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第23話 核心接触/才原邸にて

 才原邸は、想像以上の豪邸だった。


 正門から玄関までへと続く薔薇の庭園。その先に、端の見えない大きな家屋。


 中に入れば大勢の使用人に出迎えられて、恐ろしく広い食堂に通される。長テーブルについた鍵玻璃きはりは、しかしそうした歓待に最低限の反応を返すだけだった。


 緊張ではない。ただ不愛想を装わなければ、理性の檻を激しく揺さぶる狂気と高揚を抑えられない。


 鍵玻璃は目を閉じ、背筋を伸ばして、テーブルの下では握り拳を震わせる。


 寮を出る直前の一幕が、脳裏にしがみついて離れない。


 しつこく付き纏う解恵かなえ。妹から軽く話を聞いて突っかかってくるハニー。それに同調するありす。彼女たちを言い負かし、挑んでくるハニーをねじ伏せた頃には、流鯉りゅうりはすっかり待ちくたびれていた。


 そこまでするぐらいなら、いっそ連れて来ればいいのに。呆れながらそう告げてくる彼女に対し、鍵玻璃は頑なに首を振った。


 あの子たちとは一緒にいられない。口論を交わすうち、熱を帯びていく過激な衝動を封じる中で、そう痛感させられたのだ。


 危険な熱の余韻は尾を引き、今でも鍵玻璃を炙ってくる。おかげで恐れは感じていないが……。


「……さっきから、心ここにあらずといった調子ですわね。平気ですか?」


 努めて己を縛り付けていると、流鯉りゅうりがそう問いかけてくる。


 鍵玻璃きはりは無表情を取り繕った。


「気にしなくていい」


「そうは言いますけどねぇ……」


「ちょっと疲れただけよ」


「……そうですか」


 流鯉りゅうりは肘を突いて手を組み、指の台座に顎を乗っけた。


 半眼でこちらを見つめるご令嬢を相手にしないでいると、食堂の扉が開かれる。


 ふたりはほぼ同時に立ち上がる。この邸宅の主たる男が、帰宅したのだ。


「すまない、遅くなってしまったな。おかえり、流鯉りゅうり。そしてようこそ、鍵玻璃きはりくん。我が家だと思ってくつろいで行ってくれ」


「お招きいただきありがとうございます、才原社長」


「君は我が校の生徒だ。ここでは理事長と呼んでくれ」


「……はい」


 鍵玻璃の前にやって来た辰薙は、想像以上に大きく見えた。


 身長は180センチほど。そこに広い肩幅と堂々たる風格が合わさり、巨人を前にしているようだ。


 差し出された手は分厚く、握り返すと固く、力強かった。決して痛みを感じる強さではない。それでも、自分という存在を握りしめられたかのような、恐怖に近い感覚に、全身が湧き立った。


 握手が終わり、彼が娘の方へ向かった後も、手の震えが止まらない。やかましく喚いていた狂気も檻から離れ、暗がりへと身を引くほどの何かに立ち竦んでいると、いつの間にか食事の準備が整っていた。


