淡いホワイトピンクの湯船がぶくぶくと泡立つ。そこに口元を沈めた
―――私の、望み……。
決まっている。死神を倒し、
だったら、今すぐ出ていくべきだ。ひとりでも死神を探し出して、戦わないと。わかっているのに、できていない。才原邸の大浴場で、ひとり膝を抱えている。
動けない理由は明白だった。
そのままボーッとしていると、少し離れたところから、湯船をかき分けて誰かが近づいてくる音がした。音の主は、鍵玻璃のそばに腰を下ろす。
「頭は冷えましたか?」
「……ん」
気泡を立てるのをやめて、背中を伸ばす。それだけの動作でさえも億劫で、底なし沼に捕まったよう。それでも口元を湯船から出し、
「さっきは……ごめんなさい」
「まったくですわ。お父様が寛大なお方だからよかったものの、今すぐつまみ出されても文句は言えない、無礼で野蛮な行いでしたのよ?」
「うん……」
魂が抜けたように首肯する
―――いきなりしおらしくされると、それはそれで困りますわね。
随分と不安定なメンタリティだ。図書館、屋外テラス、先の食堂。思い返せば、どのシーンでも様子がおかしいと思う一幕はあった。
よくわからない。死神とやらの存在が、そこまで影響するものだろうか。
疑問に思った流鯉は、探りをかける。
「……ところで、お父様に伝えていないことがあるのではなくて? 例えば、あなたの言う消えたアイドルの名前とか」
ぴくっ、と
揺らぐ瞳は、石を投げ込まれた湖面のようだ。水面はすぐに静まるが、底の泥が巻き上げられる。まだ水の下に隠れた
「この期に及んで、まだ隠していることがあるのですか? お父様に協力を仰いでおきながら、それはあまりに不誠実ではなくて?」
「……違う、そんなんじゃない」
「では、なぜ言わなかったのです? ああそうだ、メリー・シャインも見せていませんでしたわね。これはわたくしの憶測ですが、あれは死神に消されたというアイドルのカードではなくて?」
やはり、そうか。図書館で戦いを避けるべく放ったあのおかしな言葉。テラスでの対戦中に見せたあの態度。彼女にとってメリー・シャインは、唯一消えたアイドルに繋がる手がかりだったのだ。
そして図書館での口ぶりからして、彼女はそのアイドルのことを記憶している。
父の記憶から消えたその人を、何故思い出させなかったのか。自分が調べたデータを提供しておきながら、それだけを秘密にする理由はなんだ。
「答えなさい。なぜ、一番大切なことを言わなかったのか。協力を頼んでおきながら、相手を信用できないとでも?」
「放して……っ! 違う、言えないのよ……!」
「言えない?」
これで逃げ場はなくなった。額をくっつけ、ほぼ密着するような形でホールド。背に伝わる湯の振動から、鍵玻璃が足をばたつかせているのが感じられた。
もがく鍵玻璃のまぶたの裏には、彼女本来の色である翡翠色の瞳があった。
抵抗が妙に半端だ。顔を必死に動かしているが、手を使おうとしない。もっと暴力的な抵抗を予想していたのだが。
流鯉は僅かに拘束を緩めてやった。
「わかりました。ではせめて、名前を言えない理由ぐらいは教えなさい」
「……言ったでしょ。死神に負けた人は、誰の記憶からも、記録からも消えるって」
「ええ。だからわたくしも含めて誰も覚えていない。お父様でさえも。ですが、あなたは覚えている。なら、思い出させることも……」
「無理よ……。できない……何度も、何度もやろうとした! でも……!」
「でも?」
続きを促された
掘り返される、小学五年生の夏。
どれも、鍵玻璃にとっては大事なものだ。焦りに焦って探していると、
鍵玻璃は思わず飛びついて、彩亜のグッズのことを尋ねた。昨日、眠る前までは確かにあったはずのものが何もかもなくなっている、と。
しかし、解恵の反応は、信じられないものだった。
“彩亜さん……って、誰?”
―――え?
鍵玻璃はポカンと解恵を見つめた。
だって、知らないはずはない。鍵玻璃が勧めてからというもの、ずっと一緒に応援してきた。同じ曲を歌い踊りもしたのだ。そもそも、ツアーライブを一緒に見に行ったばかりじゃないか。
鍵玻璃はぞわぞわとした、石の下から長虫が這い出すような恐怖を抱えて訴えた。
―――何言ってるの? 彩亜さんだよ、ほら……!
