逆島恋が笠井雅親に初めて会ったのは、映画のインタビューのときだった。
そのときのことを恋は鮮明に覚えている。
映画の感想を聞かれた後に、インタビューの記者は恋に聞いてきたのだ。
――逆島さんが俳優になりたいと思ったのはいつからですか?
その問いかけに恋は正直に答えた。
――なりたいと思う前になっていました。僕のデビューはオムツのCMでしたから。でも、物心ついたときには俳優が天職で、俳優として生き、俳優として死にたいと思っていました。
――それは情熱的ですね。
――情熱というか、僕にはこれしかないと思っていたので。オムツのCMでデビューしてなくても、いつかはこの道に入っていたと思います。人生の全てを演技だけにかけたい、演技の神様に命を捧げてもいいと思っています。
インタビューに答える恋を、雅親が表情の薄い顔で見つめていた覚えがある。
母にデビューさせられたのは確かなのだが、そうでなくても、演技というものを知ったら絶対にその道に入っただろうし、それが物心つく前だっただけで、そうでなければはっきりと自分で選んで演技を始めていただろう。
死の瞬間まで演技ができればいい。
それだけに人生の全てをかけられればいい。
それが恋の願いだった。
母親が舞台俳優、父親が映画やドラマに出演するテレビ俳優で、恋のデビューはオムツのCMからだった。
子どもを産むことでキャリアが崩れるのを気にした母は、子どもは恋一人しか生まなかったが、顔がそっくりで舞台では映える演技をする恋をものすごく可愛がってくれた。
演技で称賛されれば恋はそれで満足だった。
両親はバレエに声楽、ピアノに日舞にダンスと恋に必要なことを仕込んでくれたが、家のことはハウスキーパーの
「ぼっちゃんは何もしなくていいんですよ。城島がやりますからね」
そうやって育て上げられたのが、演技にしか特化していない生活力皆無の恋だった。
恋の初恋はハウスキーパーの城島だった。自分のために生活を整えてくれるひと。そんなひとと恋に落ちたい。
もちろん、その気持ちは告げるまでもなく消えてしまったが、ずっと心に思うのは年上の包容力のある女性だった。
「あなた、
年上の有名女優に言われたときに、恋はそれが告白のように聞こえた。
ファンから熱烈な愛情をもらうことは多かったが、恋は小さなころから自分の体は演劇の神様に捧げたものと思っているので、それ以外に興味がなかった。
「本当の恋をしてみたら、あなたの演技に深みが出るかもしれないわ」
そんなことを言われて、お付き合いを始めて、三か月後、恋は彼女が結婚していたことを知った。
自分の演技のこと以外に興味を持たなかったので、調べることも、疑問に思うこともなかったのだ。
夫である有名俳優に声を掛けられて、自分と年の変わらない息子にも声を掛けられて、恋は大いに戸惑った。
「奔放なのは彼女のいいところだけど、俺のところには戻ってきてもらわないと」
「母と別れてもらえますか?」
二十五歳の実力派だが若手俳優でしかない恋は、不倫というスキャンダルを背負って、仕事を干されることになった。
「仲良くしてると思ったけど、本当に不倫してるだなんて思いませんでした」
マネージャーの笠井天音からもものすごく呆れられた。
有名俳優とその息子を敵に回して、仕事を干されて、自宅は記者が取り巻いて、恋は自分のマンションから出られなくなった。家事ができない恋が外出できないとなると、食事も買ってくることができないし、外食もできない。
マンションから出てホテルに数日泊まったが、ルームサービスは種類が限られているし、何を食べても味がしない。
ひとの噂もなんとやらというが、どれだけの日にちを過ごせばいいのか。
マスコミにも自分なりに話をしてみようとはした。
「無知を晒すようでお恥ずかしいのですが、私は本当に彼女が結婚していることを知らなくて、そのせいでご家族にも迷惑をかけてしまったし、世間を騒がせたことを申し訳なく思っています」
誠実に謝罪したつもりなのに、記者は『苦しい言い逃れをする逆島恋』とか書き立てて、逆に立場が悪くなってしまった。
どうしようもなく、見通しも持てず、恋がやつれているのに気付いたマネージャーの天音が、恋を無理やり弟の雅親の部屋に放り込んだ。
「僕なりに事態を収めようという努力はしたつもりなんだけど」
「それでこうなっているんでしょう? 今は大人しく閉じこもっていてください」
天音に言われてしまうと恋はそれ以上抵抗できなかった。
笠井雅親は若手の文芸作家だった。
月に一冊は本を出しているのではないかというくらい、速筆で内容も面白い。
一年前に恋は雅親の書いた賞を取ったベストセラー作品の映画化のときに、主役で出演させてもらって、インタビューも受けている。
物静かで知的なイメージの男性だった。
「ねぇ、天音さん、『まさくん』って何歳?」
「今年で三十だったと思いますけど?」
多分ね、と言われて雅親のことを思い出す。
インタビューの間、持参したペットボトルの水しか口にせず、用意されていたアイスティーは氷が解けてテーブルの上に水たまりを作っていた。
恋はメイク係や衣装係に飾られているので着るものも、何も心配しなくてすんでいたが、雅親は綺麗にアイロンがかけられた皴一つないシャツにぴしりとアイロンの跡が残るスラックスをはいていた。
顔立ちはそこそこ整っていたように思うのだが、体付きは長身で体格のいい恋よりも小柄に見えた。
仕事もなくなってしまったので、何もすることがない恋は雅親のマンションに逃げ込む形になった。天音の話では雅親のマンションは元々天音と雅親と末っ子の充希の三人で暮らしていた両親が買ったマンションから、天音がまず結婚で出て、末っ子の充希が大学進学で出て、雅親一人になってしまったものらしい。
「部屋は余ってると思うから、使わせてもらったらいいですよ」
軽い口調の天音に、恋も軽い気持ちで行ったのだが、家主は重々しく恋に告げた。
「短期間でも同居するのなら、ルールを作りましょう」
「え!? そんなの聞いてない!」
「他人同士が住むんだから当然でしょう」
そんなことを言われても恋は困ってしまう。
「料理はできますか?」
「できない……」
「掃除は?」
「したことない」
「洗濯は?」
「服は全部クリーニング。下着だけは出せないから、その都度買ってた」
助けて、城島さん!
