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第14話 夢現融解/白い部屋にて

 鍵玻璃きはりは、階段の下を呆然と見下ろしていた。


 長らく暮らす実家の二階。そこから見える景色は、絶望的だ。


 妹が、泣き叫んでいる。


 手足は変な方向にねじ曲がり、寝返りも打てないらしい。


 ぎゃんぎゃんと響く慟哭が、鍵玻璃の喉を強く抉った。


 ―――……違う……。


 鍵玻璃は一歩よろめいた。父と母がリビングから飛び出してきて、解恵かなえを抱き起こす。娘の惨状を見て、何が起こったのか察したらしい。


 父が泡を食いつつも、解恵を丁寧に抱き上げる。見上げる母が鍵玻璃を捉える。


 急いで駆け上がってきて、目線を合わせて肩を揺らした。何があったか問われるが、とっさには答えられない。


 自分でも、目の前で起こったことが―――自分の所業が信じられなかった。


 妹を、突き落としたなんて。


 ―――違う違う違う! 悪いのはカナだ! 忘れないって言ったのに!


 ―――嘘つきのカナが悪いの! みんなが悪いの! みんな、みんな、みんな!


 心の中で、自分じゃない自分が地団駄を踏んで喚いている。


 鍵玻璃きはりは立ち竦みながら、その声を突き放し、目を逸らし、耳を塞いだ。


 ―――違う、こんなのあたしじゃない!


 ―――嫌いだ! カナなんて大っ嫌いだ! 嘘つき! 裏切者!


 ―――やめて、黙って! あたしの中から出て行って!


 自分同士が心の中でせめぎ合う。


 切羽詰まった母に対して、何も言えないでいると、事情を聞いたらしい父が怒鳴り込んで来た。


 父と一緒に、母が叱りつけてくる。心の中の自分自身も便乗し、激しい頭痛に見舞われた。


 耳を塞ぎ、泣き叫びながらうずくまる。誰の言葉も理解できない。自分が何を言っているのかさえわからない。時間が歪み、サイレンの音が脳を荒らした。


 救急車の中、人の声。


 病室の中、人の声。


 情報の激流に溺れかかる。その中にあって、はっきりとわかったことが、ひとつだけある。


 妹は歩くこともままならない体になった。


 鍵玻璃に、突き落とされたせいで背骨が壊れた。


 もう一度歩けるようになるかどうかはわからない。


 一生を車椅子で過ごすことも覚悟しなければならない。


“お姉ちゃん、どうして……?”


 ―――違うの、カナ! あたしじゃない! あたしがそんなことするわけない!


“あたし、もう踊れない……?”


 ―――そんなことない! あたしが、いつもみたいに……助けてあげれば……!


“なんで、あんなことしたの?”


 ―――あんたのせいだ! 彩亜あーやさんを知らないなんて言うから!


彩亜あーやさん? 彩亜さんって誰? あたしよりも大事な人なの?”


“ねえ、お姉ちゃん……どうして……”


“……どうしたの?”


 鍵玻璃きはりはたまらなくなって絶叫した。


 脳が脆い石のように崩壊していく。粉々になった理性が、掻き毟って引き裂いた肌や血が、立方体の砂になって足場を覆う。


 空が黒い。星も見えない。あるのは巨大な卵だけ。


 砕け散った現実を、悪夢が取り込み練り上げていく。


 鍵玻璃の上げる号哭に、妹の声が重なった。


 お姉ちゃん、お姉ちゃん、と呪いのように呼びかけてくる。


 いくら吠えても消えない声が、連なり鍵玻璃を埋め尽くしていく。


“お姉ちゃん、お姉ちゃん”


“お姉ちゃん、お姉ちゃん、お姉ちゃん……”


 解恵の声がだんだん大きく、はっきりと聞こえるようになってきた。


⁂   ⁂   ⁂


幻界げんかい揺卵ようらんXEGGゼッグHVNヘヴン

レリック:奮戦レベル1

レリックスキル:『相手のターン終了時』相手のデッキの1番上と手札のカード1枚をこのカードに融合させる。その後、自分の奮戦レベルが2以上なら、このレリックを破棄して“幻界雛げんかいすうRedレッドXamサム”を1体場に出す。


