長らく暮らす実家の二階。そこから見える景色は、絶望的だ。
妹が、泣き叫んでいる。
手足は変な方向にねじ曲がり、寝返りも打てないらしい。
ぎゃんぎゃんと響く慟哭が、鍵玻璃の喉を強く抉った。
―――……違う……。
鍵玻璃は一歩よろめいた。父と母がリビングから飛び出してきて、
父が泡を食いつつも、解恵を丁寧に抱き上げる。見上げる母が鍵玻璃を捉える。
急いで駆け上がってきて、目線を合わせて肩を揺らした。何があったか問われるが、とっさには答えられない。
自分でも、目の前で起こったことが―――自分の所業が信じられなかった。
妹を、突き落としたなんて。
―――違う違う違う! 悪いのはカナだ! 忘れないって言ったのに!
―――嘘つきのカナが悪いの! みんなが悪いの! みんな、みんな、みんな!
心の中で、自分じゃない自分が地団駄を踏んで喚いている。
―――違う、こんなのあたしじゃない!
―――嫌いだ! カナなんて大っ嫌いだ! 嘘つき! 裏切者!
―――やめて、黙って! あたしの中から出て行って!
自分同士が心の中でせめぎ合う。
切羽詰まった母に対して、何も言えないでいると、事情を聞いたらしい父が怒鳴り込んで来た。
父と一緒に、母が叱りつけてくる。心の中の自分自身も便乗し、激しい頭痛に見舞われた。
耳を塞ぎ、泣き叫びながらうずくまる。誰の言葉も理解できない。自分が何を言っているのかさえわからない。時間が歪み、サイレンの音が脳を荒らした。
救急車の中、人の声。
病室の中、人の声。
情報の激流に溺れかかる。その中にあって、はっきりとわかったことが、ひとつだけある。
妹は歩くこともままならない体になった。
鍵玻璃に、突き落とされたせいで背骨が壊れた。
もう一度歩けるようになるかどうかはわからない。
一生を車椅子で過ごすことも覚悟しなければならない。
“お姉ちゃん、どうして……?”
―――違うの、カナ! あたしじゃない! あたしがそんなことするわけない!
“あたし、もう踊れない……?”
―――そんなことない! あたしが、いつもみたいに……助けてあげれば……!
“なんで、あんなことしたの?”
―――あんたのせいだ!
“
“ねえ、お姉ちゃん……どうして……”
“……どうしたの?”
脳が脆い石のように崩壊していく。粉々になった理性が、掻き毟って引き裂いた肌や血が、立方体の砂になって足場を覆う。
空が黒い。星も見えない。あるのは巨大な卵だけ。
砕け散った現実を、悪夢が取り込み練り上げていく。
鍵玻璃の上げる号哭に、妹の声が重なった。
お姉ちゃん、お姉ちゃん、と呪いのように呼びかけてくる。
いくら吠えても消えない声が、連なり鍵玻璃を埋め尽くしていく。
“お姉ちゃん、お姉ちゃん”
“お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん……”
解恵の声がだんだん大きく、はっきりと聞こえるようになってきた。
⁂ ⁂ ⁂
“
レリック:奮戦レベル1
レリックスキル:『相手のターン終了時』相手のデッキの1番上と手札のカード1枚をこのカードに融合させる。その後、自分の奮戦レベルが2以上なら、このレリックを破棄して“
⁂ ⁂ ⁂
「……姉ちゃん……お姉ちゃん……お願い、起きてよ、お姉ちゃあああん!」
「う……っ、う、うわぁぁぁぁっ!」
鼓膜を殴られ、
まず見えたのは、白いベッドだ。それから、青緑色の入院着。
全身汗だくになっていて、バケツの水を被ったみたいだ。
バクバクと心臓が血を巡らせるが、体は一向に熱くならない。肩で息をしていると、横から誰かが抱き着いてきた。
「お、お姉ちゃあああああん! お姉ちゃん、お姉ちゃんが起きたぁぁぁ! わあああああ!」
「カナ……
ふわふわとしたオレンジ色のショートヘアから、甘酸っぱい匂いが漂う。
力いっぱい抱きしめられた
眠っていたのは、実家でも寮の自室でもない。どうやら、病院の個室らしかった。
冷蔵庫を収めたチェスト、病院食を配するテーブル。調度品はそれぐらい。愛用の
―――どうして私、こんなところに……。
考えようとした途端、頭が痛んだ。眼球の裏まで響く苦痛に顔をしかめていると、
「お姉ちゃん、死んじゃうかと思った……! 起きて良かったよぉぉぉ……!」
「……起きて良かった。……
がらがらになった声で問うと、
拒絶されてなお、解恵は頭を押し付けてくる。撫でてやりたい。持ち上げた手を震わせていると、病室の扉が開かれた。
入室者はふたりいて、どちらも鍵玻璃を見て驚いている。
ありすとハニー。鍵玻璃のルームメイトたち。
「……
「きはりん……」
ふたりが口々に呟く。自慢のツインテールを下ろしたハニーは、肩にかけていたボストンバッグを床に落とすと、ずかずかと近づいてきた。
甘え続ける
ばちん、という湿っぽい音がして、痺れるような痛みが走った。
突然手を挙げられた鍵玻璃は、唖然としてハニーを見つめる。
琥珀色の瞳を潤ませたルームメイトは胸を膨らませて息を吸い、怒鳴り散らした。
「きはりんのバカ!」
窓硝子がビリビリと震える。ハニーはベッドサイドに手を突き、その場に崩れ落ちると、悲痛な涙声をまき散らす。
「いっ、一体……どこほっつき歩いてたのよ!? 門限になっても帰ってこないし、メッセージは返してこない! しかも病院送りになって……どんだけ心配したと思ってんの……! 何時間経っても起きないし……ばかっ、もうばかっ!」