演技だけに人生をかけてきた恋は、生活力がない。つい実家にいたハウスキーパーの城島に助けを求めるくらい恋は困っていた。
「それでも、米くらい炊けるでしょう? 洗濯は洗濯機がやってくれます。教えるので」
米を炊けと言われて、米をなんとなく炊飯器に入れてみたが、炊ける様子はない。炊飯器の横で姿勢よく正座して待っている恋に、雅親が言う。
「米はといで、水を入れて炊飯器にセットしてスイッチを押すんです」
「とぐ? なにそれ?」
全く分からない単語に首を傾げた恋は、雅親が頭を抱えたのに気付かなかった。
洗濯機の操作も難しすぎて恋には全く分からない。
洗濯物を入れて、洗剤を入れて、スイッチを押すだけのことができない。
料理なんてできるわけがない。
元々食にはこだわりがない。外食はあまり好きではなかったが、外で食べることもあれば、買って来て食べることもあった。コンビニ弁当でも全く気にしていない。
そのことを雅親に告げると、ますます頭を抱えられた気がする。
それでも雅親は優しくて、紅茶を入れるときには必ず恋の分もマグカップに入れてくれていた。
雅親の入れる紅茶は本当に美味しい。香りがよくて味も渋すぎず、すっきりとしている。
タイマーをかけて、秒数が少なくなるとタイマーの前に立って、タイマーが鳴った瞬間に止めて、紅茶をカップに注ぐのは、これが職人技かと雅親を尊敬してしまった。
非常に忙しい職であるにもかかわらず、雅親は三食手作りして食べる。
恋が来てからは恋の分まで作ってくれていた。
「食事は作りますから、食費くらい出してくださいね」
「分かったー!」
元気な声で返事をすると、雅親の表情が暗くなる気がする。
そういえば、雅親は恋と出会ってから一度も笑っていない。
昼食は不思議な匂いのするパスタで、パスタソースをかけるか、冷水でしめて納豆と温泉卵につゆでいただくのだが、それが美味しくて恋ははまってしまいそうになる。
夕食も汁物にメインとご飯でとても美味しくいただける。
物心ついたときには舞台に立っていたし、それ以外の趣味は全くなかったから、恋は貯金だけはしっかりとある。仕事をしばらく遠ざけられて、ひとの噂も七十五日とかいうが、その期間自粛していればまた舞台に立てるときもくるだろう。
天音からの連絡では、不倫で恋のイメージは悪くなったが、それでも使いたいという監督はたくさんいるという。恋は事務所を通して謝罪会見もしていたし、世間のイメージはそれほど悪くなっていないと思うのだ。
「まさくんの麻婆豆腐、茄子も入ってて好き。お得だよね!」
毎日でも雅親の料理を食べていたいし、雅親と暮らすのは全く苦ではない。
それが雅親の努力の上に存在するだなんて、恋は少しも気付いていないのであった。
「その、『まさくん』っていうの、やめてくれませんか?」
「えー? なんで? 天音さんはまさくんって呼んでたよ?」
「姉は姉なので。あなたは姉じゃないので」
「『あなた』!? 僕は恋だよ?」
本名は逆島恋ではない。しかし、幼いころから恋で認識されているので、本名よりも恋は逆島恋の時間が長かった。恋にとってその名前は最早自分のものになっている。
「名前を呼ぶ理由がないので」
「しかも、敬語! 一緒に暮らしてるんだから、もっと打ち解けてよ! フランクになろうよ!」
「これは私の癖なので」
「一人称、『私』なの!? 嘘!?」
驚きの連続だが、驚いている恋の方を理解できないとばかりに雅親が見ているのを恋は理解していなかった。