⁂   ⁂   ⁂


「……姉ちゃん……お姉ちゃん……お願い、起きてよ、お姉ちゃあああん!」


「う……っ、う、うわぁぁぁぁっ!」


 鼓膜を殴られ、鍵玻璃きはりは弾かれたように飛び起きた。


 まず見えたのは、白いベッドだ。それから、青緑色の入院着。


 全身汗だくになっていて、バケツの水を被ったみたいだ。


 バクバクと心臓が血を巡らせるが、体は一向に熱くならない。肩で息をしていると、横から誰かが抱き着いてきた。


「お、お姉ちゃあああああん! お姉ちゃん、お姉ちゃんが起きたぁぁぁ! わあああああ!」


「カナ……解恵かなえ……?」


 ふわふわとしたオレンジ色のショートヘアから、甘酸っぱい匂いが漂う。


 力いっぱい抱きしめられた鍵玻璃きはりは、きょとんと辺りを見回した。


 眠っていたのは、実家でも寮の自室でもない。どうやら、病院の個室らしかった。


 冷蔵庫を収めたチェスト、病院食を配するテーブル。調度品はそれぐらい。愛用のD・AR・Tダアトはチェストの上に。


 ―――どうして私、こんなところに……。


 考えようとした途端、頭が痛んだ。眼球の裏まで響く苦痛に顔をしかめていると、解恵かなえがぐずぐずと洟を鳴らしながら訴えてくる。


「お姉ちゃん、死んじゃうかと思った……! 起きて良かったよぉぉぉ……!」


「……起きて良かった。……が?」


 がらがらになった声で問うと、解恵かなえが物言いたげにこちらを見つめた。頬をぷっくりと膨らませ、頭を突き出す。


 鍵玻璃きはりは顔をしかめ、妹の頭を押し返した。


 拒絶されてなお、解恵は頭を押し付けてくる。撫でてやりたい。持ち上げた手を震わせていると、病室の扉が開かれた。


 入室者はふたりいて、どちらも鍵玻璃を見て驚いている。


 ありすとハニー。鍵玻璃のルームメイトたち。


「……鍵玻璃きはり、起きてる」


「きはりん……」


 ふたりが口々に呟く。自慢のツインテールを下ろしたハニーは、肩にかけていたボストンバッグを床に落とすと、ずかずかと近づいてきた。


 甘え続ける解恵かなえを剥がし、鍵玻璃きはりの頬を強く張る。


 ばちん、という湿っぽい音がして、痺れるような痛みが走った。


 突然手を挙げられた鍵玻璃は、唖然としてハニーを見つめる。


 琥珀色の瞳を潤ませたルームメイトは胸を膨らませて息を吸い、怒鳴り散らした。


「きはりんのバカ!」


 窓硝子がビリビリと震える。ハニーはベッドサイドに手を突き、その場に崩れ落ちると、悲痛な涙声をまき散らす。


「いっ、一体……どこほっつき歩いてたのよ!? 門限になっても帰ってこないし、メッセージは返してこない! しかも病院送りになって……どんだけ心配したと思ってんの……! 何時間経っても起きないし……ばかっ、もうばかっ!」


 感情の行き場を失った握り拳が、白いベッドを打ち据えた。


 マットレスの振動をももで感じ取りながら、鍵玻璃きはりは言うべき言葉を探す。


 何が何だかわからない。鍵玻璃の混乱を見て取ったありすが、うっそりと問う。


「覚えてないの? 昨日……いや、今日かな。鍵玻璃きはり、道端に倒れてたんだよ。しかもゲロ塗れのひどい恰好で」


「ゲロ塗れって……」


「ゲロ塗れ。服も顔もぐっちゃぐちゃでさ。解恵かなえは寮を飛び出すし、かと思ったら救急車で病院に送られたりして。怪我もないし、先生はストレスによるものだろうって言ってたけど、昨日の夜、何があったの?」


「……何が……? 昨日の夜、は……。……!」


 ありすの言葉を反芻はんすうしていると、痛む脳裏に記憶の断片が蘇ってきた。


 夜中の帰路、ジャージの少年、死神、対戦。


 そして、奪い取られたメリー・シャイン。


 ぞっと鳥肌を立てた鍵玻璃きはりD・AR・Tダアトをつかむ。


 それまでとは一転の素早い動きに三人が面食らう前で、エデンズのアプリを開き、デッキを確認。枚数、そしてリストをなぞる。


 デッキは過不足なく、規定通り50枚。その中にはちゃんと、メリー・シャインも残っていた。


 よかった。ほっと胸を撫で下ろす。何かを突き刺されたそこに、穴が空いていたりはしない。今更ながら、手足の感覚も指先まである。文字通りの五体満足。


 D・AR・Tダアトを額に上げ、両手を握っては開いていると、解恵かなえが豆鉄砲を喰らった鳩みたいな顔で問いかけてくる。


「お、お姉ちゃん……?」


 おずおずとした声を聞き、咳払い。


 呼吸を整えながら、ぎこちなく首を振った。


「ごめん。何があったか、正直よく覚えてない。でも、大丈夫だから」


 解恵かなえたちが互いの顔を見合わせる。


 一方で、鍵玻璃きはりは慣れない作り笑いを引っ込め、額に手を当てた。


 ―――夢、だったのかな。死神も、対戦も、何もかも。


 ―――でも……すごくリアルだった気がする。


 まばたきのたび、天井が消え、あの真っ黒い空に切り替わる。砂地に横たわった自分を、三人の死神が見下ろしている。いつもは悲鳴を上げて目を逸らしたくなるほど恐ろしい光景。だが、今は不思議と何も感じない。