感情の行き場を失った握り拳が、白いベッドを打ち据えた。
マットレスの振動を
何が何だかわからない。鍵玻璃の混乱を見て取ったありすが、うっそりと問う。
「覚えてないの? 昨日……いや、今日かな。
「ゲロ塗れって……」
「ゲロ塗れ。服も顔もぐっちゃぐちゃでさ。
「……何が……? 昨日の夜、は……。……!」
ありすの言葉を
夜中の帰路、ジャージの少年、死神、対戦。
そして、奪い取られたメリー・シャイン。
ぞっと鳥肌を立てた
それまでとは一転の素早い動きに三人が面食らう前で、エデンズのアプリを開き、デッキを確認。枚数、そしてリストをなぞる。
デッキは過不足なく、規定通り50枚。その中にはちゃんと、メリー・シャインも残っていた。
よかった。ほっと胸を撫で下ろす。何かを突き刺されたそこに、穴が空いていたりはしない。今更ながら、手足の感覚も指先まである。文字通りの五体満足。
「お、お姉ちゃん……?」
おずおずとした声を聞き、咳払い。
呼吸を整えながら、ぎこちなく首を振った。
「ごめん。何があったか、正直よく覚えてない。でも、大丈夫だから」
一方で、
―――夢、だったのかな。死神も、対戦も、何もかも。
―――でも……すごくリアルだった気がする。
まばたきのたび、天井が消え、あの真っ黒い空に切り替わる。砂地に横たわった自分を、三人の死神が見下ろしている。いつもは悲鳴を上げて目を逸らしたくなるほど恐ろしい光景。だが、今は不思議と何も感じない。
鍵玻璃は一度考えるのをやめ、目を閉じる。寝返りを打って背を向け、そこに知り合いがいると信じて問いかけた。
「あんたたち、学校は?」
「ぼくたちは公欠。病院から連絡あったし、ルームメイトだから」
「じゃあ
「あたしは家族だから。部活もお休みもらったよ」
「……そう」
ハニーは、目元を拭う解恵を見つめた。姉が起きて安心したのか、泣き顔に笑みが戻ってきている。
一方の鍵玻璃は、こちらに背を向けたっきり何も言わなくなってしまった。今すぐ彼女を引きずり起こし、怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られる。どれだけの人に心配をかけているのか、わかっていない。
けれど彼女が何か、大きく暗いものを抱えているのもなんとなくわかっていた。だから、叱りつける代わりに、憂いを帯びた調子で問う。
「……ねえ、きはりん。この際だから聞かせてよ。何か、悩み事とかあるの? 危ない人に狙われてるとか、そういうことはないんだよね……?」
「…………」
決して言わないという意思表示。だが、ハニーは納得しなかった。
身を乗り出し、鍵玻璃を揺すりながら毛布越しに呼びかける。鍵玻璃はそれを払いのけ、起き上がった。
「
「えっ? ええと……」
解恵の目が入口に転がるボストンバッグに向けられる。
ハニーは、ベッドから降りた
反射的に振り払おうとする彼女の腕は、強く指を食い込ませる。
「待って、きはりん。退院する気?」
「っ……それが、何……」
「それがじゃないよ!」
ハニーは
ハニーは顎を引き、厳しい視線を送って来た。
「ダメ、このまま行かせられない。しばらく病院で大人しくして、薬も飲んで。かなえんが持ってる常備薬、ここでもらえるみたいだし。だから……」
眼差しが沈み、声の調子も低くなる。
内に秘めた想いを堪え切れなくなったハニーは、
「ちゃんと元気になってよ。そしたら一緒に学校に行こ? 楽しいこといっぱいあるし……それでも解決できないような悩みごとがあるなら、話してよ。力になるから。ひとりで抱え込まないで」
「……無理」
そう、無理だ。分かち合うことなんてできない。五年も前に、嫌でも理解させられた。騒ぎ出した狂気と、夢現の区別がつかない限り。
―――今だって……あんたがどっちか、わからないのに。
真実、心配してくれている友人か? それとも罠にかけ弄ぼうとする死神か? そのどちらでもないのだろうか。
鍵玻璃は喉にせり上がってくる苦しみを堪え、ハニーを真横に押しのける。
ボストンバッグを拾い上げると、今度はありすから質問が来た。
「いいの?」
「病院は……嫌いなの」
―――
「着替えるから、三人とも出て行って」
ハニーは何か叫びかけるが、ありすがその手を握って制止する。ありすは首を振り、ハニーを引いて出て行った。ボストンバッグのジッパーが開かれ、深い峡谷を作り出す。
「お姉ちゃん……」
「あんたも早く外に出て。着替えられないから」
「て、手伝うよ!」
「いらない」
バッグの中を漁りつつ、
バッグの中の闇が溶け出し、虚空に墨汁のように広がっていく。その中に昨夜の光景が、少しだけ鮮明に見えた。
エデンズで戦ったこと。メリー・シャインを奪われたこと。悪夢の卵のカード。ひとつひとつ反芻しているうちに、ふと手が止まった。
何か、強い違和感がある。その正体は、あの白い髪をした少年。
―――そういえば……あの人は、なんだったんだろう。
死神に追われ、恐怖し、そして恐らく対戦していた。何より、彼は死神には見えなかった。……初めての体験。
「お姉ちゃん、どうしたの? やっぱりどこか悪いんじゃ……」
手を止めて考え始める
鍵玻璃は慌てて目を逸らし、中の服を引っ張り出した。
その間も、ずっとあの少年が頭について離れない。
幼い自分と重なり合った、彼の姿が。