夕焼けのテラスに戻って来た
「勝っ……た。くっ」
眩暈を感じて首を振る。精神的な疲労のせいで、体が重い。細い勝ち筋をつかみ取った後に感じるのは、喜びでも安堵でもない。
仰向けに倒れ込んだお嬢様は、すっきりした表情で両腕を広げていた。
存分に遊びつくした子供のように目を閉じ、呼吸する彼女。その顔がなんだか憎たらしく思えてきて、
「起きなさい、お嬢様。私の勝ちよ、約束は守ってもらう……!」
「……もうちょっとこう、余韻というものはありませんの?」
目を開け、不服そうな顔をした
疲労困憊した鍵玻璃と違って、思いのほかすんなり立ち上がると、制服を軽くはたいた。
乱れた服を整えた流鯉は、やや唇を尖らせた。
「心配せずとも、約束を反故にはしませんわよ」
「なら、やって。今すぐ」
「せっかちな……構いませんけれど」
つっけんどんな言い方をされ、気分を害した様子の
手書き入力で文面をしたためながら、彼女はつらつらと言葉を並べる。
「言っておきますが、お父様は多忙なお方なので、いつ予定が空くかはわかりませんわ。返事にはそれなりの時間を要するかもしれませんわね」
「大丈夫、いつでも空いてる。それより、できれば直接会いたいんだけど」
「それは……まあ、お父様の予定次第ですが……」
父に伺いを立てるメッセージが問題なく送り届けられ、既読待ちの状態となる。
ともあれ、これで約束は半分満たした。後は向こう次第だ。
やや陰鬱に溜め息を吐く。父は善良だが、とんでもなく忙しい。流鯉からの紹介となれば無下にはしないだろうが。
「まあ、多忙とは言っても、早めにお返事は頂けますので、せいぜいお待ちなさいな。そうですね、遅くとも明日には返ってくるかと」
「多忙なんじゃなかったの?」
「とても多忙ですわ。ですが、お父様は家族とのコミュニケーションを優先してくださる方です。……言っておきますが、つまらない用事でお手を煩わせるつもりでしたら、容赦しませんわよ」
「つまらないかどうかは、あんたのお父様が決めることよ」
鍵玻璃は体を
自分は今、現実にいる。その感触に、口の端が引きつった。
「う……っ」
「ちょっとっ? どうかしたのですか?」
大きく傾きかけた肩を、
それを払い落して首を振ると、幻覚は一瞬で去った。代わりに、流鯉の心配そうな顔が映り込んでくる。
何やら思案顔をした彼女が口を開きかけると同時に、羽根ペン型の
流鯉はペンを振ってディスプレイを呼び出す。開かれたのは、先ほどのメッセージアプリ。程なくして、彼女の表情が驚きに染まる。
「返事来た? なんだって?」
「……今から通話してもいいか、と。どうします?」
「繋いで」
「仕方ありませんわね。くれぐれも礼を失することなきように!」
そう言うと、
数秒と経たず、ビデオ通話用のウィンドウが現れる。
映っていたのは、精悍な顔つきをした威厳ある男性だった。
丁寧に整えたプラチナシルバーの髪に、短く整えられた髭。バストアップでもその体格の良さと威厳がよく伝わってきて、
流鯉の父・
「元気にしているようだな、流鯉。そして……」
アッシュグレーの眼光がこちらを見据える。ただそれだけで、
しかし、辰薙の声はあくまで鷹揚で、どこか好々爺を思わせるものですらあった。
「初めまして、
「……初めまして、才原社長。私を知っているんですか」
「入学式の対戦を、私も見ていたからね。
苦い記憶を掘り返されて、ばつが悪くなる。
「お忙しいところ申し訳ございません、お父様。彼女がどうしてもお父様にお聞きしたいことがあると言うので……」
「構わない、娘が初めて友人を紹介してくれるというのだからな。それにそろそろ、お前の顔を一目見たいと思っていたタイミングでもある。さて」
首を縮め、眉をハの字にする娘を笑って
画面の前に並ぶふたりを同時に、真っ直ぐに見つめる姿は、まるで直接対面しているかのような錯覚を
まるで、彼の執務室に呼ばれたみたいだ。彼の存在そのものが、この場を支配している。これがカリスマというやつだろうか。
鍵玻璃は雰囲気に呑まれないよう己を叱りつけながら、背筋を伸ばす。
本題は、彼の方から問うてきた。
「それで、私に聞きたいことと言うのは?」
「……エデンズブリンガーの死神についてです」
一方で辰薙は、表情を変えないままにほう、と小さく呟いた。
⁂ ⁂ ⁂
“
レギオン:奮戦レベル3
パワー:3000
レギオンスキル①:『このレギオンの召喚時』“手を繋いでスイングバイ”1枚を手札に加える。
レギオンスキル②:『このレギオンの攻撃後』相手のハザードカウンターをX個増やす。Xはこのターン、このレギオンが攻撃した回数の半分(端数切り捨て)である。
お手々を繋いでくるっと回って、ふたりでずっと遠くまで。
⁂ ⁂ ⁂
ここに来たのは、僅か一分前。屋外テラスでエデンが開かれているのを発見し、まさかと思ってやって来たのだ。勘は的中。状況を見る限り、対戦相手は
ふたりがビデオ通話している相手の顔が、遠目に確認できる。ヴェルテックス・インダストリーズCEOの才原辰薙。
―――これ……どうなってるの……?
