雅親は神経質ではあるが潔癖ではない。
そう思っている。
トイレは毎日使った後に掃除しているし、バスルームは毎日使った後に掃除しているのだが、短めにすっきりと髪を切っている雅親と違って、恋は髪の毛が長い。その髪の毛が排水溝に残っているのを見ると、なんとなく何故自分がこれを掃除しなくてはいけないのかと思ってしまうのだ。
五歳年下だが、恋はれっきとした成人男性のはずだ。姉の天音に頼まれて受け入れたが、何もかも面倒を見るとか聞いていない。
期間も最初は一週間もあれば世間は忘れるだろうとか言われていたが、それが過ぎても天音は恋を出してはいけないという。
朝起きてすぐにストレッチをしていると、横に来て恋もストレッチをする。
恋は体が柔らかいので雅親のようにぎこちない動きはしないのだが、ストレッチを終えた雅親が朝食の準備をしている間もずっとストレッチと筋トレを続けている。
少しは手伝えと思うのだが、当然のように待たれると妙な威圧感もないし、期待感は察するし、ついつい作ってしまう。
トーストとスクランブルエッグと焼いたハムとサラダにインスタントのカップスープという朝食でも恋は感激してくれる。
「このスクランブルエッグものすごくとろふわで美味しい。トーストもバターがしみしみで最高」
「とろふわ」とか「しみしみ」とか、小説家として何か言いたくなる表現だが、褒められて悪い気がしないのは世界共通なのではないだろうか。
毎食大したものは作っていないのに、恋の感激具合は相当のものだった。
「ご自分で料理ができるようになれば、これくらいは簡単に作れますよ」
「僕、無理。卵も割れない……いや、僕、卵は割れるんだった」
卵も割れないと言いかけて、言い直す恋に珍しく雅親が追及した。
「卵が割れるんですか?」
「そう。ドラマの撮影で、料理人をしなければいけなくて、特訓したの。卵だけは片手で割れるようになったけど、そこしかドラマでは映さなくて、料理作ってる手元は別のひとがやって編集したから、僕は卵が割れるだけ」
どうしてそのときに料理を学んでおかなかったのか。
心底思うのだが、そのころ雅親と恋は出会っていないので仕方がない。
「まさくんの小説、ドラマの主役受けるときに読みだして、今では出てるのを全部読んでる。僕、まさくんのこと、『センセ』って呼ばなきゃいけないかな?」
「なんとなくその響きは嫌なので辞退させてください」
「じゃあ、まさくんでいい?」
「『センセ』よりましです」
よく分からないが、この俳優、演技をしているときは癖など全く感じさせないし、役に入り込んでいるのだが、地で話し出すと言葉の端々に鼻から抜けるような甘い掠れが入って、妙に色っぽく聞こえるのだ。
今口にした「センセ」はその最たるものだった。
自分よりも体格がよくて身長も高くて顔だけはものすごく整っている相手にそんな声で呼ばれたら、性欲など薄すぎて自覚したことのない雅親でも妙なことを考えてしまいそうだった。
「私の小説、どうでしたか?」
「面白かった。どの小説も主人公たちがどれだけピンチに陥っても、必ず救いがあるのがよかった。悲しい結末のこともあったけど、どの主人公も、明日に希望を持って生きてた」
ハッピーエンドでなければ許せないわけではないが、雅親が書く話はほぼハッピーエンドだった。それが意外性がないとか言われることも多いのだが、誰もがままならないことを抱えているこのご時世、雅親の小説に救いを求めるものがいないわけでもなくて、雅親の小説は売れている。
高校生同士のすれ違いや、ジェンダー感などを書いた小説はベストセラーになって、映画では恋が主役を演じた。
その演技は見事で、主人公を完全に再現したうえで、さらに恋という役者の魅力を惜しみなく注ぎ込んだようなもので、雅親もそのBlu-rayは大事に保管して、時々見直している。そのころ恋は二十四歳だったはずなのに、十七歳の主人公そのものになるために体重も落として、少年らしさを作ったというのだから驚きである。
「まさくんの作品で僕の名前も売れて、こんなに有名になれたのかも」
「それ以前からあなたは有名俳優でしたよ」
子役のときから売れていて、大人になっても売れ続けているというのは非常に希少な例なのかもしれないが、雅親は芸能界に詳しくないのでよく分からない。
天音が芸能界に入ったのも高校を卒業してからのことだ。
「僕の方から聞いてもいいですか?」
挙手して珍しく敬語などを使ってきた恋に雅親は警戒しながら頷く。何を聞かれるのかと思っていると、恋は疑問を口にした。
「一番上のお姉さんが天に音であまね、まさくんが
雅親は三十歳、天音が八歳上の三十八歳、一番下の充希が十歳下の二十歳と、三人は年が離れている。
