翌朝。学生寮、
キッチンから聞こえる洗い物の音を聞き流しながら、ありすはソファに目を向ける。背もたれに隠れて見えないが、そこには
天気は雲ひとつない快晴。窓から差し込む光は暖かく、浮足立った空気が部屋の外に満ち満ちているのを感じ取る。
今日は新入生歓迎会が行われる日。朝から晩まで行われるパーティの始まりが、もうすぐそこまで迫ってきていた。
「……
「だって……お姉ちゃん、帰って来てない……」
「一泊って言ってたんだし、今日中に帰ってくるよ。そろそろ時間だよ。そんな落ち込んだして、パーティ台無しにする気?」
「うん……」
返って来たのは、今にも泣きだしそうな生返事。
ありすは食卓に頬杖を突いて嘆息する。昨夜から、ずっとこんな調子だ。
部活から帰って来てみれば、どこかへ出かけようとする
結局、鍵玻璃は出て行って、後に残された三人はこうして顔を陰らせている。
洗い物を終えたハニーが、キッチンから出て来て、視線で尋ねてくる。ありすは無言で首を振った。
「かなえん……」
ハニーは力無く呟き、目を伏せる。
昨日、彼女は
勝てば自分たちもついていき、事情をすべて話してもらうと。入学式で負けたからか、
もちろん、結果はこの通りである。
ハニーはありすの隣に座ると、卓に突っ伏す。彼女の胸の内は、慚愧の念でいっぱいだった。
―――かなえん、あんなに落ち込んじゃって。……わたしのせいだ。
―――わたしが負けたりしなければ……今頃、きっと。
解恵を慰めてあげたい。けれど、どの面下げて声をかければいいというのか。
ハニーが負けたせいで、
重い空気の中、解恵がうわ言のように呟く。
「お姉ちゃん、どうしよう……。もし、帰ってこなくなったら、あたし……」
そう言って、ぎゅうっと顔に押し付けるのは、姉のベッドにあった枕だ。
ラベンダーの残り香がする。日々うなされる姉が穏やかに寝付けるようにと、母が買ってきたアロマの匂い。
―――昔は、おひさまの匂いがしたのに。
―――昔は良く笑ってた。髪も染めてなかったし、カラコンも入れなかった。
―――あたしと同じ髪の色。あたしと同じ、でもあたしよりも似合う服。
―――あたしと同じ顔してて、背丈も同じで。けどあたしよりもかっこよかった。
―――それでも、ずっと一緒にいてくれた。
なのに今は、同じ家にもいてくれない。なんとか引き留められたと思ったら、ようやく解決の糸口が見えたと思ったら、どこか遠くへ行ってしまった。
口の奥から軋むような音が漏れ出す。一睡もできず、ひりひりと痛み始めた瞳が潤む。ますます体を縮めた解恵が最初の嗚咽を漏らすと同時に、扉が開いた。
歓迎会のスタッフが、自分たちを呼びに来たのだろうか。
断ろう。そう思うのだが、体が固まってしまって動けない。静かな足音が玄関の方から聞こえてきて、やがてリビングに到達する。
ガタッ、と食卓の方から音がした。やってきた誰かが、肩を揺さぶってくる。
「
「…………んぇ?」
間の抜けた声を上げ、解恵は枕から顔を上げた。
聞き間違えるはずもない。暗闇に慣れた目が少し眩んでも、彼女の顔がはっきり見えた。
「おねえ、ちゃん……。……お姉ちゃん!?」
跳ね起き、両手で目の前の相手を包み込む。
頬をむにむにと揉まれた
「お姉ちゃん……! お姉ちゃん、帰って来た!」
「一泊するだけって言ったでしょ。いちいち大げさなのよ、あんたたち」
ありすとハニーが、ふたりそろってポカンとした顔をしている。
自分で慰めの言葉をかけておきながら、解恵とハニーの悲哀に当てられていたありすは、帰宅した鍵玻璃を前にして言葉に詰まっていた。
「え、ええと……お帰り。早かった、ね?」
「今日、歓迎会でしょ? あのお嬢様がそこのスタッフだから、一緒に帰って来たのよ。あの子も新入生のはずなんだけどね」
そう言いながら、
死神に勝利した後、鍵玻璃と
正確に言うと、語ったのは流鯉である。鍵玻璃は帰りのリムジンの中で力尽き、気付けば客間のベッドで眠りこけていた。
ボストンバッグに忍ばせた、辰薙の手紙を思い出す。目を覚ました時、彼は既に出立した後だった。
“鍵玻璃くんへ。まずは、このような形での報告となることを許してほしい”
“昨夜の顛末は娘から聞いた。死神は我々の想像を超えた強さだったと聞いている”