肩で息をしながら、解恵は困惑を飲み込めずにいた。
どうして姉が流鯉と戦っていたのか。なぜ、エデンズの生みの親にして
耳を澄ませば、微かに声が聞こえてくるが、内容までは聞き取れない。
“独り言の一言も聞き逃しちゃだめよ”
“決定的な場面に出くわしたら飛び出して、その場で詰めてやりなさい”
トレーナーの言葉が蘇る。
嫌われてでも真実が知りたいのなら、姉が何を抱えているのかを知りたいのなら。今すぐ出ていくべきか。それともハニーが来るのを待つべきか。
けれど、彼女たちの会話がいつ終わるかわからない。もし聞き逃してしまったら。
解恵は固唾を飲み込んで、テラスの扉に手をかける。
音を立てないようにゆっくり開くと、吹き込む夜風が姉の言葉を運んできた。
「いいえ、私ひとりで伺います。あの子たちには……関係ありませんから」
―――え?
私ひとりで。
あの子たちという言葉が自分やハニーを指しているのは、すぐに理解できた。
解恵は思い切ってテラスに踏み込む。夕焼けは消え、暗がりが鍵玻璃の顔を覆い隠していた。
「……お姉ちゃん? ここで何してるの……?」
「か、
驚愕した
やがて彼女は解恵に背を向け、辰薙に告げた。
「では、また後でお邪魔します」
「わかった。だが、本当にいいのか?」
「大丈夫です」
「……そうか。鍵玻璃くん、あまり感情的にならないようにな」
目を閉じた辰薙はそう言って、通話を切った。
解恵は姉に向かって踏み出し、喉に詰まった問いを吐き出そうとする。
何の話をしていたの? どこに行くつもりなの?
―――また、あたしを置いて行っちゃうの?
それらが言葉になるより早く、鍵玻璃は目の前までやってきて。
解恵を押しのけ、テラスから出て行った。
信じられないといった表情で後ずさりする解恵の背中を、
縋るように見上げると、彼女は気まずそうに目を逸らしてから、強張った笑みを浮かべてみせた。
「あ、ええと……気にする必要はありませんわ。鍵玻璃さんはただ、我が家に一泊するというだけですから」
「……どうして」
誤魔化すような声音は、
昨日まで縁もゆかりもなかった相手の家に、何故泊まりに行くなんて話になる?
なんで一言の相談もなしに。どれだけ心配されてるか、わかってないの?
ただ泊まりに行くだけならそう言えばいい。あんな態度、取る必要はない。
それに本来は自分たちも関係あるんじゃないの?
どうして、隠すの。
複数の疑問がいっぺんに爆ぜ、
「お姉ちゃん! 待ってよ、お姉ちゃん!」
胸を鋭利な爪で引き裂かれたかのような痛みを抱えて駆けていく。
姉妹の去ったテラスにひとり残された
「……おかしなひと」
エデンズブリンガーの死神なんてオカルト話を持ち出して、そのためにわざわざ
だが、彼女は正しかったのだろう。父はバカげた話を一笑に付すことなく、より詳しく聞きたいと言って、
たかがゲーム、そのはずだ。ホラー小説のようなことなど起こるはずもない。
冷たく、重く、ごわごわした風に吹かれて、流鯉は小さく身震いをした。