 鍵玻璃は一度考えるのをやめ、目を閉じる。寝返りを打って背を向け、そこに知り合いがいると信じて問いかけた。


「あんたたち、学校は?」


「ぼくたちは公欠。病院から連絡あったし、ルームメイトだから」


「じゃあ解恵かなえは?」


「あたしは家族だから。部活もお休みもらったよ」


「……そう」


 ハニーは、目元を拭う解恵を見つめた。姉が起きて安心したのか、泣き顔に笑みが戻ってきている。


 一方の鍵玻璃は、こちらに背を向けたっきり何も言わなくなってしまった。今すぐ彼女を引きずり起こし、怒鳴りつけてやりたい衝動に駆られる。どれだけの人に心配をかけているのか、わかっていない。


 けれど彼女が何か、大きく暗いものを抱えているのもなんとなくわかっていた。だから、叱りつける代わりに、憂いを帯びた調子で問う。


「……ねえ、きはりん。この際だから聞かせてよ。何か、悩み事とかあるの? 危ない人に狙われてるとか、そういうことはないんだよね……?」


「…………」


 鍵玻璃きはりは毛布を被った。


 決して言わないという意思表示。だが、ハニーは納得しなかった。


 身を乗り出し、鍵玻璃を揺すりながら毛布越しに呼びかける。鍵玻璃はそれを払いのけ、起き上がった。


解恵かなえ、私の服」


「えっ? ええと……」


 解恵の目が入口に転がるボストンバッグに向けられる。


 ハニーは、ベッドから降りた鍵玻璃きはりの手首をつかんだ。


 反射的に振り払おうとする彼女の腕は、強く指を食い込ませる。


「待って、きはりん。退院する気?」


「っ……それが、何……」


「それがじゃないよ!」


 ハニーは鍵玻璃きはりの顔を覗き込む。鍵玻璃は目を背けハニーの手から逃れようと力を込めるが、力はハニーの方が強い。


 解恵かなえはどちらに味方すればいいかわからず右往左往し、ありすは事の成り行きを見守っている。


 ハニーは顎を引き、厳しい視線を送って来た。


「ダメ、このまま行かせられない。しばらく病院で大人しくして、薬も飲んで。かなえんが持ってる常備薬、ここでもらえるみたいだし。だから……」


 眼差しが沈み、声の調子も低くなる。


 内に秘めた想いを堪え切れなくなったハニーは、鍵玻璃きはりの肩口に額を置いた。ぴくっ、という振動が、スキンシップを歓迎していないと告げて来た。


「ちゃんと元気になってよ。そしたら一緒に学校に行こ? 楽しいこといっぱいあるし……それでも解決できないような悩みごとがあるなら、話してよ。力になるから。ひとりで抱え込まないで」


「……無理」


 鍵玻璃きはりはポツリと呟いた。


 そう、無理だ。分かち合うことなんてできない。五年も前に、嫌でも理解させられた。騒ぎ出した狂気と、夢現の区別がつかない限り。


 ―――今だって……あんたがどっちか、わからないのに。


 真実、心配してくれている友人か? それとも罠にかけ弄ぼうとする死神か? そのどちらでもないのだろうか。


 鍵玻璃は喉にせり上がってくる苦しみを堪え、ハニーを真横に押しのける。


 ボストンバッグを拾い上げると、今度はありすから質問が来た。


「いいの?」


「病院は……嫌いなの」


 ―――解恵かなえを突き落とした時のこと、思い出すから。


「着替えるから、三人とも出て行って」


 鍵玻璃きはりは誰とも目を合わせないまま、ボストンバッグをベッドに置いた。


 ハニーは何か叫びかけるが、ありすがその手を握って制止する。ありすは首を振り、ハニーを引いて出て行った。ボストンバッグのジッパーが開かれ、深い峡谷を作り出す。


 解恵かなえが心配そうに呼びかけてくる。


「お姉ちゃん……」


「あんたも早く外に出て。着替えられないから」


「て、手伝うよ!」


「いらない」


 バッグの中を漁りつつ、鍵玻璃きはりは物思いに耽る。


 バッグの中の闇が溶け出し、虚空に墨汁のように広がっていく。その中に昨夜の光景が、少しだけ鮮明に見えた。


 エデンズで戦ったこと。メリー・シャインを奪われたこと。悪夢の卵のカード。ひとつひとつ反芻しているうちに、ふと手が止まった。


 何か、強い違和感がある。その正体は、あの白い髪をした少年。


 ―――そういえば……あの人は、なんだったんだろう。


 死神に追われ、恐怖し、そして恐らく対戦していた。何より、彼は死神には見えなかった。……初めての体験。


「お姉ちゃん、どうしたの? やっぱりどこか悪いんじゃ……」


 手を止めて考え始める鍵玻璃きはりを、解恵かなえが横から覗き込む。


 鍵玻璃は慌てて目を逸らし、中の服を引っ張り出した。


 その間も、ずっとあの少年が頭について離れない。


 幼い自分と重なり合った、彼の姿が。

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