 辰薙はふたりの少女に椅子を勧める。


「さあ、まずは食事にしよう。ふたりが出会ったきっかけについて聞かせてくれ」


 ゆったりとしたジャズが流れ始め、食事が始まる。


 一定の間隔で運ばれてくる料理の味を分析し、伝えながら行う会話は、どこかぎこちないものだった。


 味は分かるが、美味かどうかはわからない。そんな鍵玻璃きはりを上手く話題に巻き込みながら、流鯉りゅうりは先の対戦の顛末までを語り聞かせた。


「というわけで、お父様に連絡させていただいたのですが……まさか、そんなオカルト話を持ち込むだなんて」


「お前は昔から、その手の話が苦手だったからな」


「ち、違います! ただその……やっぱり、荒唐無稽と言いますか」


 流鯉りゅうりはやや顔を赤くしながら、こちらを睨みつけてくる。


 荒唐無稽か。ナプキンで口元を拭い、鍵玻璃きはりはぼんやりと考える。自分も、そう思っていた。


 辰薙は微笑みながら食後のコーヒーに口をつけてから言った。


「だが、作り話というわけでもなさそうだ」


 太い指先がテーブルをトンと叩くと、いくつものディスプレイが展開された。


 それらはすべて、鍵玻璃きはりが通話の際に送ったものだ。


 退院した翌日から、今日までの間に調べ上げた情報の群れ。そこには、ありすの兄以外にも生徒が消えた形跡が記されていた。生徒名簿や卒業アルバムに点在する、奇怪な空白。


 名前や写真があってしかるべき場所に何もないのは序の口で、集合写真は一部が漂白されていたり、おかしな壊れ方をした動画ファイルまでもが存在していた。


 辰薙は、それらを厳しい眼差しで見やる。


「対戦で負けた相手を、人々の記憶から消すエデンズブリンガーの死神……そんな噂があるのは、耳にしていたがね」


「耳にしていただけ、ですか?」


 鍵玻璃きはりはうっそりと呟き、辰薙を直視した。


 辰薙はその視線を受け止める。流鯉りゅうりは発言の真意を捉えかね、身を乗り出した。


「どういう意味ですか、肌理咲きめざき鍵玻璃きはり?」


「覚えがあるはずです。五年前、あなたが直接動かしていた傘下企業……ヴェルテックス・プロダクションで。本来プロデュースしていた唯一のアイドルが消えたことを、あなたは覚えているのでは?」


「な……っ」


 流鯉りゅうりが目を丸くして父を見つめる。


 屋外テラスでは、生徒のことしか話していない。ありすの兄のことを調べるうちに見つけた、他の生徒も消されたと思しき痕跡と、自身の目撃証言のことしか。


 だが、本命はこっちの方だ。


 淡々と言葉を並べる鍵玻璃きはりに対し、辰薙のリアクションはシンプルだった。


「その通りだ」


 目を細める鍵玻璃と父を、流鯉は戸惑いながら交互に見やる。


 彼女は問いかける相手に迷った末、その矛先を鍵玻璃に向けた。


「お待ちなさい。あなたは……それをどこで調べたのです? 五年前といえば、あなたはまだ小学生のはずでしょう? 企業で起こったトラブルなど、どうやって……」


「流鯉、落ち着きなさい」


 たしなめられ、しぶしぶ腰を下ろす流鯉りゅうりの下に紅茶が運ばれてくる。


 鍵玻璃きはりが、同じように自分のカップに注がれた赤い液体を一瞥すると、瞳を大きく揺さぶる自分が映っていた。


 辰薙が話を本筋に戻す。


「あの時のことは、今でも記憶に新しい。ただひとりのために作られた事務所のはずなのに、そのひとりがいない。誰も名前を憶えていない、顔すら知らない。長い時間をかけて作った実績は、中身の無いプレゼントボックスも同然になってしまった」


「ラグナロクもそうでしょう。その年まで、エデンズの世界大会を連覇していたチャンピオンの名前も消えているはず」


「そうだ。不思議なことに、騒ぎにはならなかったがね。それもエデンズブリンガーの死神の仕業だと?」


 鍵玻璃きはりはうつむき、拳を握った。沸騰する溶岩のような音が脳裏に響く。死神の姿が目蓋にちらつく。記憶の影に過ぎないと言うのに、つかみかかって、ぐちゃぐちゃにしてやりたい。


 ―――今は……必要ない。出てくるな……っ!