“そんな相手に勝利し、無事に戻ってきてくれたことを、心より嬉しく思う”
“私はこれから、流鯉から得た情報を元に対策委員会を設立するつもりだ”
“正直、君を行かせたことを、やや後悔している”
“一歩間違えれば、君だけではなく娘をも失い、そのことにさえ気づけなかったろう”
“死神は再び闇に消え、今度こそ取り返しがつかなくなっていたかもしれない”
“だが、人間というのは結局、心の赴く方に引っ張られていく生き物だ”
“私も流鯉も、君もそうであるはずだ。だから、無理に引き留めなかった”
“だからこれからも、君の意思を尊重したい”
“寮に帰るも、ここで静養するのも君の自由だ。もちろん、死神ついて調べることも”
“己の心と向き合い、死神を退けた君であれば、もう心配はいらないと思っている”
“そしてもし、このまま死神を追う道を選ぶのならば、必ず我々を頼ってほしい”
“将来の夢について考えるのも忘れないように”
―――私の夢、か。
妹はぴくっと反応し、上目遣いに見上げてくる。
鍵玻璃は、その幼い仕草を見返した。
今朝は、悪夢を見ていない。長年苦しめられた死神の夢は、昨夜に終わりを告げたのかもしれないが、その証明が欲しかった。
「
妹を呼び、屈みこむ。自分がさっきされたように、解恵の顔を両手で包んで、翡翠の瞳を直視する。
解恵が驚いてまばたきする。こうして妹を見つめるのは、随分久しぶりのことだ。
歪んで、死神や過去の記憶と重なって見えていたせいで、真っ直ぐ見られない。
でも、今は違った。ふわふわしたオレンジ色のショートヘア。丸っこく、大きな瞳。泣いた後のような童顔。すべて見たまま、揺らがない。
解恵は戸惑いながら、問いかけて来た。
「お姉ちゃん……? どうしたの? ええっと……」
「なんでもない」
立ち上がると、軽く妹の背中を叩いた。
「ほら、とっとと起きて準備する。歓迎会、出るんでしょ? あんたたちは?」
唐突に話題を振られて、ハニーが自分を指差した。
えっ、どうしよう、と傍らのありすに視線を向けると、ありすは意外そうな顔で小首を傾げてから告げる。
「ぼくも……出ようとは思うけど。
「出るつもり。確か、エデンズの大会もあるのよね」
その一言が、ハニーの心に引っ掛かる。新入生歓迎会に言及しておいて、それを出すと言うことは、つまり。
「きはりん、もしかして……」
「うん。エデンズ、復帰しようと思ってる」
「ほんとに!? じゃあ……!」
「アイドル部は遠慮しておくわ」
「うぅ……!」
目を輝かせかけた
その頭を撫でる
不満、いや不安だろうか。自分でも上手く言えない。とにかく、ここ最近めまぐるしく変化する鍵玻璃に対して、良くない感情を抱いているのは確かであった。
―――おかしいな。かなえんと同じで、嬉しいことのはずなのに。
―――なんでこんな、もやもやした気持ちになっちゃうんだろ。
―――きはりん……何を考えてるの?
きっと、問うてもろくに答えてくれないだろう。釈然としない気持ちを抱えていると、すっかり元気になった解恵が洗面所へ駆けていく。
妹と束の間離れた鍵玻璃の顔は、やっと一息つけたという具合の表情をしていた。
密かにほっと胸を撫で下ろした鍵玻璃の中にある想い。ハニーたちには伺い知れぬ、彼女の目的。
それは、強くなることだ。
死神の事件はまだ終わっていない。悪夢からは解放されたが、一番大切な人が帰って来てない。それに、あれの正体が不明な以上、復活する可能性も否めないのだ。
その時に備えて、強くなる。エデンズブリンガーとして、誰にも負けないぐらいに。そのためにはとにかく戦い、デッキ構築やプレイングを煮詰めなければ。
五年のブランクを埋め、さらに先まで。
死神が奪い去っていった人々と、その存在した証のすべてを奪い返すのだ。
―――私は、私の夢を取り戻す。そうしたら……。
鍵玻璃はそこで思考を止めた。チャイムが鳴って、歓迎会のスタッフが鍵玻璃たちを呼びに来たのだ。
時間だ。決意を胸に秘めながら、鍵玻璃は自室にボストンバッグを投げ入れる。
ラベンダーの香りが漂う部屋には入らず、後ろ手に扉を閉じると、玄関に向かって歩き始めた。
第一章:ウェルカム・エデンズ・アゲイン‐了‐