そう言って、動画サイトを開いて見せる。だが、彼女の公式チャンネルも、そのほかのライブ映像もアーカイブした配信も、何ひとつとして残っていない。音楽ライブラリからは、曲のすべてが失われていた。
愕然とする鍵玻璃に、解恵はただただ当惑して立ち竦んでいる。悪ふざけには見えなかった。
やがて姉妹を起こそうと、母がやってくる。ふたりのアイドル談義をずっとそばで聞き続けて来た母親なら、と声をかけたが、結果は何も変わらなかった。
父も、友人たちでさえ、何も知らない。覚えていない。いくら言っても、彼らは首を傾げるばかりであった。
そんなやりとりが繰り返された。何日も、何日も。
まるで、何度も同じ日にタイムリープしているかのようだった。
「ダメなのよ……あの人の名前を出しても、意味ないの。次の日にはみんな忘れて……全部、なかったことになる……。日記に書いて、ビラも作ったりもして……でも全部、次の日には白紙になってる……」
確かに書いて眠ったはずだ。自分の手で作ったはずだ。
その証明にと撮った写真さえ消え失せる。みんなは当然、何も知らない。
「頭がおかしくなりそうだった……! 何が起こっているのかわからなくなって、おかしいのは自分の方じゃないかって……彩亜さんなんて、本当はいなかったんじゃ、なんて思ったりもして……」
「でしたら、メリー・シャインは……」
「複製、試してみたのよ。でも、できなかった。人からもらったカードだからって、そんなメッセージばっかり出てきて……」
だったらどうして、誰も覚えていないのだ? 世界的なアイドルとしてもてはやされた彼女の記録が、どうしてどこにも残っていない?
何ひとつとしてわからないまま、日々はゆっくりと過ぎ去っていく。
その間、幾度となく見る死神の夢。恐怖のあまり跳ね起きて、解恵に縋って、また彩亜は誰かと問いかけられて、その繰り返し。
鍵玻璃は正気を削られながらも、なんとか思い出してもらおうとした。自分はおかしくないと言い聞かせ、しかし忘れ去られるうちに、芽生える狂気。むしゃくしゃして、からっぽになった自分の部屋をめちゃくちゃにして、自傷しながら自分はおかしくないと主張した。
目覚めていながら、悪夢の中を走る感覚。物を壊し、人を傷つけ、それさえ翌日忘れ去られて。止めようにも止められなくて、どんどんエスカレートして。
そしてある日、
ぼやけたライトの中に浮かんだ、影絵芝居のような追憶を見ながら、鍵玻璃は乾いた声で笑い始めた。
「あはははは……っ! それであの子、どうなったと思う……? 手足も、背骨も折れてさ! 寝たきりになって、リハビリしても元に戻るかわからないって……アイドルになるのは諦めた方がいいかもしれないって!」
「……何を言って……」
鍵玻璃を探る途上で、彼女とも交流を持っていたから知っている。彼女はごく普通に歩ける。動きは機敏で、さっきなど姉を追って走っていたのだ。
奇跡的に回復したと、普通ならば考える。だが、鍵玻璃は違った。
「信じられないでしょ? 私もよ。でも私は覚えてる……」
あの子を突き落とした時の感触も、あの子の泣き声も。騒ぎを聞きつけた両親が、自分をなんて叱りつけたのかも。
担当医の顔も名前も消毒液の匂いも絶望に打ちひしがれた
突き落とす直前からずっと、
だが次に目覚めた時、鍵玻璃は家のベッドで寝ていて。
解恵は五体満足で、何も覚えていなかった。
亀裂だらけになった鍵玻璃の現実は、そこでついに砕け散ったのだ。
「後のことは……ほとんど覚えてない。私はずっと泣き喚いて、自分を引っかいていたことぐらいしか。気が付いたら私は中二で、通学路にいて……」
それでも、記憶と悪夢は消えずにずっと残り続けていた。
「私にはもう、何が夢で現実なのか、わからないのよ。自信が無い……狂う前のことは、本当にあったことなのか。あの人は実在したのか、私の妄想に過ぎないのか……。でももし、本当にあったことなら……?」
「名前を告げた時点で、今日のことは無かったことにされてしまうのかもしれない。それが恐ろしかったということですか」
それから、薬を飲まなかったことを後悔した。あれを呑めば、狂気は静まる。頭はかなりぼんやりするが、それでもこんな醜態を晒すことはしなかったはず。
―――でも、飲みたくない……。あの人への想いも一緒に無くなる気がして……。
頬をしずくが伝っていく。汗か、涙か、湯の一滴か。区別はつかなかった。
少しだけ距離を取った流鯉は、じっと