 腹の底に狂気を押し込む。そうして絞り出した返答は、かすれていた。


「……確信したのは、四日……いえ、三日前。その時初めて、私は死神が本当にいるんだって。それまでは……。……それ、までは……っ、あいつが……!」


 喋っている間に、体の震えが抑えきれなくなってくる。


 視界がぶれる。映り込むのは悪夢ではなく、自分の過去だ。泣き叫びながら腕を振り回し、周囲の人を傷つける自分自身。


 檻を引っかく音にも似た不快な耳鳴り。ざわざわと不明瞭な声がする。ズキッ、と頭が強く痛んだ。


「ぐ……っ!」


「ちょ、ちょっと? どうしましたの? しっかりなさい、肌理咲きめざき鍵玻璃きはり!」


 頭を抱えた鍵玻璃の下に、流鯉が慌てて駆け寄ってくる。


 辰薙は冷静に指を鳴らした。


 数秒とせず、老執事がやってきてこの状況に驚き仰け反る。席を立った辰薙は、執事に告げた。


「客人が不調のようだ。客室で休む用意を。それと、医師を呼んでくれ」


「いえ、大丈夫です……それよりも、お願いが……っ」


 鍵玻璃きはり流鯉りゅうりの腕をつかみ、支えにして立ち上がる。


 引きずり倒されかかった流鯉は、思わず鍵玻璃を振りほどく。支えを失った両手が、テーブルに叩きつけられる。ティーカップが甲高い音を立てて倒れた。


 鍵玻璃の視界に、紅茶の染みが広がっていく。澄んだ紅色。それはまたたく間にどろりと濁った赤に変わった。否、目の錯覚だ。


 必死に顔を上げ、歪む視界の中で口を動かす。肺が息を断続的に吹き上げて、言葉を乱した。


「才原……理事長っ。力を貸してください……!」


「死神と戦うために、か」


 鍵玻璃きはりは髪を振り乱して頷いた。


 これが目通りを頼んだ目的。エデンズの元締めたる辰薙の力を借りることができれば、この長く続く苦悶の日々に、決着を着けられるはずだ。


 ―――そうすれば、きっと彩亜あーやさんも。


 命を振り絞るようなお願いに、辰薙はなんとも言えない表情を浮かべる。執事にハンドサインで指示を出し、彼は鍵玻璃の方を向く。


 その回答は。


「出来ない」


「――――――っ」


 顔を上げた鍵玻璃きはりの横顔を見て、流鯉りゅうりはびくりと鞭を打たれたように震えた。


 親の仇を睨むが如き、殺意に満ちた表情だった。


「どうして……っ! 私は!」


「わかっているはずだ」


 辰薙は鍵玻璃きはりの目の前に立つ。堂々たる立ち姿は巨人のようにも見え、鍵玻璃を半歩下がらせた。


 鍵玻璃の踵からふくらはぎにかけて、ビリビリとした痛みが走る。恐れるな、前に出ろ、戦え、と。それを押しとどめるのは理性ではなく思い出だ。物が壊れる音、叫ぶ両親、手足の折れた解恵かなえの姿が。


 不可視の腕が体を縛る。板挟みになり、その場に釘付けとなった鍵玻璃へ、辰薙は憐憫の眼差しを向けた。肩に手を置き、語りかける。


「もうやめなさい。君が戦う必要はない。君はすべてを忘れるべきだ」


「…………!!」


 忘れる。すべてを。その言葉を聞いた瞬間、鍵玻璃きはりの中で何かが千切れた。辰薙の手を振り払い、叫びながらつかみかかった。


 思考も理性もあったものではない。抑えきれなくなった狂気に駆られての行動。後先考えない突進は、しかし体格で優る大の男を動かすには至らなかった。


 辰薙は避けることもせずそれを受け入れ、悲しそうに目を伏せる。一方で流鯉りゅうりは泡を食って悲鳴を上げた。


「お父様! 誰か、人を……!」


「落ち着きなさい、流鯉。大丈夫だ」


「ですがっ!」


「大丈夫だ、見ていなさい」


 敬愛する父を傷つけられる危機感と、そんな状況にあっても動じない父の言葉に流鯉りゅうりはたじろぐ。当の本人は、つかみかかってきた鍵玻璃きはりの肩を叩いた。鍵玻璃が顔を跳ね上げた。


 理性の崩れた目は血走り、混沌とした炎が瞳孔の底に渦巻いている。歯を食いしばり、力を緩めて荒く息するということを繰り返す顎。紅潮しては青ざめる顔には脂汗が浮き、両手は震えていた。