天音が十八歳、雅親が十歳のときに充希は生まれて、そのときに両親は亡くなっている。
「姉は両親が名前を付けました。最初はヴァイオリンとピアノと声楽を習わせて音大に行かせる予定だったとか。どれも姉が嫌がったので両親の夢は消えましたが。私の名前は母方の祖父が付けました。男の子が欲しかったけれど、女の子しか生まれなかったので、男の子が生まれたら付けたかった名前をどうしても付けさせてほしいと言われたのだそうです」
「それで全然違うのか。まさくんの名前、ちょっと古風だもんね」
「古風以前に、
自分の名前なのにそういう正親に、恋は「そんなことないよ」と言ってくれた。
「弟は生まれたときに母が亡くなって、病院に駆け付けるときに父が事故で亡くなって、誰も付けるひとがいなかったので、私が辞書を引っ張り出して、命名辞典も買って必死に付けました。希望に充ちたひとになってほしいと思って」
「まさくん、そのとき何歳だったの!? 現代っぽいけど全然キラキラネームじゃないし、いい名前だと思ってたら、まさくんのセンスだったんだ」
「そのとき私は十歳ですね」
小さなころから本だけが友達で本ばかり読んで過ごしていた。
大学に進学するとき、将来の安定を考えて教育学部に行こうとしたのを、姉に止められた。
「本当は文学部に行きたいんでしょう。自分を偽ることはないわ。いざとなったら、お姉ちゃんのコネで、芸能界で何か書かせてもらうから」
脚本家やシナリオライターになるのがどれだけ難しいか、天音も知っていたはずである。そのころ恋のマネージャーになった天音程度ではコネにもなるはずがないと分かっていながら、笑い話のようにそれを持ち出し、天音は雅親が行きたい学部に行かせてくれた。
その恩返しをするように大学時代はずっと小説を書き続け、三年生のときに賞を取って雅親はデビューした。
どんな形でもいいのでデビューだけはしておきたかった雅親のデビュー作はライト文芸である。それからじっくりと文芸作品を書くようになって、今はライト文芸よりも文芸作品が売れるようになっている。
「まさくんも天音さんもすごいんだねー」
感心する恋に、すごいのは恋の方ではないのかと雅親は思わずにいられない。
母親は有名な舞台女優、父親はドラマや映画で有名なテレビ俳優。生まれたときからバレエにピアノ、声楽に日本舞踊と様々な習い事をして、演技の基礎を作り、努力したからこそ恋は日本でも海外でも有名な若手俳優になれたのではないか。
「すごいのはあなたでは?」
「また『あなた』だ。いつになったら僕の名前呼んでくれるの?」
「名前を呼ぶような関係ではないですから」
人懐っこい恋は名前を呼べと何度も言うが、雅親はそれに従う気はなかった。名前など読んでしまったら、情が移るかもしれない。今は非常事態で恋を保護猫のようにシェルターに入れている気分の雅親が、まだ名前のない保護猫の名前を呼んでしまったら、その猫がいない生活に戻れなくなるかもしれない。
元々雅親は情が深いので、できるだけひとをそばに寄せないように生活しているのに。
「食器を片付け終わったら、買い物に行ってきます」
「まさくんの本棚から本を借りていい?」
「お好きにどうぞ」
雅親の本棚には献本で送られてきた雅親の本が、置く場所もなく適当に積まれているととてもではないが雅親には耐えられないので、きっちりと並べられている。ひと種類につき何冊もあるその中から丁寧に一冊を選んで恋は毎日黙々と読んでいる。
本を読んでいるとき以外は、ストレッチをしたり筋トレをしたりしているのだから、早く仕事に戻りたいのは間違いないだろう。
スーパーに買い物に行って、その日の献立を決めて、雅親はマンションに戻って買ってきたものを冷蔵庫に入れて、夕飯の下ごしらえまでしてしまってから、仕事を始める。
元は雅親の部屋だった書斎に入って仕事をしている間は恋のことは全く考えない。
昼食時になって、昼食を作るときにやっと恋のことを思い出す。昼食は十二時から作り始めて一時までには片付けも全部終わらせる。
昼食を食べてからは、本格的に仕事に入る。
一時間を区切りとして四十五分書いては十五分休憩を取り、その十五分で紅茶を入れたり、コーヒーを入れたりする。
コーヒーは毎日午後三時にカプセル式のものを飲むと決めていて、毎日一杯だけにしている。
最近は紅茶を飲むときもコーヒーを飲むときも恋が一緒なのだが、カプセル式のコーヒーですら恋は入れられないので、入れた紅茶やコーヒーをリビングに置いて、雅親は自分の分を部屋に持って行って仕事の続きをする。
四時四十五分には仕事を終えて、十五分の休憩を挟んで、五時から夕食を作り始める。
夕食は午後六時と決めてあった。