やはり、荒唐無稽な話だったが、出まかせとも思えないのだ。鍵玻璃が演技しているとすれば、若くして母並みのスーパースターになってるだろう。
流鯉は首を振り、父の教えを持ち出した。
「……“天と地の間には、我々の哲学では想像もつかぬことが満ち溢れている”。はぁ、わかりましたわ。今はそれで納得しましょう。……それで?」
激しい通り雨が過ぎた後の夜中のように、暗く湿気った瞳は、とっくに摩耗しきっていた。
「あなたはこれから、どうするおつもり? このまま引き下がるのですか?」
「……それは……」
「こっちを見て話しなさい」
顔を背けようとする
今度は自分に引き寄せて、その瞳を覗き込む。
つい数時間前、そこには炎が燃えていた。狂気の中に混ざってしまった感情が、ひときわ強く燃えるところは、
どんな事情があろうとも、鍵玻璃は自分よりも強い。
彼女が自分をどう思おうと、流鯉にとって鍵玻璃は超えるべき高い壁。それが勝手に瓦解するのを見たくはなかった。だから焚きつける。対戦をした時のように。
「わたくしに挑んできたのは何故ですか。お父様に力を貸してほしいと思ったのはどうしてですか! 死神とやらを討つためでしょう? 思い出しなさい、何故逃げ隠れするのをやめて、打って出たのか! 戦うと決めたきっかけは!」
切っ掛けは、狂気に過ぎない。悪夢に兄を消されて生まれた心の余白に苦しむありすに自分を重ねて。死神に遭ったあの夜が、現実なのだと思えて、それで。
「怒っている。そうでしょう?」
胸に矢が刺さったような心地がした。
言葉に詰まる。硬直する鍵玻璃を、流鯉はさらに引っ張り寄せた。
「あなたは怒っている。死神に……メリー・シャインの持ち主を消してしまった相手に、その人を忘れた全員に。ですが怖くて目を背けていたのでしょう。その結果、怒りの矛先は一番近くにいた
鍵玻璃はポカンとした顔をする。不意に、パズルの一部がかちりと噛み合った音がした。
怒り―――そうだ。
繰り返される日々の中、ずっと苛立ちを募らせていた。
彼女が
そしてその感情は、消えずにずっと鍵玻璃の中で燻っていた。周りにぶつけるのが怖くて、自傷行為で押しとどめていた心の名前を、見失ってしまっていた。
―――なんで、気付かなかったんだろう。
光が差した。驚くほどあっさりと、狂気の中に隠れていた自分の心が明らかになる。闇に潜む怪物のように思えたそれが、くっきりとした輪郭を持って現れた。ありすに重ねた幼い自分。引っかき傷と血にまみれた少女が、手を差し出してきた。
鍵玻璃は流鯉を振り払い、湯船から立ち上がった。
脱衣所に踏み込むと、流鯉が追い縋ってくる。
「どこへ?」
「……学院に戻る。理事長には、お礼を言っておいて」
「こんな時間にですか?」
「こんな時間、だからかもね」
脱衣所にかかった時計を見上げる。時刻は22時を回ったところだ。今から戻れば、四日前、死神と出会ったときと大体同じ時間帯になるだろう。
バスタオルで体を拭い、寝間着ではなくさっきまで着ていた制服に袖を通した。
流鯉も並んで着替えつつ、言う。
「お父様がおっしゃった言葉をわたくしからも言わせていただきますわ。落ち着きなさい。あなたが負けたら、死神を止めるすべはなくなるでしょう。犬死にですわ」
「わかってる」
辰薙の方が正しいことも。自分のこれが、単なる我がままであることも。
「でも、このままじゃ、眠れないから」
“
着替えを終えて脱衣所を出ると、入口に執事が佇んでいた。
鍵玻璃は流鯉と一緒に驚く。先ほど辰薙が食堂に呼んだ老人は、恭しく一礼をしてから口を開く。
「お待ちしておりました。お車の用意はできております」
「車? ……どうして」
「制服をお召しになったら、学院へ。そうでなければ客間へ案内するように、と旦那様に命じられましたので」
それを聞き、鍵玻璃はふっと苦笑した。辰薙にはすべて見抜かれていたようだ。
背後から、タオルを頭にかけられる。乾かしていない髪の毛を、柔らかなタオルが包み込んだ。
「お父様ったら。戯れが過ぎますわ!」
「当然でしょう? あなたが消えたら、誰が事の顛末をお父様に伝えるのです? それに、あなたが怒りで我を忘れないよう、ブレーキ役も必要でしょう」
「だったら、なおさら……」
「あなたに突き落とされるほど、ヤワではなくってよ」
ふん、と流鯉が鼻を鳴らした。憎たらしい女だ。鍵玻璃はむすっとしながらも視線を外し、執事に向かって頭を下げた。
「お願いします。学院まで、送ってください」