺されていたのに、スキャンダルが発覚して仕事を干されたとたん時間だけは有り余るほどあって、いつストレッチと筋トレをしてもいいのだが、雅親と一緒にするとなんとなく満足感があるのだ。
朝食はいつも美味しいものが出てくるが、今日は白ご飯と器の中に殻付きの卵とみそ汁と五目煮だった。何だろうと思っていると、雅親が説明してくれる。
「卵は割れるのでしょう? その器に割ってみてください。今日の朝食は卵かけご飯です」
「卵かけご飯か。分かった」
無邪気に答えて卵を片手でご飯の上に割ろうとする恋を雅親が止める。
「器に割ってください」
「なんで? まさくんの洗い物が一つ増えちゃうよ?」
家事が全くできない恋でも、考えないことはないのだ。洗い物が一つ減ったら雅親が楽になるのではないかとか。
「卵を器に割るのには理由があります。生卵の中には、傷んでいるものや、血が混じっているものがあります。それは外側から分からないので製造者の責任ではありません。ご飯の上にそのまま割ってしまうと、生卵の状態がいいものなのか分からなくなってしまうのと、悪い状態だった場合にご飯まで処分しなければいけなくなるからです」
理路整然と理由を述べる雅親に感心して、恋は器の中に生卵を割った。それから参考までに聞いてみる。
「生卵の状態がいいかどうかはどうやって見ればいいの?」
「割ったときに卵黄が崩れていないか、卵白の色がおかしくないか、卵黄がしっかりと形を持って卵白の中でふくらみを持っているかなどを見ます。血が混じっている場合などは、簡単に分かりますね」
「なるほど。あ、卵の殻の欠片が入っちゃった」
「そういうのも先に取り除けるのが器に割る利点です」
卵の殻の欠片も外して、生卵をかき混ぜて、熱々のご飯に混ぜて醤油を垂らして食べるのはとても美味しかった。
「この卵かけご飯、僕が作ったんだよね? すごい! まさくん、僕にお料理させちゃった!」
「卵かけご飯が料理かどうかは疑問が残りますが、できないわけではないでしょう?」
「できないわけじゃなかった」
料理なんて絶対にできるはずがないと思い込んでいた恋の世界を雅親は変えた。卵かけご飯がこんなに深いものだなんて知らなかったし、器に割った生卵がこんなに意味のあることなんて思わなかった。
演技に関すること以外興味がなかった恋に、誰もこんなことは教えてくれなかった。できなければ買ってくればいいのだし、外食すればいいのだし、誰も時間を割いてまで恋にできないことを教えようと考えなかったのだ。
雅親といると自分が変わる気がする。
恋にとってはそれは新しい感覚だった。
スキャンダルとなった二十歳以上年上の女性は恋にそう聞いた。
恋は「ない」と答えた。
これまで女性と付き合って体を交わしたことがある。それでも、そこに感情が伴っていたかは分からない。
不倫騒動で仕事を干される原因となった女性は、高級なレストランに恋を連れて行き、ホテルのスイートルームで体を交わした。コンサートに行き、映画に行き、美術館に行き、博物館に行き、城廻もした。
あれが
自分は遊ばれただけで、あんなものは
不倫騒動があってから時間ができたので調べたら、あの有名女優はこれまでにも何度も若い男性と不倫をしていたのだと知った。彼女曰く、「若い子を育てるのが好きなの」とのこと。
確かに一緒に行ったコンサートや映画や美術館や博物館や城廻は勉強にはなったが、あれが
雅親と暮らして一週間以上が過ぎた。
最初はルールを持ち出して、恋を縛り付けようかとする恐ろしい存在に見えたが、雅親はそんなことはなかった。
それどころか、恋が疑問に思っていることは教えてくれて、料理ができない恋のために卵かけご飯を作らせるところまで至った。
マイ・フェアレディの逆バージョンだか、なんだか知らないが、有名女優がやったことよりも雅親がさりげなく恋に寄り添ってくれていることの方がずっと恋には染み渡る気がする。
失恋を癒すのは新しい
地味なシャツとパンツにそこそこ整った顔立ちの年上の男性。
一人称がどうして「私」なのか、それもまだ聞けていない。敬語がいつまでも取れないのはどうしてなのか。時計の針のように正確に毎日時間を決めて仕事をして、規則正しい生活をしている雅親につられて、恋も規則正しい生活が送れている。
仕事に入っても雅親は四十五分仕事をすると、リビングに出てきて十五分休憩をする。その間に恋の分まで紅茶やコーヒーを入れてくれる。
コーヒーは毎日午後三時に飲むと決めているようで、恋には操作が全く分からないカプセル式のコーヒーメーカーで入れてくれたコーヒーは毎日とても美味しい。
「このレバーを持ち上げて、カプセルを入れて、レバーを降ろして、ボタンを押すだけです」
「……まさくんが入れてくれたコーヒーが飲みたい」
「覚えたらいつでも自分でコーヒーが入れられますよ?」
「まさくんと一緒に三時に一日一回でいい」
それまで何を飲んでいたか思い出せない。
今は記者が取り囲んでいるであろう自分のマンションでは、冷蔵庫にはペットボトルの水くらいは入っていたかもしれない。それ以外は飲み物も食べ物もどこかで買って来るか、外食して食べてくるかだった。
「紅茶って茶葉から入れられるんだね。そんなの高級店しかしないと思ってた」
「自分で入れるのが一番確かですからね」
「うん。まさくんの紅茶いつも美味しい。これは何?」
「これはマスカットダージリンです。マスカットの香りが付けられたダージリンで、ダージリンは他の茶葉より発酵が浅くなっているので、色が薄く味があっさりしています」
「マスカットダージリン」
匂ってみればマスカットの匂いのするダージリンを恋は知識としても、紅茶としても味わう。雅親のいいところは、説明を嫌がらないところだ。
演技のこと以外興味がなかったので一般常識のない恋に雅親は何でも教えてくれる。
「それでは、そろそろ時間なので」
「お仕事頑張ってね」
部屋に戻って行く雅親の背中に声を掛けると、片手を上げて応えてくれた。
雅親は愛されて育っているのだろうなということが恋でも分かる。
食事のときの所作の美しさ、言葉の穏やかさ、生活面での細やかさ、どこを取っても雅親が愛されて育った証拠にしか見えなかった。
地味な服もサイズはきっちりと合うものを着ているし、地味なりにものはそこそこいいものである。
「天音さんのまさくんに惚れたって言ったら、天音さんは何ていうだろう」
弟を可愛がっている様子だったので、「弟さんを僕にください」と土下座しなければいけないのだろうか。それでちゃぶ台をひっくり返されて、「大事な弟はお前のような馬の骨にはやらん!」というやり取りをしなければいけないのだろうか。
スキャンダルで雅親のマンションに駆け込んだときに天音に聞いた覚えがある。
――『まさくん』ってどんなひと?
――ちょっと癖はあるかもしれないけど、懐に入れた相手は大事にする人ですよ。
ちょっと癖がある。
そんなことを言われる雅親がどんな相手か会うときには緊張したが、会ってみると好ましい要素しかない。
ちょっと癖があると天音は言っていたが、時計の針のようにきっちりと時間通りに動くことならば、恋にとってはそれは全く気にならなかった。むしろ分かりやすいので一緒に暮らしていて心地よい。
この暮らしがずっと続くわけがないのに、少しでも長く続かないかと恋は思い始めていた。