 まるで悪霊に憑りつかれたような様子の鍵玻璃の前で、辰薙は力強く手を叩く。大きな音に驚いた鍵玻璃はハッと目を見開き、弾かれたように飛び退った。


 そこでようやく、自分が何をしようとしていたのか気付いたらしい。鍵玻璃は信じられないものを見たように己の両手を見下ろすと頭を抱えて屈みこんだ。


「あ、あああ……っ! ああああああっ!」


 頭を掻き毟り、激しく首を振る鍵玻璃に、今度は辰薙から近づいた。


 華奢な両肩に手を置くと、少女はビクッと大きく震える。怯えた表情で見上げる彼女に、辰薙は峻厳の如き言葉を投げかけた。


「落ち着きなさい。大丈夫だ、自分を責める必要はない。ゆっくり息をするんだ。そう、ゆっくりと」


 覚束ないながら、鍵玻璃きはりは指示に従って深呼吸をする。


 両肩が燃えるように熱い。先ほど握手した時と同じ、存在そのものをつかまれる感覚が狂気を退け、体の主導権を理性に譲り渡していく。


 不規則な呼吸が繰り返されて、手袋を嵌めた手がだらりと垂れ下がった。


 鍵玻璃は夜の海のような、暗く澄んだ瞳で呟く。


 そこに、光などない。


「……ごめん、なさい。私……」


「いいんだ」


 辰薙は鍵玻璃きはりを手近な椅子に座らせた。


 なんてことを。狂気から辛うじて主導権を取り返した鍵玻璃は、己の所業に恐怖しながらきつく肩を抱きしめる。


 目蓋の裏に、突き落とされた解恵かなえの姿が蘇る。彩亜あーやの消失に伴い生まれた制御できない感情が、決定的に牙を剥いたあの瞬間。


 もう二度と、繰り返したくないと思っていたのに。悔恨に囚われた鍵玻璃の傍に、辰薙が片膝を突いて問いかける。


 何事もなかったかのように。あるいは自分の娘を諭すように。


「いいかい、鍵玻璃くん。私は立場上、死神を野放しにはできない。だがそれ以上に、大人として君を守らねばならない。恐らく、死神の存在は、君をずっと苦しめてきたのだろう。心を壊し、学校にも通えなくなるほどに」


 鍵玻璃は濁った眼を微かに見開く。


 どうしてそれを、と言葉にならない声で問うと、辰薙は顎を引いて謝罪した。


「すまない、君の情報の裏取りをするついでに、君自身のことも調べさせてもらったよ。小学五年生の秋から中学二年生の春まで、メンタルクリニックに通院していたと。薬は、今も服用していると聞いた」


 頷く。精一杯のリアクションで応える鍵玻璃は、着ている制服のポケットに薬のケースが入っているのを思い出した。


 寮で揉めた折り、解恵かなえに押し付けられたものである。


 でも、飲みたくなかった。それがこんな事態を引き起こした。


 忘れたくなかったからだ。


 辰薙は絡まった糸を一本一本ほどくように話を続ける。


「五年前、君が小学五年生の時……君は死神と出会い、何か大切なものを失った。その時のショックが、今も君の中に残っている。そして……」


「や……やめて……」


 強張った舌をようやく動かして紡いだ言葉は、弱々しい拒絶。


 鍵玻璃きはりは椅子の上で体を丸め、額を膝に押し当てた。


 頭の中で喚き立てる、狂気としか呼べない何かが芽生えた頃は、まさに地獄の日々だった。崩れ去る、悪夢と現実の境界。家にいるのか悪夢にいるのか、目の前に立つのが家族なのか死神なのかもわからない。


 何もかもが溶け崩れ、混沌として、無限の苦痛を作り出す。恐怖と狂気が、体を勝手に動かした。遮二無二爪を振るわせる。


 爪が剥がれたって痛くない。傷つけたのが、死神か妹なのかも判別できない。


 やがて、本当に妹を傷つけたのかどうなのかさえ、わからなくなった。


 ―――でも、きっと傷つけた。それが多分真実で……私は、本当は……。


鍵玻璃きはりくん、落ち着きなさい」


 大きな手のひらが、頭を覆う。膝と前髪の隙間から、辰薙の目が見えた。


 心の深淵まで照らすが如き、理知の光をまとう灰色の瞳が。


「いいか。君の心は、複雑に絡まり合っている。そのせいでコントロールが効かなくなっているだけなんだ。丁寧に切り分けて、向き合いなさい。自分の心を、自分が本当に望んでいることを、はっきりと言葉してみなさい」


 鍵玻璃きはりはぼうっと辰薙を見上げた。


 彼の手に触れ、目を見ていると、不思議と心が落ち着いていく。


 なんだろう、こんな感覚をどこかで経験したことがあるような。そう思っていると、彼は立ち上がった。


「私はひとりの大人として、君を尊重したい。だがそのためには、まず君が、君自身の望みと向き合わねばな。自分の心を、狂気で片づけてはいけないよ。混沌を紐解いた先にこそ、ただひとつの答えがあるのだから」


 そう言って、彼は呼吸も忘れて事態を凝視していた流鯉りゅうりに微笑みかけて、執事にいくつか命を下す。


 鍵玻璃きはりは手袋を嵌めた指先で、自分の胸元に触れる。


 一時的に収まったものの、未だに巣食う己の狂気。


 それを紐解いた先に答えがある―――本当に、そうなのだろうか。


 流鯉にひっぱたかれるまで、鍵玻璃は答えの出ない問いに煩悶していた。

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